006 見守っている人々

 目を開ける。ぼんやりと白い天井が見えた。

 くすんで灰色に近くなっているそれを眺めているうちに、目の焦点がはっきりとしてくる。

 周りの物が輪郭を伴うようになってから、セレネはゆっくりと身を起こした。

(夢を…………見てた)

 小さな部屋だ。

 木製の机と椅子が、セレネが腰掛けている寝台のすぐ脇に置かれている。

 机の横に、小さな本棚と衣装棚が置かれていた。

 窓には薄いカーテンが掛けられており、その隙間から日の光が差し込んでいる。その向こうから、子供の笑い声が響いていた。

 その中に、よく知っている声がある。

「こっちだよー!」

「マオウ様、足おそーい!」

「わあ! あははっ」

「こら待て貴様ら、この俺様に逆らったらどうなるかわかっているのか?」

「どうなるのー?」

「全員、くすぐりの刑だー!」

 笑い声が弾けた。ぱたぱたと逃げ回る軽い足音がする。

 窓に近づいて、カーテンを開けた。

 この部屋は二階にあったらしい。下の方をのぞき込むと、小さな子どもたちが走り回っていた。その中に魔王の姿がある。

 不意に、魔王と目があった。

 真剣な顔で子どもたちを追いかけ回していた魔王が足を止め、こちらを見上げている。セレネは軽く片手を上げて微笑した。

 魔王も同じように返そうとしたのだろう。だが、片手を中途半端に上げたところで、子どもたちの中で体格の良い少年の体当たりを背中に受けて、前のめりに転倒する。

 魔王の背中の上に乗った少年が、勝ち誇ったように拳を空に突き上げた。

 他の子どもたちが、歓声を上げて次々と魔王に飛びついていく。

 ものの見事に潰された魔王はじたばたともがいているが、脱出にはもうしばらく掛かりそうだった。

(どこかの小さな村ってとこかな)

 二階建ての木造の家。舗装されていない、踏み固められてできた土の道。緑に溢れた穏やかな村。

 吸血鬼の村の近くは、森が広がるばかりで他の村や街は見当たらなかった。あの後、どうやってここまで辿り着いたのか。

 セレネが考え込んでいると、こんこんと扉を叩く軽い音が聞こえた。

「どうぞ」

 返事があると思っていなかったのか、扉の向こうにいる人物が小さく息を呑む気配があった。

 少し迷っているような間の後に、ゆっくりと扉が開く。

 入って来たのは小柄な老人だった。

 顔には深いしわが刻まれ、髪は真っ白だ。相当の高齢で、性別もはっきりしていないようだったが、背筋は曲がっておらず足取りもしっかりしていた。杖も持っていない。片手に、水の入った小さな桶と、白いタオルを抱えていた。

「ああ、目を覚まされましたか」

 老人は穏やかな口調でそう言って、桶とタオルを机の上に置いた。

「水を持ってきましょう。ご気分はいかがですか? もし食べられそうなら、少しお腹に何かを入れた方が良いでしょう」

「ありがとうございます。助けて頂いたんですよね…………あの、ここは?」

 こちらに背を向け、ゆったりとした歩調で部屋を出て行こうとする老人を呼び止めると、

「ここはリンドという村です」

「リンド…………」

「水と食事を持って来ます。もし、寝汗がお気になるようでしたら、そこにある湯と布をお使いください。着替えは棚の中にございます」

「あ…………」

「では」

 一礼して、老人が出て行く。

 そこでようやく、セレネは自分が寝起きだったことを思い出した。



 カーテンをしっかりと閉じ、身体を拭いて、着替えを済ませ────その後、セレネは寝台に腰掛けたまま頭を抱えていた。

 脂汗まみれでのたうち回ったり、吐血するところなども見られているので寝起き姿など今更だとも思うのだが。

(いや、とはいえ、これはちょっと)

