*天才少年

 ──次の日、アリシアと少年はグランドピアノを前にして楽譜をめくる。

「ピアノを触ったことは?」

「ありません」

 答えた少年にアリシアが見せた楽譜は、十歳までの子どもが一本の指でも弾けるレベルのものだ。

「基本ならデータを見ました。その楽譜では私はすぐに終ってしまいます」

 少し困ったようにアリシアを見上げる。

「そ、そう」

 アリシアは慌ててその楽譜を仕舞い、別の楽譜を取り出した。しかし、それは彼女がベリルの勉強の合間に覚えようと思っていたもので、とても子どもが弾けるようなレベルじゃない。

「あ~……」

 どうしよう、この二つしか持ってきてない。

「あ、これはちょっと無理だから。別の楽譜を持って──」

「それで構いません」

 言い終わらないうちに返された言葉に苦笑いを固めた。目を丸くしているアリシアの手から楽譜を取って無言で見つめる。

「あの、ベリル」

 いくらなんでも初めてでこれを弾くなんて無理よ。アリシアの心配をよそに少年は楽譜を譜面板に置き、やや迷いながらも鍵盤を弾いた。

「え!?」

 ぎこちないけど間違ってない。

 時折たどたどしくはなるものの、その旋律は正しく奏でられていた。ここまでの天才少年だとはとアリシアは感嘆する。

「アリシア先生」

「え、何?」

「ここはどう弾けばいいのですか?」

「ああ、ここはね」

 指し示されている箇所を確認し、ふとベルハースの言葉を思い出す──技術よりも感情の強調を──確かに、少年に技術を教える必要はほとんどないのかもしれない。



 およそ一時間の授業を終え、アリシアは自分の部屋に戻った。

「はあ~……」

 溜息を吐きながらベッドに体を投げる。ベリルはあれからすぐに別の講義を受けていたが、彼女には初めての事で精神的に疲れていた。

「あんな子ども、私に教えられるのかな」

 不安げにうなだれる。

 一時間ほどの間に少年が見せた表情はほとんど無く、ベルハース教授の言葉が多少なりとも解った気がした。

 小さく笑う程度で、怒る事も泣く事も無い。ただ淡々とアリシアの授業を受けているだけだ。

 でも、あの子には感情が無い訳じゃないのもなんとなく解る。普通の子どものように出来ないだけなんだ。

 どうすればあの子が喜ぶような事が出来るのだろう。私は何をすればいいのだろう。

 アリシアはそればかりを考えて静かに眠りについた。



 ──ベリルは知識を吸収していき、九歳になる頃には高い大学レベルにまで達していた。

 とても九歳とは思えない大人びた言動は不思議と相応しくも感じられた。

「いいか? ベルハース。この世界は一人の支配者がいればいいんだ」

「なんだそれは」

 食堂でコーヒーを傾けていたベルハースに、ハロルドが演説気味に発した。

「あの子はまさにぴったりだとは思わんか?」

「ハッハッ! あの子は脳に関する研究でここにいるだけだよ」

 いくら古い友人とはいえ本当の事を話す訳にはいかない。しかし、ハロルドは興奮したようになおも続けた。

「この世界はすでに飽和状態だ。誰かが統治をしなければ崩壊する──」

 自分の言葉にでも酔っているのか、立ち上がり歓喜に震えながら遠ざかっていく。

 さらに熱を帯びて語っているようだが、ベルハースには聞こえなかった。



 ──その数日後、研究室のベルハースに訃報が伝えられた。

「ハロルドが?」

 音を立てて椅子から立ち上がる。あのあと、ハロルドが心臓発作で息を引き取ったという。

 まだ三十一歳という若さだったのに……。ベルハースは小さく溜息を漏らして力なく椅子に腰を落とした。

 遺体は施設の外に出され、かつての教え子たちが荼毘だびに付すという。この国では日本のように火葬の風習がある。英語圏ではあるがその部分だけは違っていた。

「そういう訳だから、次の言語学者が来るのは一週間後だ」

「解りました」

 少年はベルハースの報告に目を伏せた。

 四歳あたりから街に設置してある監視カメラの映像や過去の戦争など、人類の歴史を学ばせてきたが──この子は感受性が強いのかもしれない。ただ、それを表情に出す事をしないだけなのだ。

 しないのか出来ないのかは解らない。しかし感情が無いのではなく、もしかしたら我々とは異なるスピードで数々の事柄を考えているのではないだろうか。

 ベルハースは少年の窺い知ることの出来ない表情を見下ろす。

 色々な事をさせて成長の経過や健康、精神面に関する検査を行っているが、この結果は細胞の発現といえるのだろうか。全てにおいて、通常の人間の数値を超えている。

 ただ一つ、欠落していたのは生殖能力においてだ。その行為自体にはなんら問題は無いだろう。しかし遺伝子を受け継ぐ能力には欠けている。

「ベリルか」

 今更ながら、ベルハースはそう名付けた事に恐怖を感じた。

 ベリルとは緑柱石から造られる宝石の総称、そして緑は悪魔の色とされている。レジデントは「居住者」を意味し、「悪魔の器」と読む事が出来る。

 エメラルドは今の技術では決して人工的に造る事の出来ない鉱石だ。

 まるで、「ただ一つの存在」だと言わしめるような検査結果の数々に、ベルハースはふつふつと不安を沸き立たせた。

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