――幕間――

ある少年の記憶 003

「なあ、俺がこうなるって夢、いつから見てたんだ?」

 英雄の言葉に非難の響きはない。むしろ楽しげですらあった。

 それでも、彼の手にすがりついていた少年は大きく肩を跳ねさせ、ぶるぶると震えながら首を横に振った。

 英雄が空いている方の手で少年の肩に触れる。本当は頭を撫でてやりたかったのに、もうそこまで手を上げる力すら残っていなかった。

「リベイラに寄った時かなあ? お前、それくらいから野菜食べろ肉ばっかり食うなってうるさくなったもんな。あ、それとも酒飲みすぎて裸踊りした時か? あの時は本当に助かった。お前が酒場に乗り込んで来てくれなかったら、ヒゲのねーさんに食われてただろうからなあ」

「それはっ…………あなたが、無茶を、するから…………」

「うん。そうだな。いつもお世話になりました」

「いくらでもやりますよ、あなたの世話なら。これからだって」

「おや、頼もしい」

 部屋の中に上機嫌な英雄の声が響く。

 この村でも一番上等な、村長の家の客室だ。部屋の中央にある寝台の上に英雄が横になり、すぐ近くの丸椅子に少年が収まっている。窓から、昼の穏やかな光が差し込んでいた。

 分厚い木製の扉の向こうには、村長や村の重役たちが張り付いている。英雄の回復を願って、祈りの言葉でも呟いているのだろう。

 本の街リベイラの南西にあるべリムの村。その村の外れの洞窟に、魔王が潜んでいるという噂を聞いてやって来た。

 魔王は二十代後半の青年の姿をしており、時折住処にしている洞窟に魔物を呼び込んでいるらしい。つい最近、べリムの近くの森が跡形もなく消し飛んだことで、ただの噂だとは思えなくなった。

 これから魔王のところへ乗り込もうという時になって、英雄が血を吐いた。そのまま昏倒し、三日間眠り続け、やっと目を覚ましたかと思ったら起き上がることもままならないような身体になっている。

 できることなら何でも試した。村長に頼んで聖都アスタロスタから高名な医者を呼び寄せた。少年は英雄の枕元に付きっきりで看病をし、医者と一緒に来た神聖教会の使者はひたすら祈りの言葉を呟き続けた。

「わかってたんだ。仕方がなかったんだよ」

 医者は早々に匙を投げ、使者は教会に報告すると去って行った。

 残ったのは、少しでも英雄の苦痛が少なくなればと、効きもしない回復魔法をひたすら掛け続ける少年だけだ。

「元々早死にする家系だったんだ。俺も大人になれりゃあ上等だって言われてた。それが三十手前までしぶとく生き残ったんだから、これでも結構頑張った方なんだぜ」

 英雄は誇らしげに言う。その手はぞっとするほど冷たくなっている。

「なのにさ…………教会に、お前が英雄だとか言われて。英雄の剣を引っこ抜いちまって。間に合うかどうかわからないのに。でも、やるしかないだろう? 俺がやらなきゃ、世界が滅びるとか言うんだから」

 英雄の手を握りしめながら、少年は必死に顔を上げ続けた。

「なあ…………頼みがあるんだ」

「嫌です」

「なんだよ、中身ぐらい聞いてくれよ」

「嫌なものは嫌です」

 駄々を捏ねるように何度も首を横に振る少年を見て、英雄はどこまでも優しく笑う。嫌だ嫌だと少年が何度繰り返しても、英雄は構わずに続けた。

「俺が死んだらさ…………お前に、代わりをやって欲しいんだ」

 少年は息を飲んだ。

 この後英雄が何を言うのか、少年はもう知っている。何度も夢に出てきたからだ。

 何度も何度も。この夢だけは、ただの悪夢であって欲しいと思っていたのに。

「無茶言ってるのはわかってるんだけどさ…………なあ、頼むよ。お前にしか頼めないんだ」

 英雄の顔がぐしゃりと歪む。今にも泣き出しそうに見えるのに、英雄は涙を流さなかった。

「あともう少しなんだ。もう少しってところだったのに。でも俺はこんなだから。でも、だけど、諦められないだろう?」

「…………わかりました」

 喉の奥から、声を絞り出す。

 泣き声にならないように、腹の底に力を入れた。

「俺があなたの代わりに、魔王を倒します」

「ああ…………ありがとな」

「あくまでもあなたの代わりです。あなたが動けないから、代わりに俺が行くんです」

「うん」

「…………魔王を倒した後、どうしましょうか」

「ああ、そうだな…………ん?」

 英雄が間の抜けた声を上げた。その横顔に、少年は大真面目に続ける。

「魔王を倒せば世界は平和になるんでしょう? もう流行り病だの魔物退治だのに走り回る必要がないわけです。好きなことができます。だから、俺は…………魔王を倒した後も、あなたについて行きたいと思ってるんです」

