005 吸血鬼の村

 ────魔王の従者を連れて来ておくれよ。

 主が自分に声を掛けてくれる。いつもならば震えるほどの幸福感で満たされるはずなのに、その時は何故かときめかなかった。

 それどころか、ざわりと胸騒ぎまでする。

(ああ、ノア様────わたくしがあの女に勝てないこと、ご存知でしょう?)

 夢魔を傷つけるのに、特別な武器や魔法は必要ない。

 夢魔が絶大な力を発揮するはずの夢の世界の中でさえ、あの女に敵わなかった。

 ただの人間如きよりも自分が劣っていると認めるのは非常に不本意だったが、あの女が夢魔に見せた悪夢の恐怖はまだ残っている。

 ────あれ? 浮かない顔をしているね。綺麗な顔が台無しだよ。もしかして失敗した時のことを考えてる? それなら大丈夫だよ。魔王が僕の手の内にいるってわかったら、あの従者は大人しくついて来るさ。

 面白い遊びを思いついた子どものように目を輝かせて、吸血鬼は言う。

 ────大丈夫。君が死んでも問題ない。手は打ってあるんだ。君の死をきっかけにして、村にいる僕の使い魔が一斉に君を殺した者に襲いかかるんだ。どうだい、面白いだろう?

 無邪気に吸血鬼は笑う。

 そこで、夢魔はようやく胸騒ぎの正体を理解した。

(…………ああ、ノア様)

 使い魔にとって、主の命令は絶対だ。殺せと言われれば殺すし、死ねと言われれば死ぬしかない。

 生まれてからずっとそうだった。それ以外の生き方を、夢魔は知らない。

 ────使い魔たちと戦いながら、魔王を探すんだ。きっと大変だろうね。あの従者は僕のところまで辿り着けると思う? その前に死んじゃうかな。ああ、ごめんね。その時には君はもう死んじゃってるから、わからないよね。

「…………ノア様の、お望み通りになりますわ」

 夢魔は、何とか喉の奥から声を絞り出した。

 生まれてから今までで一番美しく見えるようにと願いながら、ゆっくりと微笑む。

 夢魔が死んだ後、せめて少しでも長く主に覚えていてもらえるように。


☆☆☆


 手足を拘束されることはなくても、剣は取り上げられるだろうなとセレネは思っていた。

 だが、夢魔は何もせずにセレネに背を向けて歩いている。

 その姿は隙だらけで、セレネがその気になればいつでも殺せるような気がした。

(まあ、あの子が人質になってる間は、身動き取れないんだけどね)

 魔王が吸血鬼────ノアと言うらしい────の手の中にいる間は、迂闊な真似はできない。

 無言のまま歩き続け、森を出る。

 夢魔が立ち止まった。その視線の先には、先日セレネたちが宿を取った村がある。

「あの村は、ノア様の村なのよ」

 セレネに背を向けたまま、夢魔は独り言のように呟いた。

「ノア様の村に、人間は必要ないわ。いるのは、ノア様と、ノア様に仕えるわたくしたちだけ。たまに間抜けな獲物が迷い込んで来るけど、わざわざこちらから探す手間が省けて大助かりよ」

「なるほどね」

 通りで吸血鬼のことが全くわからなかったわけだ。

 魔物の中には、人間に化けることができるものもいる。

 村人全員が人間に化けた吸血鬼か、あるいはその使い魔であるなら、何も知らずに訪れた旅人が喰われたとしても、噂すら残らないだろう。

「…………お前がわたくしを殺せば、この村の全員がお前に襲いかかる。その中心に、ノア様と魔王がいるわ」

「へえ」

「驚かないのね」

 ほんの少しだけセレネの方に身体を向けた夢魔が、視線だけで射殺そうとするかのように睨みつけてくる。

 それを受け流して、セレネは苦笑した。

「多少は驚いてるさ。ずいぶん親切だなって。ついでにうちの坊ちゃんの具体的な場所も教えてくれるとありがたいんだけど」

「そこまで親切にはなれないわね。みんなノア様を守るために必死だから、近づけば近づくほどお前への攻撃が激しくなるんじゃないかしら」

「教えてくれたら、見逃してあげてもいいんだけど?」

「見逃す? このわたくしを?」

 そこで夢魔が、完全にセレネの方に向き直った。

「そんなの必要ないわ! ノア様がわたくしの死をお望みなんだから!」

 夢魔の瞳には、激しい怒りがあった。それでも吸血鬼の使い魔は、唇の端を引き上げて笑顔を作ってみせる。

「ノア様は、わたくしを殺して、わたくしたち使い魔を殺し尽くしたお前と戦うことをお望みなのよ! だからわたくしはお前に殺されてやるの! 他のみんなだって同じだわ。ノア様のお望みを叶えて差し上げるために、全力でお前を殺しに行くし、全力でお前に殺されてやるのよ!」

