Dawning③
かつて、戦争があった。
開戦から100年を経たその戦争が何故始まったのかを知る者は、もはやどこにも居ない。
人類種が人類種を滅ぼす為だけに争い合うかのようなその戦争は、黒い戦火で世界地図を塗りつぶしていった。
誰もが疲れていた。誰も彼もが、終戦を望んでいた。
「何も、思い出せなくなった」
その最果て、燃え滾る無辺の戦火の何処か。少女は空を見上げて呟いた。蒼い髪は煤に薄汚れてはいたが、同じ色の瞳は無垢な光を湛えたまま、永遠に明けない灰色雲を見上げていた。
「名前、私が
彼女は戦鬼だった。
この世界には魔術という名の技術が有る。儀式と術理によって超常を為すこの術は同時並行して発達した科学文明との迎合を経て、より最高率の兵器を作るという点に特化していった。
戦鬼はその極北。膨大な知識によって初めて行使される魔術という絶大の能力を、術者の命を対価に発動させる災禍の戦奴達。
人の身に過ぎた技術は、その肉体を鋼に置換し、神経を魔術回路に侵し、人間性を蝕んで初めて成立する。
戦い続ける内に、戦鬼は人間ではなくなっていく。自分が人間であった事でさえ、忘れていく。
「なら、名前をつけようか」
「名前を?」
「そうだ。俺は君に。君は俺に。名前があれば、それが意味になるんだ」
「意味……」
なんと甘美な響きだった事だろう。戦う意味さえ分からなくなった自分にも、名前があれば、それが意味になるのだという。無明の闇に光がさすのを、少女は感じていた。
「本当に、名前をくれるの?」
「君が望むのなら」
少女は傍に立つ男を見た。傷だらけの甲冑じみた鋼の躯体は、幾多の戦場を越えて立つ戦士のそれ。遠くを見据えるその目は、雄大な空気を纏っている。
彼女は、ゆっくりと頷いた。
「なら、君はカンナだ。海のように蒼い瞳を見て、そう思った」
「なら、貴方はリア。草原に立つ騎士のような姿を見て、そう思った」
二人は、そこに意味を得た。
名を呼び交わす事で、自分が自分である事を確信できる。
彼が自分の名を呼び、自分が彼の名を呼ぶ。
それはきっと意味がある事なのだろう、と少女は思った。彼のくれた名前を反芻すると、鋼の体の奥で、鼓動を忘れたはずの心臓が跳ねた気がした。
「何処へ行こう、カンナ」
「望むのなら何処までも、リア」
もう一度、心臓が跳ねた。
その感覚が、きっと彼のくれた意味なのだと、少女は――カンナは思った。
他には何も要らなかった。
闘争も、戦火も。
ただ、自分の名を呼んでくれる彼が居れば、それで。
「何処までも、共に行こう。この戦火の果ての、その向こうにまでも」
他に望む物など、何も。何も……
***
『
「――――素晴らしい!」
その目には、ただ愉悦が有った。闘争を望む卑しく冷たい生き物が抱える、恒常的な虚無がぽっかりと口を開けていた。
「あの炎! あの闘争心! あれこそ勇者だ! この焦熱の夜明けに、我らが待ち焦がれた英雄だ!」
「……そんな、ことか」
ミナは、深く、深く沈んだ声で呟く。リアを見上げる瞳には、暗い憎悪が沈殿している。
「そんなことか。仲間を殺されて、そんなことしか言わないのか!」
「なら聞くが、君は俺が泣き喚けば満足だったのか? 友の死に涙を流し、復讐を誓い、義憤に駆られて戦に臨めば満足だったと? なあ、復讐者」
「――――――ッ!」
言葉に詰まるミナを、リアは虚無の瞳で見下ろした。その目には、もはや一切の感情の揺らぎも見えなかった。
「違うだろう? 恨みたかった戦鬼の姿はこうだろう。思い通りだと言ってみろ。お前が殺すべきものはここだ」
虚無の瞳の底に、ちらと炎が覗いた。
ただ戦って戦って、力尽きて死ぬ以外には何も望まない、擦り切れた戦鬼が、地獄のような闘争を望む目だった。
「そして、俺の殺すべきものもそこに居る」
戦鬼リアは悪鬼のごとく哄笑し、地獄の釜へと踏み出した。
***
――――かくして彼らは名乗りを交わした。
『
二つの戦鬼はただ睨み合い、低く重く沈殿した闘技場の空気の底に、ただ立っていた。
「讃えよう、オウガスレイヤー。君は今宵の勝者だ」
「…………」