「ああ、そっか、そうだよなあ。好きなこと…………か。とりあえず、家に帰るかなあ」

「海辺の村でしたっけ。俺、海を見るのは初めてです。楽しみですね」

「俺について来るのは良いけど、お前、教会に戻らなくて良いのか?」

「あんなところ二度と戻りたくありません。魔王を倒したんです。世界を救ったんです。このくらいのわがままは聞いてもらいます」

 真顔で言い切ったのがツボにはまったのか、英雄は声を上げて笑った。少年としてはかなり本気だったのだが。

「俺がやりたいのはそんなとこかな。お前は何やりたい?」

「そうですね。海を見て、それから村の周りをあなたに案内して欲しいです。海も良いけど森も綺麗って言ってたでしょう?」

「おう、任せろ…………と言ってやりたいところなんだがな。残念ながらこの有様でもう歩けるかどうか…………」

「問題ないです。俺があなたを背負いますから」

「え、嘘。いやいやいやいや、無理だろ。お前ひょろいし」

「無理じゃないです。できます。今はもやしでも、俺はまだ成長期ですし」

「お前、ほんと言うようになったよなあ」

 ふと、会話が途切れた。

 耳が痛くなるような静寂が、部屋の中に満ちる。

 覚悟はできた。決意を英雄に聞いてもらうために、もう一度呟く。

「魔王は、俺が倒します」

「ああ、頼む」

「だから…………俺が戻るまで、ここで待っていてください」

「うん。待ってるよ。ちゃんと、待ってる」


 ────その翌朝。

 英雄は、静かに息を引き取った。


「あああああ…………英雄様が、英雄様が」

「そんな、なんで、どうして」

「まだ魔王がいるのに。こ、これから一体どうすれば…………」

 英雄の寝台の周りに、村の重役たちが群がっていた。

 皆一様に青ざめ、中には泣き出している者もいる。

 だが、彼らは、まだ若い青年が病で死んでしまったことよりも、魔王を倒す前に英雄がいなくなってしまったことを嘆いているようだった。

 英雄の寝台に縋り付き、口々に嘆きの言葉を呟く村人たちの輪の外に、聖都から呼び寄せた神聖教会の使者がむっつりとした顔で立っている。

 そこから更に離れた、部屋の入口のあたりで、少年は英雄の剣を抱えたまま呆然としていた。

「待ってるよって言ったのに」

 涙は出なかった。まだ信じられなかった。

 だって眠っているようにしか見えない。まともに起き上がることすらできなくなっていたけど、昨日までは話すことはできていたのに。

 魔王を倒した後、英雄の故郷に行くはずだった。海を見て、森を見て。彼が歩けないのなら、少年が英雄を背負って歩くつもりでいた。

 流行り病や魔物退治に追われることなく、好きなことをする。

 世界を救うのだ。これくらいの夢、叶えてくれたって良いだろう?

「────新たな英雄を選定する必要がある」

 呆然としている少年の頭上に、低い声が降ってきた。

 いつの間にか、教会の使者が少年のすぐ近くに立っている。

「神聖教会に戻り、再度アスタ様のご神託を賜らねば。剣をこちらに」

「嫌です」

 英雄の剣を抱えて、少年は後ずさった。使者が顔をしかめる。

「それはお前のものではない」

「ジークに頼まれました。自分の代わりに魔王を倒して欲しいと」

「お前は英雄ではない」

「そんなのわかっています。だけどジークと約束したんだ!」

 部屋に満ちていた嘆きの声が消えた。突然の大声に、村人たちは目を丸くしている。

 使者が少年に向かって一歩踏み出した。距離を取りたくなるのを堪えて、少年はその場に留まった。

「お前は英雄ではない」

「英雄の剣ならここにある」

「お前に何ができる」

「ジークと約束した。俺が魔王を倒す!」

「────お前が? 英雄ではないのに?」

 使者は同じ言葉しか繰り返さない。村人たちは目を丸くしているだけ。いつも味方をしてくれた英雄は、もう二度と目を覚まさない。

 部屋の入口のあたりにいて良かったと思った。後は時機を計るだけだ。

「魔王は英雄の剣さえあれば倒せる。なら、俺にだってできるはずだ。俺じゃなくても、あんたたちだって」

 ────病身のジークが、無理をしてまで英雄になる必要が、どこにあったのか。

 もし英雄にさえならなければ、故郷から遠く離れた見知らぬ土地で、息を引き取ることはなかったのではないか。

 もし英雄にさえならなければ、彼はもっと長生きできたのではないか。

 血が滲むほど唇を噛み締めながら、少年は喉元までせり上がってきた言葉を飲み込んだ。

 ただの妄想だ。ジークは死んでしまった。そのジークと、約束したのだ。

「ジークとの約束だ! 俺が魔王を倒す!」

 世界を救うためでも、人々を守るためでもなく。

 ただ、英雄との約束を守るためだけに、少年は英雄の剣を握りしめたまま、部屋から飛び出した。

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