魔王の章
001 月明かりの古城にて
月の明るい夜だった。
藍色に沈んだ空の真ん中に、銀色に輝く月が浮かんでいる。
その真下に、その古城はあった。
廃棄されてから大分経っているのか、あちこちが崩れかけ、壁は黒ずみ、植物の蔦が絡み付いている。鉄製の大きな門は錆び付き、半開きのまま放置されていた。
奇妙なことに、門の前から伸びる橋だけは、つい先日できたばかりのように新しい。
「橋、直したんだな」
レオンハルトの隣に立っていた少年が、その橋を見て頬を緩めていた。そちらに目を向けると、付け足すように呟く。
「トトの村の連中が使うんだろ。前はあちこちが腐りかけてて、うっかり踏み抜いたことがある。それじゃ危なくて使えない」
それ以上は何も言わずに、少年はレオンハルトを置き去りにして橋を渡り始めた。
(聞きたいのはそれじゃないんだけどなあ)
少年の後を追いかけながら、こっそりため息をつく。
レオンハルトは何も知らない。少年の名前も、彼が何をしようとしているのかも。
何度か説明を求めたが、「後でな」「今はそれどころじゃない」「時間があったら話してやる」とはぐらかされてばかりいる。
名前ぐらい教えてくれても良いじゃないかと思うのだが、それすら「まあそのうちな」だ。
彼の連れのセレネは少年のことを「坊ちゃん」としか呼んでいなかったので、推測もできない。
嫌がらせのつもりで、「じゃあ僕も坊ちゃんって呼びますよ」と言ってみたら好きにしろと返ってきた。
結局、レオンハルトから呼び掛ける時は「君」で落ち着いている。
半開きの門をくぐり抜けて、城の中に入った。
窓や崩れた壁の隙間から月明かりが差し込んでいるが、それでも暗い。隣にいる少年の輪郭が、気を抜いたら闇の中に溶けてしまいそうだった。
小さく呪文を唱える声がして、闇の中にふらりと小さな明かりが灯った。拳大の光の球が、レオンハルトと少年の間で頼りなく揺れている。
隣にいる少年の姿がはっきりして、レオンハルトはほっと息をついた。そこに、少年の腕が伸びてくる。
「えっ、わっ」
両目を手のひらで覆われた。短く何かを唱える声がして、それが終わるとすぐに解放される。
(えっ?)
相変わらず城内は闇に包まれていたが、何がどこにあるのかはっきりとわかるくらい、視界が明瞭になっていた。
城に入ってすぐの、ぽかりと開けた大広間。奥の方に長い階段があり、その先には見るからに重そうな扉がある。
呆然と辺りを見渡すレオンハルトに、少年は得意げに言った。
「俺様が開発した魔法その一、『暗闇の中でも目が見えるようになる魔法』だ。興味があるなら教えてやる」
「それは是非ともお願いしたいところなんですけど、その前に他のことを教えてください。名前とか名前とか名前とか」
「まあそのうちにな」
またはぐらかされた。名前ぐらい教えてくれても良いと思うのだが。
口を尖らせるレオンハルトには構わずに、少年は歩を進めた。
横幅の広い階段を上る。階段の半ばに差し掛かったところで、ギギギギと木が軋む音がした。
顔を上げる。扉がゆっくりと開こうとしていた。細い隙間から、するりと滑り出てくる影が見える。
人間ではなかった。猫か小さな犬程度の大きさの長い尾を持つ生き物。
「魔物…………っ」
「待て。大丈夫だ。あいつはそうじゃない」
反射的に剣を抜きかけたレオンハルトを、少年が片手で制した。レオンハルトの方を向き、少年は真顔で言う。
「あの仔竜はトトの守り神だ。警戒しなくて良い」
「魔物が守り神…………というか、あれ、竜なんですか…………?」
こちらのやり取りなどお構い無しに、小さな魔物はぺたぺたと二人に近づいて来た。階段の手前で立ち止まり、大きく欠伸をする。
「ふわあぁぁぁ、何だよ、誰かと思ったら真っ黒兄ちゃんじゃないか。来るんなら昼間に来いよ。もう寝るとこだったんだぞ」
「悪いな。ちょっと急ぎの用ができた。あの剣、返してもらって良いか?」
「別に良いよ。元々兄ちゃんのなんだし────ところで」
仔竜の大きな瞳が、レオンハルトに向けられた。どうやら睨んでいるようなのだが、眠たげな様子がまだ残っていたため、どうも迫力がない。
「そっちの兄ちゃんは何なのさ?」
「あ、えっと、僕は────」
言葉に詰まった。何と答えれば良いのだろう。
仔竜はこてんと首を傾げた。
「真っ黒兄ちゃんの友達?」
「────まあ、そんなところだな」
レオンハルトではなく、少年が答えた。少年の方も仔竜の言葉に助けられたようだった。
(実際、僕は彼にとっての何なのだろう?)
