第二話 錦森美矢は、争い事を好まない。 一

 第一話を読んだ後、年間千冊読破少女は、私に向かってこうののたまった。

「貴方、もしかして私の話を全然聞いていなかったのかしら? どうして小説の冒頭に面倒な文章を詰め込むのよ。これでは一見さん、チラ見でブラウザバック必死よ。それに貴方、確かラブコメと言っていたはずだよね」

 私は鼻から息を吐いて、こう答えた。

「その通りだ。問題はここからなのだ」

「何か策があるというのかしら?」

 少女の問いかけに、私は頷いた。

「ここで、皆様のお好きな要素が大量投入されるのだよ」


***


「お兄様、時間ですよ。起きて頂戴、お兄様」

 耳元でそう囁く声がする。そして、頬にかかる吐息が生暖かい。

 これはほぼいつものことなので、俺は薄っすらと目を開けると、隣に横たわっていた少女に言った。

良子よしこ、また俺に無断で部屋に入ったな」

「そうですが何か問題でも、お兄様。私とお兄様の間柄ではありませんか」

 全く悪びれもせず、むしろ誇らしげにすら感じられる口調で、俺の妹の佐藤良子がそう言い切った。

 俺は溜息をつく。

「世間ではこういう関係はあらぬ誤解を生むから、やめておけと再三忠告したはずだ」

「あら、わたくしは全然構わなくてよ。お兄様とただれた関係だなんて、何て甘美なことでしょう」

 そう言いながら鼻息を荒くする妹を見て、俺は眉をひそめた。

 が、これは俺がいた種が見事に発芽した結果でもある。だから、一方的に怒るわけにはいかない。

戯言ざれごとはここまでだ。そろそろ学校に行く準備をしなければならない時間だからな」

「もう、つまらないわね。分かりましたとも」

 そう言いながら、良子は布団から出る。俺は再び溜息をついた。

 俺の部屋は二階にあるから、妹の後に続いて階段を下りる。顔を洗うために洗面所に向かう途中、リビングの隣を通ると、中から親父の声がした。

「一郎、お小遣いはまだ充分にあるのかね」

 これもまたいつもの台詞セリフである。俺は笑顔を作りつつ、

「ああ、大丈夫。問題ないよ、親父」

 と言った。すると、俺の親父――佐藤さとう俊夫としおは、僅かに悲しそうな顔をした。

「……そうなのかい。それなら仕方がないが、でも少しでも手元が心細くなったら、すぐに私に言うのだよ」

「ああ分かっているよ、親父」

 そう言いながら俺はリビングから立ち去る。

 洗面所にいくと、お湯で髪と顔を洗った。

 昔はほとんど洗ったことはなかったが、魔法による防壁が汚れすら寄せつけなかったので問題はなかった。魔法が使えなくて面倒ではあるものの、この習慣は意外に気持ちが良い。気分が切り替わる。

 顔を濡らしたままで右手側にあるはずの手拭を手探りしていると、柔らかい布が指に触れた。壁に固定された手拭かけにしては、随分と具合の良い位置にある。むしろ手拭のほうが空間を漂って手元にやってきたように感じられる。

 そしてまた耳元で囁き声がした。

「一郎、お母さんが髪を乾かしてあげましょうか」

「いやお袋、それには及ばないよ。それくらいは自分で出来るから」

 そう言いながら俺が手拭で顔と髪を拭い始めると、お袋の不満そうな声が聞こえた。

「あら、そうなの。本当に残念だわ。じゃあ、困った時にはいつでもお母さんの名前を呼びなさいね」

 そう言いながら、お袋――佐藤さとう和子かずこが立ち去る気配を背中で感じながら、俺は小さく溜息をついた。今日はもう三度目である。ペースが速い。

 ――まあ、これも自業自得だよな。

 両親と妹は俺の『声』を頻繁に聞いた影響で、顕在的従属関係に陥っていた。魔法や言語論理術式に耐性のない人間にとって、『声』というのは副作用のない麻薬のようなものである。依存性があるので、親父は俺に激甘だし、お袋は俺なしでは生きていけないほどに面倒をみようとする。妹に至っては、すっかり『御兄様症候群』をこじらせていた。

 それもこれも、幼少時の俺が無自覚に『声』を使い続けたことが原因であったから、知らなかったこととはいえ、責任は俺にある。俺は基本的に「知らない」ことを責任回避の理由にはしたくなかった。

 これは上に立つ者にとっては、自明のことであろう。

 そうでなくては、部下に仕事を任せることなぞ出来ない。


 *


 両親と妹の、隙あらば仕掛けようとする姿勢に用心しながら、俺は通学準備をして、朝食を食べ、玄関で靴を履いた。

 なんだか靴が生暖かい。お袋が何か言いたげな顔をしていたが、あまり喜ばせすぎると行為がどんどんエスカレートするので、今回はあえて無視する。それが「放置プレイ」のように感じられたのだろう。お袋は俺が玄関の扉を閉める瞬間まで、身体をよじらせていた。

 俺は自宅の門のところまで出る。

 すると、門の外に二人の小学生が待ち構えていた。隣の錦森にしきもり家の双子、姉のあさと弟のゆうである。

 そして、やはり二人とも「御兄様症候群」を拗らせていた。妹の良子と同級生で、頻繁に我が家に遊びに来ていたものだから、『声』の影響と無縁ではいられなかったのだ。

「お早うございます、一郎兄様。今日から高校生でございますわね」

 姉の朝が怪しげな丁寧語でそう言うと、

「誠に重畳に御座います。一郎兄様。本日もご壮健で何より」

 と、弟の夕が時代を間違えているとしか思えない台詞を口にする。

 二人とも、他の人には小学生らしいものの言い方をするので、余計にややこしい。まあ、親父にしてもお袋にしても妹にしても、俺以外にはごく一般的かつ常識的な言動をしているので、人間にとってはそういう風に作用する術式なのだろう。その点には感謝するところであるが、いずれにしても俺にとっては鬱陶しいことこの上ない。どうにかして解除したかったが、それには魔法の力が必要だった。術式である『声』と違って、魔法の発現には魔素が必須であったから、そもそも魔素の乏しい地球においては、非常に困難なことなのだ。

 俺は双子に笑いかけると、言った。

「ああ、有り難う。それでは俺は行くよ。君達には良子の世話をお願いするね」

 双子は陶然とした顔で、重なるように答える。

「「確かに承りました、お兄様」」

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