006 魔王の末路

 飛び込んだ先には、闇が広がっていた。

 呼吸はできる。何かがぶつかって来たり、何かに押しつぶされたり、何かが襲いかかって来ることも無かった。ただ、じわじわと何かが身体の中に染み込んで来るような、不吉な感覚がある。

 音はない。ぞっとするほど静かだった。

 闇に目が慣れ始めたのか、足元と自分の手足の影は見えるようになった。そろそろと、地面を確かめるようにして歩き出す。

「魔王様、セレネです! 聞こえますか!」

 返事はない。まだ声も届かないほど遠くにいるのか。それとも彼は、もう声も出せないような状態なのか。

(落ち着け。必ず見つける。必ず探し出す。ここはそんなに広くない。あの子はどこかにいる)

 自分に言い聞かせるように繰り返す。早くあの子の元へ。魔王の元へ。

 胸の内側をじりじりと焼かれるような焦燥に耐えているうちに、視界の隅に白い光を見つけた。光は少しずつ広がり、教会の壁画と同じくらいの大きさになる。

 光の中で広がった景色も、つい先ほど教会の中で見た壁画とよく似ていた。


 白く輝く光の中に立つ若者と、禍々しい闇の中に倒れ伏す何か。最初の英雄と魔王だ。英雄は倒れ伏す魔王を鋭く睨みつけ、剣を突きつけている。闇の中の魔王が顔を上げ────姿形がはっきりしていないのに、何故かそこが顔らしいと理解できた────にやりと不気味に笑う。

「これで終わると思うなよ、人間」

「…………負け惜しみだな。お前は滅びる。勝ったのは正義だ」

「お前達が正義だと? 誰が決めた? アスタが認めたからか?」

「よくわかっているじゃないか。アスタ様は正義の神だ」

「そうか。アスタが言えばそれが正義か。ふふふふふ、人間とは愚かよなあ」

 英雄と魔王がやり取りをしている間にも、セレネは足を止めなかった。

 光の壁画は滑るように、ぴたりとセレネの横について来る。

「倒されたとは言え私も神だ。お前達が目を背け、蓋をし、見て見ぬ振りをして押し付けてきた異端なるもの。゛正義゛を倒すことは叶わなかったが、最後に神らしい置き土産でも残そうか」

「好きなだけ言うが良い。滅びの神が何を遺そうと、正義が必ず貴様らを滅ぼす。」

「ふふふふふ、いくら正義を唱えたところで、何の意味もない。罪も苦痛も悲哀も癒すことなどできぬ。私を倒したところで、私の力は消えはせぬ。私の力は世界を滅ぼすもの。その力の器たるこの私が消えたら、世界は一体どうなるかな?」

「………なんだと?」

「お前のせいで、世界が滅びるのさ」

 英雄の顔が引きつった。最初の魔王が低い声で言う。

「勘違いするなよ、英雄。これは私を倒せと命じたアスタが引き起こしたこと。お前達の言う正義がなされた結果だ。お前達の正義が、この世界を滅ぼすのだ」

「そんな…………そんなはずは!」

「嘘だと思うのなら試してみれば良い。この力を解放したその瞬間に、世界が残って居れば良いけどなあ」

 魔王が笑いながら闇の中へ溶けていく。それを、英雄は呆然と見つめていた。


 光が消える。また広がる。最初とは違う光景が映っていた。

 草花が灰となり、木の大半がへし折れている、焼け焦げた黒い森。そこで、目から血の涙を流した男がのたうちまわっていた。それを、青ざめた顔の少女がじっと見つめている。彼女の手には、血塗られた細身の剣があった。

 二番目の魔王と英雄。剣を握ったこともない村娘が、最凶最悪の魔王を倒した場面。

「何故だ! 何故ですか! アスタ様!」

 魔王が泣き叫ぶ。天に両手を上げ、救いを求めるように正義の神アスタの名前を連呼する。

「私は英雄だ…………魔王ではない! 世界を滅ぼす力の器となり、今まで世界を守ってきた! なのに何故! 何故救ってくださらないのか! 何故私の元に英雄など、あんな小娘が、英雄が、英雄などが!」

