005 あの子の元へ
セレネが聖都アスタロスタにたどり着いたのは、その日の夕方、既に日が沈み始めた頃だった。
教会への参拝は、日が暮れきるまでと定められている。教会の入り口から伸びる列は、ずいぶん短くなっていた。その最後尾につき、自分の番が来るのを待つ。
アスタロスタまでの道のりで、英雄についての噂はいくらでも聞こえてきた。
聖都に辿り着いた英雄は、正義の神アスタからの祝福を受けるために、神聖教会に訪れた。儀式の準備が整うまで、彼は教会に逗留しているのだと言う。
彼は随分勉強熱心で、待機している間にも礼拝堂を見学したり、神聖騎士団の訓練に混ざって剣を振るう姿を見た者もいる。真摯に精進するその姿に心を打たれたある騎士は、訓練をより厳しいものに変えようとしているらしいという噂もあった。
────英雄と共にいるはずの黒衣の従者が何をしているのかは、わからない。門での騒ぎを最後に、ぱたりと途絶えてしまっていた。
今何をしているのか。何を思っているのか。何をしようとしているのか。何故セレネを置いて行ったのか。
あの子が何を考えているのか、わからない。
「次の者、前へ」
門番の声が、やけにはっきりと聞こえた。自分の番が来たのだと気づくまでに、少し間が必要になった。
突っ立ったままのセレネを、門番が訝しげな顔で見ている。セレネは愛想笑いを浮かべた。────うまく笑顔になっていれば良いと思う。
門番の元へ近づくと、彼はセレネの頭から爪先までをさっと見回した。再びセレネと視線を合わせ、厳しい顔で言う。
「旅人か」
「ええ」
「荷物はここで預からせて貰おう。勿論、その剣もだ」
武器を持ったまま教会の中に入れるとは、最初から思っていなかった。あの子の元へ行けるのなら何でも良い。
荷物と剣を門番に預け、分厚い門をくぐる。
その先は、小さな庭園になっていた。白い石で出来た道の両脇には芝生が敷かれ、ちらほらと小さな青い花も見える。夕日が教会の白い壁を赤く照らしていた。
石の道の先に、大きく開かれた扉があった。入口の門と同じように両脇に青の長衣を着た使者が控えているが、こちらをちらりと一瞥しただけで、特に声を掛けてくることはなかった。小さく会釈をして、その脇を通り抜ける。
扉の向こうには、長い廊下が広がっていた。床は深い青で、壁と天井は柔らかな乳白色だ。
壁には正義の神アスタが成し遂げた偉業を讃える絵が飾られ、その間にぽつりぽつりと小さな扉が挟まっている。人の姿は少なく、絵に魅入られて足を止めた老婦人と、参拝を終えた帰り道らしい若者とすれ違っただけだった。
人々を導くアスタの勇姿を横目に、早足で進む。こんなところ、彼を追っていなければ一生訪れたりしなかった。
長い廊下の突き当たりに、巨大な青い扉があった。今までとは違ってしっかりと閉められており、門番を務める使者の姿もない。見た目通り重い扉を両手で押し開けて、中に滑り込む。
そこは、青い空間だった。
鏡のように曇り一つなく磨き込まれた薄青色の壁と床。天井はかなり高い位置にあった。背もたれに青い布が張られた長椅子が整然と並び、その先に大きな祭壇と、その上に立つ十字架が見える。
神聖教会の教えを説く使者の姿は見えないが、十字架の前で頭を垂れて、何やら一心に祈っている老婆がいた。熱心な使者は彼女と同じように祈っているが、観光がてら参拝に来たらしい者達は、彼らを遠巻きにして十字架の向こうを見上げている。
人々が見上げている先。そこには、ここに辿り着くまでに見たどの絵よりも巨大な壁画が描かれていた。
片膝をついている若者と、若者の前に立つ白い長衣を身につけた使者。使者の手には、柄に宝石がいくつも埋め込まれた、まるで美術品のような剣がある。使者の背後から白い光が広がり、その中に正義の神アスタの影があった。
正義の神アスタが白の君を通して、最初の英雄に英雄の剣を授ける場面だ。
(この正義の神に、私の国は────私の女神は)
────あなたたちに、わたくしはとても酷いことをしようとしています。
遠い昔に聞いた、巫女の声を思い出す。
────あなたたちを、時の縛りから解放します。これを祝福だとはわたくしは言えません。無力な女神の呪いだと、そう思ってくださって構いません。
セレネの女神はそう言った。
正義の神アスタはどうだったのだろう?