楽しげでさえあるヒート・アイランドの言葉に、オウガスレイヤーは答えない。彼にはもはや、殺意以外には何も残っていなかった。
「殺す」
「そうだ。君は俺を、俺は君を殺すのだ。我らが戦士であるが故に。俺たちが英雄であるために。戦い続けなければならないのだ」
「英雄ではない」
無数の傷を負ったヒート・アイランドの躯体は、闘技場を照らす眩いライトに照らされ、複雑な光を照り返す。
歴戦の傷を誇り、戦士を名乗る戦鬼を前に、オウガスレイヤーは低く押し殺した声で、殺意に満ちて言った。
「お前は英雄では無く戦鬼だ。戦鬼死すべし。――一人残らず頸を差し出せ」
ヒートアイランドの顔に獣じみた笑みが浮かぶのと、それを鋼の鬼面が覆うのは、ほぼ同時に。
飽くなき闘争と闘争の果てを目指し続けた悪鬼が、その本性を<顕身>する。
天に手を翳すと、万雷の喝采と共に、雷鳴のごとく巨大な質量が――無数の傷を誇る大剣が落着した。
「ならばこれは、英雄となるための戦いだ。お前の炎が、焦熱の夜明けを照らさんことを――さあ、推して参る」
宣言と同時、ヒートアイランドの躯体に走る無数の傷が、赤熱する炎を吐いた。
熾火めいた炎は彼の呼吸に合わせて火の粉を吹き上げ、闘技場の白砂を焦がした。
「飛行機が何故飛ぶのかを話そうか」
爆発的な突進の速度をそのままに、大剣の質量を乗算した破滅的一撃を、オウガスレイヤーは間一髪地を這って回避。
『
「曰くそこに理由は無く、飛行機は『飛んでいるから飛んでいる』のだと言う。高速で飛翔する物体は、それを続ける限りは失墜しないのだ」
磨き抜かれ、銀の光を返す鎧の肌。傷口を漏れ出す炎の血潮。
彼はそういう生き物で、そうあることに、そう在り続けられる事に、それ以上の意味は無い。
「鮫は泳ぎながら呼吸する、というのも有る。或いはその方が近いか。戦鬼とはそういうものだ。俺たちは飛翔する鉄塊、闘争によって呼吸する生物。――その錆びた躯体は、呼吸を躊躇った者の在り様だ」
激突する二体の鋼。
飛散した魔力の断片が対流を生み、彼らの体に還る。
戦鬼の最も忌まわしい性質がこれだった。
魔力の原則が等価交換で、捧げる対価が命ならば、力の使用は命の浪費に他ならない。
故に魔術は、命を対価に絶大の効果を持ち得るのだ。
だが、戦鬼は違う。戦う為に生まれた彼らは、戦わなければ生きられない。
命を魔力に変換するのではなく、最初から命そのものが魔力である彼らは戦闘によってそれを消費し、戦闘によってそれを回復するのだ。
戦い続ける限り、戦い続けられる。
それが、戦鬼の持つ最も忌まわしい性質。
戦鬼として戦鬼と戦う限り、彼らの発する魔力は常に戦場を対流し、無限の軌跡を創り出す。
対流する魔力を喰って、『波濤の先駆』との闘争によって消えかけた戦鬼殺しの炎が、再び火の手を上げ始めた。
「戦いが嫌いか、生きる事に倦んでいたのか? だが全てを棄てて、それでもお前は此処に立っている。お前は再び戦場を求めたんだ」
「違う」
「違わない。お前は戦いの中にしか生きられない。お前は生き続けることを選んだ。その中に意味を欲した。何も違わない。この点において我らは全く同じものだ」
「違う」
振り払うように、言葉を振り切るように、オウガスレイヤーが右腕の炎を薙いだ。
致死の威力を孕んだ一撃に対して、しかしヒート・アイランドは常軌を逸した速度で回避、同時にオウガスレイヤーの背後に周りこむ。
炎そのものを推進力に換えるオウガスレイヤーに対して、炎上する熱を動力に転換するヒートアイランド。戦うごとに速度を上げる、闘争の中で呼吸する生き物としての機能。速度において上回るヒートアイランドが、全てにおいて凌駕している。
「何も違いは無い、共にこの闘争を祝福しよう、黒い兄弟よ!」
振り下ろされる大剣。振り返り、右腕が弾き返す。
激突するは炎と炎。熱狂の中心に切り取られた殺戮空間を、焦げ付く空気が満たす。
ギラリとヒートアイランドの視線が光る。
光を返さないオウガスレイヤーの瞳が見返す。
「目は開いているか?」
激突。
更に早く、猛り狂う熱狂に煽られて、ヒートアイランドが加速する。
傷だらけの大剣から、熾火めいた炎が噴き出す。