 天に掲げた両腕が、ぼろりと音を立てて崩れた。魔王が細い笛の音のような悲鳴を上げる。

 崩壊は腕だけでは終わらなかった。足首が崩れ、膝が砕け散り、腹にひびが入る。遠くなっていく空を見上げながら、魔王が最後の叫びを上げた。

「何故だアスタ────!!」

 魔王が砕けた。黒い灰のような骸が残る。

 それを少女はじっと見つめていた。魔王の叫びからも醜態からも目を逸らさずに。

 やがて少女は、血塗られた英雄の剣を手に、魔王の残骸へと足を踏み出した。


 次の場面。

 そこは、寂れた聖堂のように見えた。石造りの床に、整然と並べられた長椅子。一段高くなった場所に、十字架が掲げられている。

 その十字架の下で、十代半ばあたりの少女と青年が抱き合っていた。少女の顔には淡い笑みが広がっているが、青年の瞳には涙が浮かんでいる。

 少女の背中から、剣の切っ先が突き出していた。青年が彼女を抱きしめるのと同時に、彼女の胸を貫いたのだ。

 三番目の魔王。魔物を操る魔女と、彼女の恋人だった竜の青年。

「ごめんね、無理を言って」

「いや、良いんだ…………俺も、譲りたくなかったから」

「わたし、ね。魔王になって、良かったことがあるの」

 少女は楽しげに言う。青年が泣き声を喉の奥に呑み込んだ。

「魔王になったから、わたし、あなたと二百年も一緒にいられたの。幸せ。本当に幸せだった」

「…………シェリー」

「ギル、顔を見せて?」

 少女が僅かに身を起こした。目に涙を浮かべた青年を見つめて、これ以上ないほど美しく笑う。

「大好き。愛してるわ。誰よりも何よりもあなたが大切。大好きよ、ギルバート」

「ああ、シェリー…………俺もだよ」

 ぼろぼろと泣きながらも、青年は笑顔を作ろうと努力したようだった。

 誰よりも幸せそうな顔をしたまま、少女の身体が崩れていく。

 腕の中の少女が消え去った後。英雄の剣を胸に抱えた青年が、地面に膝をついた。

 寂れた聖堂の中で、竜の青年の慟哭が響く────



 次の場面。

 そこは荒れ果てた古城のように見えた。中央に据えられた玉座の前に、上半身を赤く染めた青年が倒れている。彼のすぐ近くに、英雄の剣を右手に下げた男が立っていた。男は無表情に、足元に倒れた青年を見下ろしている。

