006 力
「ああ、やっぱり。死んでなかったんだね。待っていたよ」
肩に刺さった短剣を引き抜いて、ノアが言う。
吸血鬼と向き合ったまま、セレネは横目で魔王の姿を探していた。
(…………良かった)
魔王は吸血鬼のすぐ近くにいた。額に冷や汗を浮かべ、肩で大きく息をしている。無事だとは言えないが、自分で立ち上がるだけの気力はまだ残っているようだ。
できればセレネに構わずに逃げてくれるとありがたいのだが、彼の性格や今の状況を考えると難しいだろう。ノアを倒す必要がある。
呆然とこちらを見つめる魔王が少しでも安心できるようにと、セレネは一瞬だけ魔王に笑いかけた。それから改めて、ノアに向かって宣言する。
「待たせて悪かったね。それじゃ、うちの坊ちゃんは返してもらうよ」
ノアの答えを待たずに、セレネは一息に踏み込んだ。
腹から頭に向かって、真っ二つにしてやるつもりで剣を振り上げる。ノアの身体に刃が届く前に、吸血鬼の右の爪で受け止められ、払い落された。剣を通した衝撃が、セレネの両腕に伝わっていく。
「驚いたな。ただの剣なら折れてるはずなのに」
左の爪が、セレネのこめかみを狙って突き出された。大きく後ろに跳び退いて回避する。ノアは追って来ない。
「ああなるほど。やっとわかったよ。君、強化魔法を使ってるんだね?」
「へえ、あんた、強化魔法のことを知ってるのか。物知りだね」
「僕は人間と違って長生きだからねえ。だけど、本当に驚いたよ。剣だけじゃなくて自分の身体にも強化魔法を掛けるなんてね」
「そうでもしなけりゃ、あんたに勝てそうにないからな」
強化魔法は、主に武器の耐久力を上げるために用いられる。戦争などが起きた時に、武器の消費を少しでも抑えようと生み出された魔法だ。強化された武器は、何人斬り捨てても刃こぼれせず、切れ味が落ちることもなく、強化魔法の効果が続いている間はどんなに乱暴に扱っても壊れることはない。
人間にこの魔法を使用すれば、一時的に筋力や持久力を大幅に上昇させることができる。
だが、強化魔法はあくまでも武器のために生み出されたもので、人間に使用することは想定されていない。強化をして、その間の無茶は魔法の効果が切れた時に一気に襲ってくる。
武器ならば粉々に砕け散るだけだが、それが人間ならばどうなるか。身体に掛かる負担が大きすぎるために、死亡者が出ることもあった。
かつて神聖教会に反逆した邪教が、この魔法を好んで使用していたことや、死亡事故が相次いだこともあって、現在では生物への強化魔法の使用は禁止されている。
「こっちは強化魔法まで使ってるっていうのに、ひび止まりだ。あんたこそ、一体何をやったんだ?」
セレネの剣を受け止めた右の爪に、大きくひびが入っていた。それを見て、ノアは楽しそうに笑う。
昨日は素手でも吸血鬼の爪をへし折ることができた。それが、たった半日でひびを入れるだけに留まっている。
ノアの力が、強大になっている。
「僕は魔王の血を飲んだからね。力がとても強くなった。それは君も同じだろうけど、僕と違って君には時間が無い。そうだろう?」
ノアの言葉に、セレネは肩をすくめて見せた。
吸血鬼の言葉は正しい。強化魔法を使用したのがほんの数分程度なら、その反動は全身筋肉痛程度で済むだろう。
だが、セレネが強化魔法を使用してから、既に一時間近く経過している。魔法の効果が切れた瞬間、反動のせいで死ぬ可能性は高い。
「そうだね。だから、私が死ぬ前にあんたを殺せば良いだけだ」
それは既に覚悟していたことだ。
英雄の剣を持たず神聖魔法を使えないセレネでは、そうでもしなければノアを傷つけることすらままならない。
「僕を殺すだって? 随分つまらない冗談だねえ───あまり早く死なないでおくれよ。僕はこの力を試したいんだ」
「!」
囁きと同時に、ノアがセレネの目の前に現れた。触れるか触れないか、そんなすぐ近くに吸血鬼の青白い顔がある。
反射的に逃げようとした足を無理やりその場に留めて、セレネは腰を落として姿勢を低くした。セレネの首筋を狙って、吸血鬼の口が大きく開かれる。
この距離では、剣はまともに使えない。ノアの懐に潜り込んだセレネは、ノアの顎に掌底を叩き込んだ。
相手がただの人間、あるいは魔王の血を吸う前の吸血鬼であったなら、顎の骨が砕けていただろう。だが、ノアは数歩後ろによろめいただけだった。
鈍い痛みを訴える手のひらに、もしかしたらセレネの痛手の方が大きいのかも知れないと、嫌なことを思いつく。
「それで全力かい?」
ノアが体勢を立て直す前に、胴を真っ二つにしてやるつもりで剣を振るった。あっさりと長い爪で受け止められる。
ひびの入った右の爪を庇っているのか、吸血鬼は両手の爪で剣を挟むようにしていた。
剣を手放すか、力ずくで振り払うか。迷ってしまった。
「なんだ、大したことなかったね」
(こ、の…………っ!)