「あれ? そう言えば姉ちゃんは? 一緒じゃないの?」
「セレネはちょっと色々あってな。今は別行動だ」
「喧嘩したの?」
「なんでそうなる」
「駄目だよー、早く謝んないと。女の子はそういうの結構引きずるからな」
「喧嘩じゃない。あとセレネは女の子じゃないだろう」
「うわ酷い。わかった。そういうとこが原因なんだ」
「だからなんでそうなる」
少年と仔竜が歩き出す。話について行けないレオンハルトは、その後を追うしかなかった。
「橋、直したんだな」
「シリルに危ないから何とかしてくれって頼まれちゃってさ。いつか誰かが落っこちるぞ! って」
「ああ。あの橋は本当に危なかったからな」
「…………兄ちゃん、もしかして落っこちたの?」
「シリルの他にも誰か来たりするのか?」
「落っこちたんだ…………ああ、シリルの友達とか、いっぱい来るようになったよ」
「大人は来ないのか?」
「大体は子どもばっかだけど、たまーにシリルの父さんとかが様子を見に来るぞ。橋直すのとか、手伝ってくれた」
「そうか。良かったな」
仔竜が出てきた扉をくぐり、長い廊下を進む。
幅は狭くないはずなのに、窓がないためか妙に息が詰まるような気がしていた。
ぽつりぽつりと時折現れる部屋の残骸らしき空洞を通り過ぎ、廊下の突き当たりまでたどり着く。
そこは、今まで通り過ぎてきたどの部屋よりも、かつての面影を残しているように見えた。
扉は半分崩れ落ち、家具らしい物や城に付き物の装飾品は見当たらない。それでも、部屋の中央に置かれている天蓋付きの寝台を見て、ここは以前寝室として使われていたのだろうと思った。
寝台の向こうにある窓から、月明かりが差し込んでいる。ちょうど光が当たる場所に、一本の剣が突き刺さっていた。
柄にいくつもの宝石が埋め込まれた細身の剣。まるで剣そのものが宝石のように、月明かりを浴びてきらきらと輝いていた。
「レオンハルト」
少年が剣の横に立つ。
一度剣に目を落とし、それからレオンハルトの方を見た。
「この剣を抜いてくれ」
「は、はい」
「えっ、無理だよ!」
レオンハルトが動く前に、仔竜が叫んだ。小さな翼をぱたぱたと動かしながら、少年の周りをぐるぐると走り回る。
「これ、俺にだって抜けなかったんだぞ。シリルも何度か引っ張ってたけどびくともしなかった。抜けないようになってるんだよ。ほら、ほら!」
仔竜の身体がふわりと浮かび上がった。剣の柄の高さまで上昇し、器用に前足で柄を挟んで引き抜こうとする。確かに、剣はびくともしなかった。
口元に苦笑を浮かべた少年が、仔竜に向かって言う。
「前に言っただろ。そいつは英雄の剣なんだ。次の英雄が来るまで、何があっても抜けないようになってる」
「そりゃ聞いたけど…………え? じゃあこっちの兄ちゃん、もしかして」
「さてな。それを試しに来たんだ」
仔竜が剣から離れる。月明かりを背にした少年が、再びレオンハルトを見た。
「聞いての通りだ────抜いてくれ」
「…………はい」
小さく頷いて、レオンハルトは剣の柄に手を掛けた。一度目を閉じ、深呼吸をする。
これは英雄の剣だ。もし少年の言葉が本当なら、本物の英雄以外は抜けないようになっている。
「英雄となって魔王を倒して欲しい」────神聖教会の神託を疑うつもりはない。
だが、それでも、もし英雄の剣を引き抜くことができなかったら────
(余計なことは考えるな)
目を開く。覚悟はできた。剣の柄をしっかりと握り直し、ゆっくりと引き抜く。
「────…………えっ」
拍子抜けするほどあっさりと剣が抜けた。思わず間抜けな声が出てしまった。
仔竜は大きく目を見開き、無邪気に歓声を上げている。
その横で、少年が小さく笑ったような気がした。
「そうか。抜けるか。抜けるよな…………」
「抜けた! 兄ちゃん、抜けたよ! 凄い、ほんとのほんとに英雄なんだ!」
「あの…………見ての通りなんですけど、僕はこれからどうしたら…………」
剣を抱えたまま、レオンハルトは途方に暮れていた。
無事に英雄の剣を抜いたものの、これからどうすれば良いのか。
「あちこち引きずり回して悪いが、これから聖都アスタロスタに行くぞ」
「ああ、そうか。まず聖都アスタロスタで祝福を受けるんでした。それから魔王を探して」
「その必要は無い。…………俺様が魔王だからな」
「えっ」
絶句したレオンハルトに、少年は静かに告げた。
「聖都アスタロスタで魔王を封印する。これで終わりにするんだ」
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