 四番目の魔王。魔物の魔王と、故郷を失った英雄。

「本当はあの時、俺も一緒にって思ったんだ。シェリーがいない世界なんて、どうでも良かった」

「ああ、そうかい」

「でも、ここはシェリーが魔王になってでも守りたいと思った世界だから。だから、俺も守ろうって思ったんだ」

「…………世界を守ろうとした元英雄様に、俺の故郷は吹っ飛ばされたわけか。つまんねえ冗談だな」

 男が深いため息をついた。青年が口の中で知らなかったんだ、と呟く。

 知らなかった。魔王の力が漏れ出た時にどんなことが起こるのか。世界が滅びるほどの力と聞いてはいたが、実際に何が起きるのかは魔王自身も知らなかった。

 少しだけ、沈黙が流れる。やがて青年の方が口を開いた。

「君は、どうする? 魔王になるか、それとも」

「そんなの決まってるだろう?」

 男が肩をすくめて見せた。青年が大きく息を吐く。

「ああ、そうか。そうだよな。だから、英雄になったんだよな────」

 そう言って青年は目を閉じた。動かなくなった青年を、険しい顔をした男が見下ろしていた。


 次の場面。

 人気のない洞窟の中で、男と少年が向かい合っている。

「…………坊や」

 セレネは思わず足を止めた。それまで横目で見ていた魔王達の最期を、初めて正面から見据える。

 剣を取り落とし、呆然としているのはセレネが探し求めていた少年だった。姿形はセレネがよく知っている彼なのに、それよりずっと幼く見える。

 五番目の魔王。街を蒸発させた男と、志半ばで倒れた英雄の代わりを務めた従者の少年。

 腹から血を垂れ流した男が、疲れたように笑った。そして魔王は、幼い少年に魔王えいゆうについて語った。

「俺は魔王を継ぐことを選んだが…………お前がどうするのかは、お前が決めろ。ま、選択肢なんてあってないようなもんだけどな」

 魔王が仰向けに倒れる。その身体から、黒い煙が幾筋も立ち昇っていた。

 少年が躊躇したのは一瞬だけだった。拳を握りしめ、歯を食いしばり、大きく目を見開いたまま彼は黒い煙の中へ身を投じた。


 光の絵画が闇の中に溶け出すように消えていく。再び元の闇に戻った時、セレネは自分の足元で倒れている人影を見つけた。

 人影の傍で膝をつき、彼の身体をそっと抱き起こす。顔を覗きこんでみると、確かにセレネが探し求めていた少年だった。

「…………やっと見つけた」

 少年の胸元はべったりと濡れていた。彼のすぐ近くで、抜き身の英雄の剣が転がっている。そして彼の右手には、水晶の首飾りがしっかりと握りこまれていた。

 彼が何をしようとしたのか、わかったような気がした。何故、自分が置いて行かれたのかも。

「…………セレネ…………?」

 掠れた少年の声が聞こえた。まだ息があった。間に合った。それを、少しだけ嬉しいと思う。

「大丈夫、か…………? 痛くない…………? 苦しい、とかは…………」

「大丈夫です。元気ですよ」

「そっか…………良かった…………でも、なんで…………」

「どこまでもお供しますって言ったでしょう」

 魔王を見つけたら、説教してやるつもりでいた。謝ろうが言い訳しようが問答無用で、一時間は覚悟してもらおうと思っていた。

 だが、実際に少年を見つけたら、そんな気はなくなっていた。こんな時でさえ、彼はセレネの心配をしていた。

 首飾りを持っている手を包み込むように、少年の手を握る。自分が出せる最大限に優しい声になれば良いと思った。

「最後までお供しますよ。ずっと、いつまでも傍にいます」

 少年が大きく息を吐いた。

 安心してくれれば良いと思う。少しでもこの子の苦痛が軽くなれば良いと思う。

 いつも、この子がセレネにやってくれていたことだ。

「セレネ…………」

「はい」

「俺…………俺さあ…………頑張ったよ」

「ええ。頑張りました。本当によく頑張りました。もう、大丈夫です」

 少年が小さく笑った気がした。

 それでもう充分だと思った。


✩✩✩


 セレネが飛び込んだ直後に、荒れ狂っていた黒い力が唐突に消えた。

 半透明の結界の中央に、セレネが座り込んでいる。彼女の腕の中では、胸元を赤く汚した少年が静かに目を閉じていた。

「セレネさん…………ライアン!」

 レオンハルトが悲鳴のような声を上げる。幼い英雄は二人に駆け寄ろうとしたが、半透明の結界に阻まれた。

「もう良い。解け」

 白の君の合図で、片手を上げて結界を維持していた使者達が次々に腕を下ろした。結界が消え、レオンハルトが転がるように少年の元へ駆けていく。

 走りながら呪文を唱えた。レオンハルトの右手から、白い光が漏れる。

 少年の元へたどり着いたレオンハルトは、服が汚れるのも構わずに膝をつき、少年の胸に右手を押し当てた。

「諦めません。諦めませんよ。あの森の時だって助けられたんだ。今回だって、今回だって絶対────」

 手を押し付けながら、幼い英雄が祈るように呟き続ける。

 セレネはそれを、少年を抱えたままぼんやりと見つめていた。

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