006 まだ大丈夫

 視界の端に、黒い魔力の渦が見えた。気付いた時には手遅れだった。

「レオン────!」

 最後まで言葉にならない。

 魔力の塊がレオンハルトを巻き込み、木の幹に叩きつける。

 魔王がレオンハルトに駆け寄る前に、同じものが魔王のすぐ目の前に迫っていた。

「────!!」

「あははははっ」

 黒い魔力の塊から、白い腕が飛び出した。ぞぶりと気味の悪い音を立てて、白い腕が魔王の胸を貫く。

 無邪気な少女の笑い声がする。

(────…………え?)

 何が起きているのか、理解できない。

 膝から力が抜けた。立っていられない。

 崩れ落ちた魔王を見下ろして、片腕を真っ赤に染めた金髪碧眼の魔女が高笑いをしていた。

 木の根本では、魔力の塊に押し潰されたレオンハルトが、何とか脱出しようともがいている。

 まだレオンハルトは生きている。まだ手遅れにはなっていない。そう思った時に、痛覚がやっと事態を理解した。身体の中央を貫く痛みに悲鳴を上げようとするが、喉の奥から溢れた血がそれを許さない。

「誰が誰を倒すって? ねえ、何のための作戦会議だったの? こんなに弱いくせに!」

 目の前が暗い。胸の中央は焼けるように熱いのに、手足や背中に痺れるような悪寒が走っている。呼吸ができない。身体が動かない。

 魔女の声だけが、はっきりと聞こえる。

「知ってるよ? なんでお兄ちゃんが私のことニセモノだって言ったのか。だって本物はそっちだもんねえ、魔王のお兄ちゃん? そういうの、魔物にはわかるようになってるんだって。人間にはわからないみたいだけど!」

 高笑いを続ける魔女の向こうに、幼い少女の幻がぼんやりと浮かび上がっていた。

 彼女の目の前には、磔にされて焼き殺された母親の骸があった。黒焦げになった遺体に縋りつく少女の背中に、石を投げる影がある。

 魔女だ。魔女の呪いだ。魔女さえいなければこんなことにはならなかった。全て魔女が悪い。ついに魔女が本性を現したのだ。

 母親を処刑したからと言って油断はできない。魔女の娘は魔女だ。まだ幼い子供だからと村長は情けを掛けたようだが、そんなこと知ったことか!

 これは殺人ではない。村を守るためだ。村人たちを守るためだ。間違いじゃないだろう。正しい行いだ。それをあの娘、被害者ぶって泣きわめきやがって!

 …………そうだ。魔女を処刑するのは正しいことなのだから、あの娘だって処刑すれば良い。磔にして、手足に釘を打ち込んで、生きたまま火をつけて燃やしてやる。

 まだ力が弱いうちに、子供のうちに、あの娘を始末するのだ。魔女の呪いが村を襲う前に。村を守るために!

「なんでお兄ちゃんみたいなのが魔王になっちゃったんだろうねえ。こんなに弱くて何にもできないのに。魔王は世界を滅ぼすものなのに」

 ゆらりと少女の幻が立ち上がった。それまで勇ましく石を投げつけていた影が、悲鳴を上げる。一目散に逃げ出そうとした影の背中に、少女の細い指先が向けられた。

 呪文はなかった。少女の怨念だけが聞こえてきた。

 お前たちがいるから。お前たちがいなければ。お前たちさえいなければ。

 少女が生み出した黒い魔力の塊が、影を次々と飲み込んでいく。影の手足はありえない方向にねじ曲げられ、身体の中央から千切れていった。

 その様子を、彼女は笑いながら見ていた。

「ねえ、何とか言いなよ。もしかしてもう死んじゃったの?」

 幻の少女の怨念は、まだ終わらない。

 村から出た後も、彼女を受け入れてくれる場所はなかった。

 人間からは魔物として恐れられる。魔物は血さえ与えてしまえば彼女の言いなりになるものの、共に生きてくれるわけではない。同じ魔女ならばと思ったが、母と自分以外の魔女の居場所など聞いたこともなかった。

 村人たちさえいなければ。人間さえいなければ。人間がいるから、こんなことになったのだ。

 だから人間を滅ぼしてやるのだと少女は誓う。

 魔女ではなく魔王になる。

 魔王の力を手に入れ、己の血で魔物を狂わせ、人間を一人残らず殺し尽くして、いつか世界を彼女一人だけのものにするために。

(…………どうして逃げてくれなかったの)

 殺してやる、滅ぼしてやると狂ったように繰り返す怨念の中から、ぽつりとそんな呟きが漏れた。

 どうして逃げてくれなかったの。お母さんは人間よりずっと強いのに。

 どうして私を連れて逃げてくれなかったの。お母さんは私よりも強いのに。

 どうして私と一緒に逃げてくれなかったの。お母さんがいなかったら、私は幸せになんてなれないのに!

 どうして、なんで私のことは考えてくれなかったの!?