 こんこん、と再び扉を叩く音がする。

「………………………………どうぞ」

 何とか顔を上げて、老人を迎え入れた。

 今度は、木製の盆を両手に抱えている。その上に、水の入ったコップと、スープの入った皿が載っていた。

 老人は盆を机の上に置くと、桶と布を回収して再び部屋から出て行った。その間にありがたくご馳走になる。

 盆を回収するために再度部屋に戻ってきた老人は、空になった皿を見て、

「大丈夫そうですね」

「ごちそうさまでした」

「良かったです。魔王様が大変心配されていましたから。このまま目覚めなかったらどうしようと」

「…………魔王様?」

「ええ。我々はあなたがたのご事情を存じております。そのうえでお助けしました。…………ですから、そんな怖い顔をなさらないでください」

 反射的に────無意識のうちに、右手が腰のあたりへ伸びていた。いつも剣を下げていた場所だ。

 あの剣は、強化魔法を解いた時に粉々に砕けてしまった。それを思い出して、セレネは苦笑した。

「失礼しました。つい…………癖のようなもので」

 言い訳のように、そう付け加える。

 老人は、穏やかな表情のままだった。

「いいえ。魔王様と共におられるのです。様々な試練があったことでしょう。用心して足りないことなどありませんからね」

 そして老人は、自分はリンドの村長なのだと名乗った。ちなみに女性である。数年前、村長だった夫が他界し、彼女がその後を引き継いだのだと言う。

「一週間程前、村がひとつ消し飛びました。何事かと気になったリンドの若者が数人、怖いもの見たさに様子を伺いに行き…………そこで、大怪我をしたお二人を見つけたのです」

 消し飛んだ村は酷い有様だった。建物は全て崩れ落ち、地面は割れ、更に全てが真っ黒に焼け焦げていた。

 遺体らしきものは見当たらなかった。骨も残さず燃やし尽くされてしまったのか、それとも崩れた建物の下に隠れてしまったのか。

 リンドの若者たちは、その惨状を見ても、生存者がいるか確かめるためにその村の中に入った。

 そして、気絶したセレネと、必死に回復魔法を唱える魔王を見つけたのだ。

「一目で、あの方が魔王様だとわかったそうです。魔王様は片腕を根本から失い、背中にも大きな傷がありました。普通の人間ならば、出血多量で死んでいたことでしょう。魔王様は、ご自分の傷には構わずに、あなたを治そうと必死に回復魔法を唱えられていたそうです」

「あの子が…………そんな」

 簡単に想像できた。自分の治療を先にしろと言っても、魔王はセレネの方を優先する。

「私は放っておいても良いって、言ってるんですけどね」

「魔王様はそう思ってないのでしょう。あなたは随分うなされていましたし、酷く苦しそうなご様子でしたから」

 若者たちに連れられて、魔王とセレネはリンドまでやって来た。魔王は自分で自分の傷を治し、セレネが目覚めるのをひたすら待っていた。

「随分お世話になってたんですね。ありがとうございます」

「いいえ、リンドに生まれた者の使命ですから。お礼を言われるようなことはございません」

「使命?」

「私たちリンドの者はずっと見守ってきました。この世界を。英雄を。そして…………世界を守るために散っていった魔王様を」

「世界を守るために散っていったって…………」

「ええ」

 村長がゆっくりと頷いた。

「私たちの時の流れは、他の人と比べてとても緩やかです。故に、私たちには世界を見守り、魔王様の行く末を見守るという使命があります」

 窓の向こうから、子どもの笑い声がする。

 先ほどよりも遠くなったような気がした。

「それ故に、でしょうか。歴代の魔王様は、必ず一度はこの村を訪れます。私の記憶が正しければ、その間隔が短くなっているような気がします。どの時代の魔王様も、救いを求めておられました────次の英雄が現れる前に、己の内に眠る力を封印できないかと」

 村長が懐から、二つの小さな球体を取り出した。

(水晶か?)