「────そう」

 セレネは剣の柄に手を掛けた。夢魔が勝ち誇ったように言う。

「お前なんて、ノア様にすぐ殺されるわ」

「…………自分勝手な主人を持つと大変だね。道案内、助かったよ。ありがとう」

 剣を抜く。夢魔が反応するよりも早く、豊かな胸の中央に剣の切っ先を突き入れた。

 心臓を突き破られた夢魔は、狂気的な笑みを浮かべたまま事切れた。その身体は地面に倒れ込む前にさらさらと砂のように崩れ、風の中に消えていく。

「───! ────!!」

 夢魔の身体が完全に消滅した後、吸血鬼の村の方から、何かが爆発したような音がした。

 包丁や斧、箒などを振り回しながら、村人たちがセレネを目掛けて駆けて来る。爆発したような音の正体は、彼らが発する奇声だった。

 夢魔の死をきっかけに、残りの使い魔が一斉にセレネに襲いかかる。全力で殺しに、また全力で殺されるために。

 敬愛する主のためとは言え、死ぬことを望まれた夢魔や、ノアの使い魔たちは、一体何を思っていたのか。

 一瞬浮かんだ同情めいた思いを、セレネは頭を振ってかき消した。

 夢魔も、他のノアの使い魔たちも、自分たちの敵であるセレネに同情されたくないだろう。

「まあ、出来るだけ早く────あんたたちの主も、そっちに送ってやるよ」

 突進をして来る村人の先頭。薪割り用の大振りの斧を振り上げている青年を見つめて、セレネは目を細めた。

 覚悟はできた。

 かつて、正義の神によって滅ぼされた異端の女神への祈りの言葉を────呪いの言葉を叫ぶ。

「戦女神よ、哀れな黒騎士に祝福を!」

 紅い光が、薄くセレネを彩った。

 剣の先にその光が宿ったことを確認して、セレネは村人たちの中へ突入した。


☆☆☆


 何かが爆発したような音が、教会を揺らしていた。

 床に転がした少年から少し離れて、ノアは目を細める。

「ああ、やっぱり生きていたんだね」

 それは倒れたままの少年に向けられた言葉だったが、応えはなかった。

 血を吸われ、吸血鬼の毒に冒された少年は、すでに意識があるかどうかもあやしい。

 顔を近づけてみると、うっすらとではあるが目を開き、ノアを睨みつけてきた。

(良いねえ、本当に。壊し甲斐がある)

 魔王の従者が使い魔に押し潰されて死んでいるのなら、その死体を少年の前に転がしてやるつもりでいた。

 だが、吸血鬼の爪を素手でへし折るような女だ。あの程度で死ぬとは思えない。

 夢魔を斬り捨て、おそらく村中の使い魔と戦いながら、ここを目指している。

 魔王の血を吸ったことで、ノアの力は元の倍にまで跳ね上がっていた。その力試しの相手に、あの魔王の従者は相応しい。

 そのために、ノアは手持ちの使い魔を全て失っても構わないとすら思っていた。

 それに、目の前で信頼していた従者を殺してやれば、少年の心を壊すことができるかも知れない。

 魔王の血は欲しい。だが、ことあるごとに睨みつけてくるような生意気な人間はいらない。

 だから、少年の心を壊し、ただ呼吸をするだけの人形にしてしまえば良い。

「…………の、めぐ…………ぎ…………」

「ん?」

 浅い呼吸の間から、少年が声を絞り出していた。自分の喉元をつかみ、何やら呟いている。

 最初はただ呻いているだけなのかと思った。だが、喉元をつかんだ指の間から、白く淡い光が漏れている。

(回復魔法…………いや、解毒してるのか!)

 ノアは反射的に、少年の腹を蹴り飛ばした。

 少年は床の上をごろごろと転がり、長椅子のひとつに背中をぶつけてようやく停止する。

 うわごとのように続いていた呪文は、激しい咳に変わった。

 腹を抱えるようにしてうずくまる少年の首筋を見ると、既に傷跡が消えている。

「そうだった。君には神聖魔法があったんだね」

 神聖魔法には魔物を滅する攻撃魔法と、傷病者を癒すための回復魔法があった。それを思い出して、ノアは忌々しげに呟いた。

 額に冷や汗を浮かべた少年がゆっくりと立ち上がる。既に次の呪文を唱え始めており、その両手に淡い光が集まりだしていた。

(手間が掛かるお人形君だ)

 神聖魔法は最早脅威ではない。多少ノアを傷つけることはできるだろうが、それだけだ。

 何度回復魔法を唱えても無駄だと思い知るまで痛めつけて、刃向かう気持ちを奪ってしまえば良い。

 ノアはゆっくりと手を伸ばした。爪が届く範囲にまだ少年は入っていないが、距離なら一瞬で詰められる。

(どこから傷つけてあげようか)

 どこなら気絶せずに、最も苦痛を与えることができるか。

 ノアはゆったりと右手をあげ────

 ────どん、と右肩に何かがぶつかった。

(なに…………!?)

 右腕に力が入らない。ノアの肩の付け根に、短剣が突き刺さっていた。傷口から、青い血が溢れ出していた。

「セレネ」

「やっと見つけましたよ、魔王様」

 少年の瞳に、安堵の光が灯った。それを見て、ノアは何が起きたのかを理解する。

 蹴破られた扉のすぐ近く。ノアに向かって短剣を投げつけた姿勢のまま、返り血に塗れた魔王の従者が不敵な笑みを浮かべていた。

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