003 古城の魔物
「うわあ、本当にぼろぼろですね。あんなので良いんですか、本当に?」
朽ちかけた古城を見上げて、セレネは思わずそう呟いた。
もう何十年も人の手が入らないまま、長年雨風に晒され続けてきたのだろう。
屋根や塔の一部が崩れ、壁にはびっしりと植物が絡み付いている。
大きな鉄製の門の片方は、半開きのまま放置されていた。
その門の前から伸びる木製の橋も明らかに傷んでおり、ところどころ腐り落ちている箇所もある。この上を歩くのには少々勇気がいるだろう。
ところが、友人の方は古城の有様に怯むどころか目を輝かせていた。
「いや、これぐらいでなければ! 趣たっぷりでまさに魔王の城だ!」
「…………そうですか」
「よーし、行くぞセレネ! 魔王の城を手に入れるために!」
拳を突き上げ、古城へと突進して行く。今にも崩れ落ちそうな橋に臆した様子は全くなかった。
そんな彼を見送ってから、セレネは空を見上げる。
夕暮れ時の空は、まるで血の色のようだった。
(明日にした方が良かったかも知れない)
善は急げとばかりに来てしまったが、大抵の魔物は夜になれば力を増すと言う。
腕にはそれなりに自信もあるし、たとえ夜になったとしても負けるつもりはなかったが。
(…………いや。だから、何が何でも今日じゃないといけないんだな)
最優先すべきは、生贄となった子どもの命だ。
昼の間は何とか生き延びることができたとしても、非力な子どもが一晩生き抜けるとは思えない。
「うっ、わっ! セレネ、セレネセレネセレネ!」
セレネがそう思い直したところで、前方から悲鳴のようなものが聞こえた。
ものの見事に橋を踏み抜いた友人が、落ちないように必死にしがみついている。
「ああもう、突進なんてするから…………大丈夫ですか?」
一歩足を踏み出すたびにぎいぎいと不吉な音を立てる橋に冷や汗を流しながら、何とか友人に近付いて引っ張り上げる。
彼は短く礼を言った後、自分が空けた穴をまじまじと見つめながら呟いた。
「うーむ。ここを手に入れたらまずは橋を直さないとな。危なくて入れん」
「あのー、ひとつご提案なんですけど…………別のところにしません?」
「いーや、ここが良い。ここが気に入った」
「…………そうですか」
きっぱりと言い切られてしまった。説得しても聞いてくれそうにない。
ため息をつきたくなるのをこらえて、セレネは古城を見上げた。
「それじゃあ、さっさと魔物退治といきますか」
太陽は、もうほとんど沈んでいる。
☆☆☆
「血ィ…………血ィ…………血ィィィィッ!」
「こっのっ…………!」
振り下ろされた長い爪を掻い潜り、懐に飛び込む。渾身の力で魔物の顔を殴りつけ、
「────っ!?」
首筋に悪寒。嫌な予感がした。こういう時は直感を信じることにしている。
大きく横に跳び退き、転がりながら距離を取る。壁に張り付くようにして固まっている子どもの近くで止まり、すぐに立ち上がった。
予感が当たっていた。真っ直ぐだったはずの魔物の爪が、内側に折れ曲がっている。
あのまま留まっていたら、きっと八つ裂きにされていただろう。
魔物は薄気味悪い笑みを浮かべている。殴られたことなどまるで応えていないようだ。
子どもを抱えて、再び走る。
逃げた方が良いかも知れない。本来の姿ならばともかく、今の彼では勝てる気がしなかった。
いっそ本来の姿に戻ろうかとも思ったが、それでは子どもが────
(余計なことは考えるな)
嫌な想像を振り切るように、走ることだけに集中する。
石でできた床に響く足音は彼一人のものだけだったが、背中にぴたりとついて来る不気味な笑い声のおかげで、魔物が彼らの後について来ていることがよくわかった。
(それにしたって…………もっと誇り高い連中だって聞いた覚えがあるんだけど)
太陽が沈み、暗くなった古城の中でふと思う。
この城の中に侵入し、彼と子どもを襲った魔物。本来の姿も人間とよく似ており、違うところと言えば長く尖った耳と大きく裂けた口、それから血を好むというところか。
「血ヲヨコセェェェェェッ!」
多くの使い魔を従え、誇り高く気品があるはずの、夜の王。
血に狂った吸血鬼が、彼の背後で絶叫した。
☆☆☆
何かが聞こえた。
悲鳴ではなかったと思う。それでも嫌な予感がして、セレネは前方にいる友人の肩をつかまえた。
彼も何か気付いたのか、顔をしかめて素直に立ち止まっている。
「セレネ」
「わかりません。魔物でしょうか?」
セレネ達は今、城に入ってすぐの大広間にいる。
城内のほとんどは大理石でできており、橋の時のように不意に踏み抜いたりする心配はそれほど無さそうだった。
広間の奥には大きな階段があり、その先にあちこちに植物が絡みつかせた見るからに重そうな扉が見えた。
朽ちかけた古城の中には、当然照明などない。
視界を確保するために、友人は「闇の中でも周りが見えるようになる魔法」をセレネと自分に掛けた。それに加えて、やはり友人が魔法で生み出した拳大の光球が、二人の間でふわふわと頼りなく揺れている。
しばらく様子を伺っていると、不気味な笑い声が扉の向こうから聞こえてきた。
セレネは反射的に友人の前に出て、腰に吊るした剣の柄に手を掛けた。
「こっちを使え」
顔は扉に向けたまま、横目で友人を見る。
彼は自分の剣をこちらに差し出していた。
「何が出てくるかわからないからな。こっちの方が良いだろう」
柄にいくつもの宝石が埋め込まれた、細身の美しい剣だ。実戦向きではなく、美術品として作られたものだろう。
「ありがとうございます」
それでもセレネは礼を言って、その剣を受け取った。いつでも抜けるように身構えて、扉を睨みつける。
「血ヲヨコセェェェェェッ!」
絶叫と共に、扉が吹き飛んだ。
子どもを脇に抱えた血塗れの青年が飛び出してくる。青年は階段を転がり落ち、セレネ達の近くまで来てようやく止まった。
「お、おい、大丈夫か!?」
友人が青年と子どもの元へ駆け寄る。セレネは彼らの盾になる位置に移動した。
吹き飛ばされた扉の向こうから、悠然と現れた魔物を睨みつける。
青年の血を浴びたのか、本来青白いはずの肌は真っ赤に染まり、気品を湛えているはずの瞳には狂気が宿っている。
「吸血鬼…………?」
知能ならば人間と同じどころかそれ以上、気品があり誇り高く、自らの美学を重んじて他の魔物のように手当り次第に襲うことを良しとしないはずの、夜の王。
あまりにもそれらしくない姿に戸惑ったのは、一瞬だけだった。
セレネはすぐに剣を抜き、魔物に向かって駆け出した。
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