 手のひらに握り込める程度の大きさで、中央が白く濁っている。

 村長は水晶を両手に載せて、それに視線を落としていた。

「私たちには長い時間がありました。三代目の魔王様までは、ただ見守ることしかできませんでしたが、せめてその後の魔王様のお力になれればと…………魔王様のお力を封印するための魔法具を、作りました」

「それなら」

 セレネは声を弾ませた。期待せずにはいられなかった。

 しかし、村長は哀れみを込めた声で言ってきた。

「ですが、魔王様のお力を封印するのは、魔王様が英雄の剣で斬られた時────次期魔王様に力を継承する時にしか、できないのです。そのため、今代の魔王様をお救いすることはできません」

「…………そんな」

 呻くような声が、喉の奥から漏れた。

 村長の言葉から逃れるように、セレネは窓の外に目を向けた。

 少し離れた場所に、魔王の姿が見える。

「あはははははっ、も、もう無理、もう無理っ! もうやめてー!」

「はっはっはっ、どーだ参ったか! これが俺様の実力だ!」

「みんなー、レックのピンチだ! 突撃ーっ!」

「何っ!? おい貴様ら、大勢なんてひきょ────うわわわわわわわっ」

 反撃に出たはずの魔王が、再び子どもたちに押し潰されていた。楽しそうに、幸せそうに笑っている。

 あの子を救うことは、できないのか。

「先代や先々代の魔王様も、別の方法があるはずだと、これを受け取りはしませんでした。あなた方はどうなさいますか」

 セレネは片手で顔を覆った。今口を開いたら、村長を罵倒してしまうような気がする。首を横に振るだけで精一杯だった。

 村長が、静かな声で言った。

「そうですか…………何のお慰めにもならないかとは思いますが、いつの日か魔王様が救われますよう、我々も祈っております」


☆☆☆


 セレネが目覚めてから三日後。二人はリンドの村から旅立った。

 見送りに来た村の子どもたちに手を振り、そう歩かないうちに、リンドは森の木々に隠れて見えなくなってしまった。

「また来れると良いですね」

「ああ」

 時折名残惜しそうにリンドの方を振り返る魔王に、セレネはそう言った。

 その腰には、赤銅色の鞘に納められた剣が下げられている。旅をするのに剣がないのでは心細いだろうと、リンドの村長が用意してくれた物だ。

 この三日の間に、セレネはリンドの村長に『魔王』について色々と聞くことができた。魔王から既に聞いていたことも合ったが、セレネが今まで知らなかったこともあの老人は語ってくれた。

 それでも、まだ諦めることはできなかった。

「えらい目に合ったが、リンドに辿り着けたのは良かったな」

 魔王が懐から、首飾りのような物を引っ張り出した。

 それを見て絶句する。

「魔王様、それは」

「勘違いするな。俺様は諦めたわけじゃない」

 手のひらに握り込めるぐらいの大きさの、中央が白く濁っている水晶。それが二つ、鎖で繋がれて首飾りのようになっていた。

「だが、ノアが最期に起こしたあの爆発────セレネはほとんど気絶していたから知らないだろうが、あれで村がひとつ吹き飛んだ。俺様の時はああならないとは断言できない…………いや、もしその時が来たら、もっと酷いことになると思う」

 魔王が水晶を、手の中に握り込んだ。

 ノアは、最期の爆発で村を跡形もなく消し飛ばした。英雄の剣で斬られない限り死ぬことすらできない魔王と、何度死んでも蘇ることができるセレネだからこそ、こうしてまだ旅を続けることができる。

「魔王は俺の代で終わりだ。終わらせてやる。絶対に」

 独り言のように、小さく、呻くように魔王は呟いた。

 それから長いため息をついて、懐に水晶を戻す。

「だからまあ、これは保険というか、万が一のためというか、そんなところだ。他で何とかできるなら、それが一番良い」

「そう、ですね」

 ────他の方法を、魔王を救う方法を、見つけなければ。

 おそらく魔王より強く、セレネはそう思った。

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