英雄がやがて魔王となることを、彼の神は、アスタから神託を授かる白の君は、知っていたのだろうか。
「…………っ」
喉の奥から呻き声が漏れそうになり、慌てて口元を抑える。そのままふらふらと、他人の視線から逃れるように壁際に向かった。
壁の中に溶け込むように、小さな通路がある。教会の使者が使うものだろう。人の姿は見えなかった。
その通路の中に転がり込み、壁に背を押し付けた。ずるずると座り込んで、膝を抱えて蹲った。そのまましばらくじっと待つ。
「あの、大丈夫ですか?」
女の声がした。顔をゆっくりと上げる。
二十歳前後の若い娘が、心配そうにセレネを見下ろしていた。着ている長衣は青。腰には剣を吊るしている。
他に人影はない。セレネの様子を見に来たのは、この娘一人のようだった。
「どうかしましたか? ご気分が悪いのなら、奥の部屋で────きゃっ」
腰を屈めて覗き込んできた娘の手を取る。彼女の悲鳴が言葉にならないうちに、セレネはその鳩尾に拳を叩き込んだ。
顔を歪めて崩れ落ちる娘の体をを受け止め、駄目押しに首筋に手刀を当てた。娘がぐったりと脱力する。
「悪いね。────来てくれて、ありがとう」
アスタ教は何よりも正義を重んじる。体調不良の女を放置するはずがないだろうと思っていた。
娘を半ば抱きかかえるようにして、更に奥に進む。もしここで他の使者と遭遇したら、突然倒れた使者を介抱する親切な参拝者を装うつもりでいた。
幸いなことに誰かとすれ違うこともなく、無人の小部屋を見つける。
そこは物置として使用されているようだった。特に施錠されておらず、壊れた長椅子や穴が空いた敷布などが転がっている。隅の方に、半分に欠けた姿見があった。
長椅子と長椅子の間に娘を下ろし、手早く青い長衣を剥ぎ取った。それを素早く身に付ける。彼女が腰に提げていた長剣も、有り難く拝借することにした。
流石に年頃の娘を下着姿のまま放置するのは忍びなく、彼女の身体を覆うように自分の外套を被せた。
ひびが入った鏡で、自分の姿を確認する。見様見真似で着てみたが、これで教会の使者らしく見えるだろうか。
近くに人の気配が無いことを確認してから、セレネは再び通路に滑り出た。
細い通路を通り抜けると、ぽかりと開けた場所に出る。左手には上の階に繋がる階段、右手には長い廊下が伸び、目の前の広場の先にも通路が続いている。
青い長衣を着た使者が二人、右手の廊下の壁にもたれて談笑をしていた。
彼らの脇をすり抜けるように、胸に書類を抱えた白の長衣の使者が、足早に階段の方へ歩いて来る。
白い使者は立ち尽くしているセレネの目の前を通り過ぎたが、ちらりとこちらを一瞥しただけですぐに上の階へと消えて行った。とりあえず使者には見えているらしい。
これからどうするべきか、一瞬だけ迷って――――結局、セレネは廊下で談笑している使者の方へと足を進めた。使者の長衣さえ着ていれば教会の内部に入り込むことはできるが、それも物置に隠した娘が見つかるまでのことだ。時間は掛けられない。一刻でも早く、魔王の元へたどり着かなければ。
和やかに談笑していた使者達は、セレネが近づいてくると笑顔を消した。セレネの方は愛想笑いを浮かべて尋ねる。
「あの、すみません。お尋ねしたいことがあるんですけど」
「なあに、あんた。見ない顔ね、新人?」
「ちょっと、そんな怖い顔しないの。ごめんなさいね、この子口は悪いけど、口だけだから。で、ええと、何だったかしら?」
「英雄様はどちらにいらっしゃるんでしょうか? あの、すみません。お茶を運ぶように指示されたんですけど、まだ道を覚えていなくて」
「英雄様あああ?」
新人らしくしおらしく尋ねてみたところ、口が悪い方の使者が思い切り顔をしかめた。人当たりが良い使者も首をかしげている。