「…………あ…………」

 少女の幻が消えた。

 魔王の口から、間抜けな声が零れた。ぼんやりとしていた視界が急にはっきりとした輪郭を持つようになる。

 目の前には、満面の笑みを浮かべた魔女の顔。

 木の根本に倒れたレオンハルトの身体を、黒い魔力の塊が飲み込んだ。

 意識ははっきりしても、魔王の身体はまだ動けそうにない。

「あれ? まだ生きてるんだあ、しぶといね」

 魔女が血に染まっている方の手を伸ばしてきた。魔王の頬に触れ、首筋をなぞり、胸の傷の上で止まる。

 それから魔王の上に覆いかぶさるように顔を近づけ、耳元で囁いた。

「その力、頂戴よ。私が魔王になって、世界を滅ぼしてあげる」

「…………っ!」

 心臓が大きく跳ねた。ぞっとするような悪寒が背筋に駆け抜ける。魔女の身体を跳ね返したいと思うのに、指先一つ動かすことすらできなかった。

 目の前がまた暗くなる。意識だけは手放してなるものかと歯を食いしばっているうちに、不意に気付いた。

(違う…………血が足りないせいじゃない、これは)

 辺りが暗いのは、血が足りないせいではない。魔王の身体から、胸に空いた傷から、黒い煙が噴き出しているからだ。

 これは────これは、先代の魔王を倒した時と、同じ────

(駄目だ…………駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ! こいつには、こいつだけには、絶対に!)

 視界が暗い。地面に倒れているはずなのに、どこかへ落ちていくような感覚がある。

 思考だけは抗っているが、悲鳴じみた思いだけでは何もできない。

 駄目だ駄目だと繰り返しながら、魔王は意識を失った。


☆☆☆


 雑踏の中を、ふらふらと歩く人影があった。

 どこか怪我をしているのか、右足を引きずり、左腕をだらりと力なく下げていた。

(セレネ?)

 怪我をしているのは、セレネだけではなかった。街のあちこちに、血の滲んだ包帯を巻いた男や、身体の一部を庇うように歩く女がいる。

 街道は欠け、建物の屋根が崩れ、あちらこちらに負傷者が溢れている。

 それでも、何故か人々の表情は明るかった。何かをやりきったような、守り抜いたような達成感に溢れている。

 街の中心には、巨大な図書館があった。硝子が割れ、建物の一部が崩れてしまっているが、それだけだ。

(リベイラは大丈夫だったんだな)

 街には、魔物の姿はどこにもない。既に死体の始末も終わっているのか、あちらこちらに血の染みがわずかに残っているだけだった。

 セレネはふらふらと歩き続け、やがて宿屋の中に滑り込んだ。猫の絵の看板を掲げた宿屋だ。それをしっかりと覚えておく。

 部屋の中に入り、扉を閉める。革鎧と剣帯を外したセレネは、そのままずるずると壁に背を預けるように座り込んだ。

「死ぬほど痛い、よな。多分」

 そう呟いた後に、服の胸元を緩める。それからセレネは、懐から引っ張り出した短剣の鞘を払い、その刃を自分の首筋に押し当てた。

(…………っ)

 強化魔法を長時間使用した後の反動は凄まじい。苦痛で早々に気絶できればまだ良いが、運が悪ければ骨が折れ内蔵が潰れる苦痛にのたうち回った挙句に死ぬ。

 だから、長時間強化魔法を使用し、その反動で必ず死ぬとわかっている場合、少しでも苦痛を感じる時間を短くするために自殺をするのだと、セレネから聞いたことがある。

 セレネは一度、大きく深呼吸をした。それから、首筋に押し当てた短剣を一気に引く────

「セレネ!」

 床に倒れ込んだセレネと、目が合ったような気がした。


☆☆☆



「…………っ」

 叫んだつもりになって、目が覚めた。それで、いつもの悪夢だったと気がついた。

「慈悲の神傷つき飢えた獣の嘆きに────」

 低い声が聞こえる。

 魔王もよく知っている、傷を癒すための魔法。傷病者を癒すためには、魔法の使用者は常に平静でいなければならない。たとえ患者がどれほど酷い有様でも、平常心でいる必要がある。

 声の主は、それをよく理解しているようだった。時折上ずりそうになるのを必死に堪え、もつれそうになる舌を制御する。たまに声が裏返ってしまうくらいは大目に見てもいいだろう。

 そのあたりで、どうやら治療されているのは自分らしいと気付いた。胸の中央に、誰かが手を押し当てている。その先から、優しい癒しの光が魔王の体内に注ぎ込まれていた。

 痛みはない。苦しくもない。ただ手足が鉛のように重かった。瞼を持ち上げるのすら気合いが必要だ。

 重い瞼を無理やり持ち上げると、額に汗を浮かべた幼い少年の姿が見えた。今にも泣き出しそうな青ざめた顔で、それでも淡々と呪文を唱えている。

 レオンハルトだ。どうやら無事だったらしい。幼い英雄の名前を思い出して、思わず頬が緩んだ。

「もう良い。大丈夫だ。助かった」

 呪文が止まった。レオンハルトの瞳が、大きく見開かれる。青ざめた顔がぐしゃりと歪み、泣き笑いのような表情になった。喉の奥から、泣き声とも呻き声ともつかないものが漏れる。

