004 希望

(…………何処だ、ここは)

 身動きが取れない。首を左右に動かすだけで精一杯だった。

 目の前が不自然に揺れている。眠い。今どんな状況なのかを把握するために、魔王は落ちそうになる瞼を必死にこじ開けた。

 彼の正面には大きな扉があり、その下からくすんだ赤色の絨毯が真っ直ぐこちらに向かって伸びていた。

 絨毯の左右には、木製の長椅子がいくつも並んでいる。

 少し顔を上げれば、色硝子で装飾された 明かり取りのための窓が見えた。そこから光が差し込んできている。部屋の中は薄暗かったが、もう朝か昼になっているのだろう。

(教会…………だけど、神聖教会じゃない…………)

 もしここが神聖教会なら、絨毯の色は赤ではなく青のはずだ。

 そんなことをぼんやり思いながら、魔王は自分の状況を把握した。

 神聖教会ではない教会の十字架に手足を縛り付けられ、放置されている。

(吸血鬼が教会…………悪趣味だな)

 セレネが見回りに行ってから少し経った頃。魔王はコウモリの大群に襲われた。

 すぐにそれが吸血鬼の使い魔だと気付いて結界を張ったが、足下の闇から湧き出てきた吸血鬼には対処できなかった。

 神聖魔法を唱える時間もなく呆気なく気絶させられ、気が付いたらこの状態である。

 首筋に小さな痛みを感じて、魔王は顔をしかめた。

 気絶している間に血を吸われたのだろう。目の前が揺れているのは貧血か、それとも吸血鬼の毒のせいか。

 どちらにしても、このまま大人しくしているわけにはいかなかった。手足を縛り付けている荒縄を切るために、呪文を唱える。

「おやおや、もっと弱っているものだと思っていたんだけど。元気だねえ」

 くすくすと笑う声が聞こえた。

 吸血鬼だ。構わずに詠唱を続ける。

 小さな光の刃が、魔王を拘束していた縄を切断した。その下にあった皮膚も浅く切り裂いていたが、気にしてはいられない。

 膝が体重を支えきれずに、魔王はその場に崩れ落ちた。すぐに跳ね起きて、次の呪文を唱え始める。

 吸血鬼は、扉のすぐ近くにいる。魔王までの距離は、大人の足で五十歩ほどある。

 それだけあれば、吸血鬼がこちらに来る前に、神聖魔法を二つは唱えられるはずだった。

 魔王が詠唱を始めるのを見ても、吸血鬼の表情は変わらない。自身の優位を確信しているようだった。

「そうそう、君が寝ている間に少し味見をさせてもらったんだけど、本当に美味しかったよ。魔王の血を飲むと強大な力を得られるっていうのは本当だったんだね? ほら」

 吸血鬼の姿が消えた。次の瞬間には、もう魔王の目の前にいる。

「こんな風に」

「────ッ!」

 心臓が跳ねた。横に身を投げ出して、転がるように距離を取る。

 それと同時に、手の中に生まれていた光の剣を吸血鬼に向かって投げつけた。

 吸血鬼は優雅に微笑んだまま、避ける素振りすら見せずに光の剣を掌で受け止める。

 魔物に当たれば骨も残さずに蒸発させるほどの威力があるはずの神聖魔法は、吸血鬼の掌を浅く傷つけただけで砕け散った。

 魔王は呆然と吸血鬼を見つめていた。片膝をついた姿勢のまま、必死に呼吸を整える。

 掌の傷を魔王に見せつけるようにして、吸血鬼が言った。

「ほら、見てごらん。普通なら掠っただけでも僕を殺せる魔法も、君の血を飲んだだけでここまで防げるんだ。満月の夜でもこうはいかないよ。今なら僕も魔王を名乗れるかも知れないね」

 吸血鬼が手を伸ばしてくる。

 呪文を唱える気力も、距離を稼ぐために逃げる体力も、既に魔王には残っていなかった。

「怖がらないでよ。殺さないであげるから」

 魔王に覆い被さるように屈んだ吸血鬼が、首筋に牙を食い込ませた。

(セレネ、は)

 血を吸われる感覚に、悪寒が走った。今どこにいるかすらわからない彼女のことを思い出す。

 セレネは今、どんな状況なのか。

 生きているのか、死んでいるのか。

 もし生きているのなら、逃げていてくれたら良いと思う。

 だが、彼女はきっと魔王を助けに来るだろうとも思った。何の手掛かりがなくとも、ここを見つけ出して。

「ああ、そうだ。もし君の優秀な従者がここまでたどり着けたら、君の目の前で殺してあげるよ。楽しみだね」

(じゃあ、セレネは生きてるのか)

 己の無力さを噛み締めながら、魔王はゆっくりと意識を手放した。


☆☆☆


 昼の森の中に、コウモリの死体の山が築かれていた。

 何匹かは剣で斬り殺されたようだったが、大半は後から来た者の体重に押し潰されて死んでいた。

 その山の中から、白い腕が突き出した。続いて、上半身が現れる。

「そう…………何度も…………死んで、たまるか…………っ」

 地を這うような呻き声と共に、セレネは死体の山から身体を引きずり出した。

 地面に転がって、酸素を求めて喘ぐ。

 身体が必要としていた量の酸素を手に入れて、セレネはようやく落ち着いた。

 意地でも離すまいと握りしめていた抜き身の剣を鞘に収め、身体に貼り付いたコウモリの死骸を払い落しながら、昨日焚き火を起こした場所へと戻る。

 焚き火の跡の前に、荷物がそのまま残されていた。コウモリの死骸がいくつか落ちている。

 魔王の姿はなかった。

(あの子は…………)

 唇を噛む。逃げてくれているのなら良いのだが、彼の性格を考えるとその可能性は低いだろう。

 何としてでも助けなければならなかった。だが、手掛かりがない。

「ノア様のご命令よ。お前を連れて行くわ」

 背後から、艶のある女の声がした。

 ゆっくりと振り返る。不機嫌そうに顔をしかめた夢魔が、豊かな胸を見せつけるように腕を組んで立っていた。

「抵抗なんて考えないことね。もしそんなことをしたら、お前の可愛い魔王がどうなっても」

「わかった」

 夢魔の言葉を遮って、セレネは頷いた。

「あんたについて行けば、あの子に会えるんだろう? 道案内を頼むよ」

 

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