「どこの馬鹿よ、そんな指示出したの!」
「え、ええと…………まだ顔と名前が一致してなくて…………すみません」
「英雄様なら純白の間で白の君様と謁見中よ。確か、お付きの男の子も一緒だったわ。お茶を運ぶのなら、それが終わってからでしょうね」
「純白の間?」
「あんた、ほんとに何も知らないのね。この廊下の先にあるわ。白の君様がご神託を受ける場所のことよ」
不機嫌な顔をしているが、後輩に優しい親切な先輩はセレネが知りたいことを全て教えてくれた。
純白の間。そこに魔王がいる。
「ありがとうございます。助かりました」
ぺこりと一礼して、純白の間がある方向へ進む。口が悪い方の使者が、慌てて追いすがって来た。
「ちょっと! 人の話聞いてたの? そっちは純白の間だって言ったでしょ。あんたみたいな新人が気軽に近づけるような場所じゃ────」
肩に手がかかる前に、振り返る。振り向き様に、使者の首元に手刀を落とした。
大きく目を見開いた使者が、手刀を落とした方向に沿うように崩れ落ちる。残った方の使者が色を失い、剣の柄に手を掛けるのが見えた。
「お前…………っ」
「親切なのも良いけど、人を疑うことも覚えた方が良いんじゃない?」
踏み込むのと同時に、セレネも剣を抜いた。使者が身構える前に、下からすくい上げるようにしてその手から武器を弾き飛ばす。それから剣の柄で使者の顎を打ち上げるように強打した。
使者がよろめき、壁にすがるようにしてずるずると座り込む。まだ意識を失ってはいないようだが、しばらくはまともに動けないだろう。
剣を鞘に収める。戦闘不能になった使者二人を置き去りにして、セレネは純白の間を目指して駆け出した。
廊下には人気がない。たとえ居たとしても構うつもりはなかった。邪魔をするならさっきの二人と同じように、実力行使をするだけだ。
突き当たりに、一際大きな純白の扉が見えた。きっとここが純白の間だ。そう決めつけて、セレネは半ば体当たりをするように、重い扉を押し開けた。
(あの子は、どこに…………!)
扉の先に、探し求めていた少年の姿は見当たらなかった。
純白の間という名に相応しく、乳白色の壁と床はまるで鏡のように磨きあげられている。
部屋の中央に半透明の結界が張られており、その中で黒い煙のようなものが猛り狂っていた。結界を囲むようにして、白や青の長衣を着た使者たちがずらりと並んでいる。
結界を維持すること、結界の中に閉じ込めているものを押さえ込むことに必死になっているためか、まだ誰もセレネが乱入したことに気付いていないようだった。
「────英雄殿」
若い女の声が聞こえた。
入り口のすぐ近く、セレネの目の前に、身につけた長衣よりも更に白い肌と髪を持った女が立っていた。
そのすぐ横に、青ざめ、唇をきつく噛み締めているレオンハルトが立っている。
「私には、魔王は失敗したように見える」
「白の君様…………」
「頼まれてくれるか」
「はい…………覚悟は、出来ていますから」
目の前の女が白の君らしいことも、レオンハルトが何やら悲壮な決意を固めているらしいことも、どうでも良い。
あの黒い力が荒れ狂う結界の中に、魔王がいることがわかれば十分だった。
剣を抜く。正義の神アスタが神託を下す純白の間で、セレネは正義の神に滅ぼされた夜の女神への祈りの言葉を口にした。
「戦女神よ、哀れな黒騎士に祝福を」
レオンハルトが弾かれたように振り向いた。白の君がちらりとこちらに目をやり、セレネの侵入に気付いた青い長衣の使者が何やら怒鳴っている。
それらを全て無視して、セレネは剣を結界に突き立てるようにして、その中へ飛び込んだ。
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