セレネの足が、床から離れた。ノアに剣ごと放り投げられたと気付いた時には、教会内に設置されていた長椅子の上に叩きつけられていた。
痛みではなく、衝撃のせいで意識が遠くなった。
息ができない。
遠くなる意識を無理やり引き戻して立ち上がろうともがいたが、身体が言う事を聞いてくれない。
「それなりに楽しかったよ。でももう良いかな。大体はわかったし」
ノアの声が聞こえる。
聞こえるだけで、どこにいるのかはわからなかった。
目を開けているはずなのに、周りの物の輪郭が全てぼやけて、はっきりとした形ではなくなっている。
人影が見えた。セレネに向かって、右手を振り上げている。
(また…………殺されるのか)
────違う。すぐに否定する。
あれはノアの影だ。神聖教会の人間ではない。今は魔王がいる。あの子を守らなければ。だから吸血鬼を倒さなければならない。呑気に殺されてる場合ではない。死んでいる場合ではない。
「怖がらなくても良いよ。すぐには殺してあげないから」
右の脇腹に、じわりと不快な痛みが広がった。
ノアの爪に斬られたのだと、ぼんやりとした頭で考える。
「こうやって少しずつ切り刻んで、いつまで君が生きていられるか観察するっていうのはどうだい? 血が足りなくなって死ぬか、僕の毒に耐えきれなくなって死ぬか。その前に痛みで発狂するかな?」
「…………芸がない、な」
「まだそんな生意気が言えるんだ。面白い命乞いができたら、一瞬で終わらせてあげるつもりだったけど、気が変わったよ」
右腕に、左足に、左の頬に、不快な痛みが広がっていく。
傷自体は浅い。引っかき傷程度だ。だが、数が増えれば痛みを無視することが難しくなる。さらに、それぞれの傷は、吸血鬼の毒のせいで不快な熱を帯びていた。
(動け…………)
悲鳴だけは上げるまいと歯を食いしばりながら、セレネは身体に命令した。
剣はまだ握りしめたままで、手放してはいない。
腕で床を押して、何とか起き上がることに成功した。まだ視界はぼやけたままだ。
右肩を掠めるように、吸血鬼の爪が降ってきた。避けられない。耐えるしかない。
「まだ起きるんだ、頑張るねえ」
不意に、腕をつかまれてノアの胸元に引き寄せられた。
「セレネ!」
魔王が悲鳴のような声をあげる。その直後に、セレネの鳩尾に拳大の光球がめりこんだ。
「ぐ…………っ」
ノアがセレネから手を離す。支えを失ったセレネは、身体をくの字に折って膝から崩れ落ちた。
目の前が暗くなる。焼けつくような痛みが鳩尾に張り付いていた。
吸血鬼の毒のせいか、ぐらぐらと揺れているような感覚があった。悪寒が背筋を這い登り、身体ががたがたと震えだす。
「神聖魔法なんてもう怖くないけどね、良い盾があったから使わせてもらったよ」
「お前…………」
「君はそこで大人しく見物してなよ。変なことをしたら、君の従者を殺しちゃうよ?」
まだ気絶するわけにはいかないと、セレネは何とか顔を上げた。
青ざめた魔王と、目が合う。
彼の両手からは、淡い光が零れていた。固く拳を握り、今にも泣き出しそうな表情を浮かべて、セレネを見つめている。
「…………大丈夫」
その顔を見て、セレネはふっと頬を緩めた。
「大丈夫。大丈夫です。私を助けようとしてくれたんでしょう? そんな顔しないで。これくらいなら全然平気です」
「まだそんな強がりが言えるんだ! すごいねえ!」
セレネの左腕を、吸血鬼の爪が貫いた。食いしばった歯の奥から、うめき声が漏れる。
「セレネ!」
魔王が再び悲鳴じみた声をあげた。ノアがこれみよがしに笑ってみせながら、ゆっくりと爪を引き抜いていく。
声を漏らすまいと必死に耐えながら、セレネは自分に言い聞かせるように胸中で呟いた。
(まだ利き手は使える。まだ立てる。まだ私は生きてる。あの子を守ってやらないといけない。私が死ぬ前に、ノアを殺す)
ぎりぎりまで引き付けて、ノアの心臓を剣で貫く。
もう余計な体力も気力も残っていない。できるとしたらそれが精一杯だろう。
ノアがセレネをすぐに殺さずに、じわじわといたぶることを選んでくれたのは、好都合だった。残った力をかき集め、ノアを殺すための好機を待つことができる。
「その強がり、いつまで続くのか楽しみだ。今度は右腕を切り落としてあげよう。それなら少しは大人しくなってくれるよね」
ノアの爪が、セレネの右肩に振り下ろされた。横に身を投げ出すようにして、それを回避する。目の前に、吸血鬼の無防備な背中があった。
セレネはがら空きになったノアの背中に渾身の力を込めて剣を突き刺した。
(────ッ!)