 ついに堪えきれなくなったのか、幼い英雄の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。

 まだ起き上がることができなかったため、腕だけを持ち上げてレオンハルトの背中をさする。手足はまだ重かったが、瞼を持ち上げる時ほどの気合いはいらなかった。

 レオンハルトが落ち着くのをのんびりと待つ。

 空の高さが眩しかった。不気味な紫色の雲も、稲光の音も消えている。雲一つない真っ青な空を、白い鳥が優雅に飛んでいた。

(…………ん?)

 違和感。確かにここは、頭上を遮るものが何もなかった。森の中でぽっかりと空いた場所だ。日の光が差し込めば舞台のようだと思ったのを覚えている。

 そこで灰色狼に襲われ、レオンハルトに助けてもらい、魔女がやって来て────

(魔女!)

 身体の重さを忘れて、魔王は跳ね起きた。

 まだ泣き顔のレオンハルトが目を丸くする。幼い英雄が口を開く前に、魔王はその襟首をつかんでいた。

「おい、魔女は…………魔女はどこだ? どうなったんだ!?」

 違和感の正体に気付いた。頭上に広がる空が広すぎる。

 いくらここが頭上に遮るものがない場所だとしても、ここは森の中だ。大木の影すら見えないのはおかしい。

「えっ、魔女って君が倒したんじゃないんですか!?」

「俺様が倒しただと…………?」

「だ、だって凄い爆発で…………僕は、魔女の魔力に飲み込まれてて、それが盾代わりになったみたいで何ともなかったんですけど。森はこんな風になってるし、君は血塗れで倒れてるし、とにかく治さなきゃって思って」

 森の大木は幹の半ばからへし折られ、真っ黒に焼け焦げていた。草花は灰になり、地面のあちこちに獣の爪痕のようなひび割れが走っている。

 平和なのは、頭上だけだった。

 辺りを見渡し絶句している魔王に、レオンハルトは言いにくそうに続ける。

「それと…………魔女は、あのあたりに」

 レオンハルトの指した先に、魔女はいた。

 へし折られた大木の根本に、頭だけが転がっていた。首から下は引き千切られ、身体は燃え尽きたのかどこかへ吹き飛ばされたのか、どこにも見当たらない。

 魔女の顔は壮絶だった。口元には満面の笑みを浮かべているのに、瞳は大きく見開かれ、何かに酷く驚いたか恐怖しているかのように引きつり血走っていた。何が起きたのかわからないという顔だ。

(ああ、そうか。あいつは英雄じゃないから)

 魔王を倒せるのは英雄の剣だけ。英雄の剣で斬られない限り、魔王はたとえ何があっても死ぬことはない。

 魔王の力が抑えきれなくなると、魔物が凶暴化し、治安が悪化する。先代魔王の時は、街が跡形もなく蒸発するという事件が起きた。それが、身の内に封印していた魔王の力が漏れ出した結果だとしたら。

(────まだ十年なのに。もう限界か。でもまあ…………頑張った方だよな)

 懐に手を突っ込み、水晶の首飾りを引っ張り出した。手のひらに握り込めるほどの大きさの水晶で、中央は白く濁っている。

 それを見て、魔王は何故か安堵している自分に気付いた。うっすらと笑う余裕まで出てくる。

 まだ大丈夫。まだ間に合う。これがあるから、何とかなる。

「あ、あの…………大丈夫、ですか?」

 おずおずとしたレオンハルトの声に、魔王は顔を上げた。心配そうなレオンハルトの顔を見て、にっこりと笑う。

「ああ、大丈夫だ。悪いな、手間を掛けさせて」

「大丈夫なら良いんですけど…………えっと、これからどうしましょう? もう動いても平気ですか? 平気なら、一度リベイラに戻った方が良いかなあと思うんですけど」

「そうだな。まずはリベイラに戻るか」

 リベイラは多分大丈夫だろうと思う。だが、セレネの方は心配だった。猫の絵の看板を掲げた宿屋を、探さなければ。

「リベイラに戻ってからで良いんだが、ひとつ頼まれてくれないか」

「えっ、僕にですか。何でしょう?」

 笑顔を崩さないまま、手の中の水晶を握り込む。

 まだ大丈夫。これがあるから、まだ大丈夫のはずだ。

「英雄の剣を抜いて欲しいんだ」

「え? それは、まあ…………あれ、もしかして、英雄の剣がどこにあるか、知ってるんですか!?」

 目を丸くするレオンハルトに向かって、魔王はゆっくりと頷いた。

 魔王は英雄の剣でしか倒せない。封印された英雄の剣は、正義の神アスタに選ばれた英雄にしか抜けないことになっている。

 そして、その英雄は、魔王の目の前にいた。

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