剣に返ってきたのは、肉を貫く感触ではなく、硬い石の床を叩いた衝撃だった。
セレネは胸中で言葉にならない叫びをあげた。確かにノアを貫いたと思った。だが、回避された。
必死にかき集めた力が散っていく。もう余力はどこにもない。
「ただの人間にしては、よく頑張った方だと思うよ。僕には全然足りなかったけど」
背後から頭をつかまれた。床に叩きつけるように押さえ込まれ、今度こそセレネの右腕を切断しようと、吸血鬼の爪が降ってくる。
「────白き刃に望むは罪の浄化と聖なる祝福!」
早口に唱える少年の声。
覚悟していた痛みは、いつまでもやって来なかった。
「え…………な…………に、が」
ノアが呆然と呟く。
その胴を横切るように、青い血の線が浮かび上がった。
ノアの手から、力が抜ける。胴に浮かび上がった線から上の部分が先に倒れ、残った下半身も少し遅れて床に落ちた。
「いくら俺様の血を吸ったところで、最上級の神聖魔法はさすがに効くだろう?」
ノアの向こう側から、巨大な光の鎌を構えた魔王が現れる。
魔王は吸血鬼を両断した光の鎌を床に投げ捨て、そのままセレネの方へと近付いてきた。
(助けるつもりだったのに、助けられちゃったな)
セレネは苦笑して、目を閉じた。
魔王は吸血鬼を倒す好機をひたすら待っていた。一度目は失敗したが、その次は成功させた。
これで安心して気絶できる。セレネがそう思った時、足音がすぐ近くで止まった。
「気絶するのは良いが、その前に強化魔法を解けよ」
「いやあ、でも今解いたら多分死ぬほど痛いし、動けなくなっちゃいますよ、私」
「自業自得だ。大体、今だってまともに動けないだろう」
「頑張れば何とかなりますよ?」
目を閉じたまま、セレネは軽口を叩いた。声はいつもの調子だったと思う。
「頑張らなくて良い。もう充分だ。すぐに治すし、死なせないから安心しろ」
「…………それは頼もしい」
心の準備をしてから、セレネは強化魔法を解いた。
剣の刃に無数のひびが走り、粉々に砕け散る。
次の瞬間に襲ってきた苦痛は、たとえ覚悟していても耐えられるものではなかった。
骨が軋み、内臓がよじれ、筋肉が悲鳴を上げる。身体の表面は燃えるように熱いのに、内側は凍えるように冷たくなっていった。ぼろぼろと涙が零れた。息がうまく出来ずに、何度も浅い呼吸を繰り返す。
悲鳴を喉の奥で押し殺すことには成功したが、それ以上の強がりはできなかった。
身体を丸め、早く治まってくれることを祈りながら、ひたすら耐える。
背中に、魔王の手が押し当てられた。ゆっくりとさすられて、ほんの少しだけ呼吸が楽になる。
魔王が回復魔法を唱える低い声が聞こえた。少しずつ、本当に少しずつ全身を包む苦痛が引いていく。
「…………ふふっ…………ふ…………」
掠れた笑い声がする。
何事かと思って、セレネは目を開けた。涙のせいで視界は滲んでいたが、先ほどよりは物の輪郭がはっきりとしている。
真っ二つに両断された吸血鬼は、まだしぶとく生きていた。口から青い血を吐き出しながら笑っている。
「油断した…………油断していたよ、本当に…………でも一人では死なない…………死なないよ…………」
回復魔法の詠唱が止まる。
もう何もできないはずの吸血鬼が、血と共に言葉を吐き出していた。
「大きな力を持つ者が死ぬ時…………その内に秘められた力が全て放出される…………さあ、僕の場合は、どうなるかな…………?」
ノアは最期にそう言い残して、目を閉じた。
息絶えたらしい吸血鬼の死体から、青い光が漏れ出している。
「…………っ! セレネ!」
「私はいいから、早く───」
魔王がセレネを抱えあげた。結界を張ろうと、早口に呪文を唱えている。
だが、間に合わない。
「────ッ!」
青い光が、セレネと魔王の視界いっぱいに広がった。
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