「決して閉ざすなよ、前を見ろ! 敵は一人、ここに居る。お前の瞳に、その中心に俺を捉え続けろ!」
彼の体に刻まれた傷は、幾多の戦場を越えた証に他ならないのだろう。
幾度の戦場を越えて、尚も不敗である故に彼は生きている。それ故に彼は災禍を率いて進軍する戦士であり――
「だから、お前は無用者の戦鬼なんだ」
炎。
質量を持った炎が、命を対価に顕現する魔神の腕が、大剣の一撃を弾く。
傷が増える。火の粉が散る。視線が交錯する。
「あの娘はどうした」
ヒートアイランドは目を見開く。
オウガスレイヤーの意識は混濁している。
或いはその言葉は目の前のヒートアイランドに対してのものではなかったのかもしれなかった。ただ、顧みられない少女が居るというその事実に対する怒りが炎にかわって、推進力を生み、敵手との距離を殺した。
「大事だった筈なのに。戦うことじゃなく、そこに意味があったはずなのに」
「お前に何が解る」
大剣が言葉を薙ぐ。振り払うように、耳を塞ぐように。
埒外の膂力と炎が、這い寄る音を拒絶する。
「本当は戦いたくないのに」
「俺は違う」
「殺すのはたくさんなのに」
「一緒にするな」
「戦場になんて帰りたくないのに」
「泣き言を」
激突。激突。
速度を上げて炎上し続けるヒートアイランドの切っ先が鈍る。止まらない。ただ激突する鋼の炎だけが、赤熱する火花を散らし続けた。
「名前を呼ばれるだけで、良かったのに」
「――――――ッ!」
無辺の戦場。互いに名付け呼び交わした言葉。そこにどんな意味があったのか。
人間であることを忘れるほど戦って、何も、思い出せなくなっていた。
「意味など無い――ただ忘れないだけだ、ただこの傷が覚え続けるだけだ。散っていった戦鬼の姿を、この傷が刻むだけだ。他には何もいらない。何も見えなくていい、何も聞こえなくても構わない!」
オウガスレイヤーの意識は混濁している。
自らの言葉が誰に向けられた物なのかもわからない。ただ殺意だけが膨張し、死を希求する絶叫が頭蓋を満たし、炎が燃える。
先刻殺した少女の末期の姿は、彼が護るべき少女の姿と重なり、決して消えずに刻まれ、駆り立てる。
「殺す」
「やってみろ。お前が英雄なら、俺を殺して勝鬨を挙げて見せろ!」
「いいや」
押し殺した声。対流する魔力の奔流は客席から上がる熱を喰らってさらなる唸りを生み、敵を、死すべき戦鬼の姿を照らす。
「英雄じゃない」
炎の拳が、戦鬼の躯体を弾き飛ばした。
傷から炎が迸る。ヒートアイランドはたたらめいた。
「俺もお前も、英雄なんかじゃない」
打ち合う鋼、飛び交う火花。
オウガスレイヤーは――今はロシンと呼ばれる彼は――そこへ至る記憶を失った戦争兵器は――言った。
「英雄は死んだ。勇者は皆死んだ。そうだ、もしお前が本物の勇者ならば、もう死んでいるはずなんだ」
戦いのために戦い、勝利のために勝利し、全てが終われば消えるのみ。
それが勇者だ。それが世に正しい戦士の姿なのだ。そうであればこそ、兵器は英雄で居られるのだから。
「死に場所を違えた兵器は英雄にはなれない。生き残ってしまったものは、もう戦場を望んではいけないんだ」
「ならばお前はそうするが良い、俺は戦火を食って生きる。屍を累ねて、俺の意味を証明し続けてやる!」
大剣がオウガスレイヤーの右腕を弾く。崩れた防御の間隙に、加速するヒートアイランドかま踏み込む。
柄で鳩尾を殴打。前蹴り。吹き飛ばして、生み出された空間に、大剣を振り下ろす。
オウガスレイヤーは右腕を爆裂させて発生させた推進力によって回避。
「彼女の名は俺がつけた。俺が彼女に意味を与えたんだ」
「俺はあの娘に名を貰った。あの娘が俺に意味をくれたんだ」
オウガスレイヤーの意識は混濁し、ヒートアイランドの価値は揺らいでいく。
二つ分の目眩を支えるのは、地下都市に行き場もなく蟠る人々の熱量。爆発するような歓声。
「俺は……カンナに名をつけて……そして……」
わからなくなっていった。
互いに互いの意味の拠り所だった。彼女を守る為の戦いは、いつしかそれ自体が目的にすり替わっていた。
そして、いつしか彼女は居なくなっていた。
「ああ――」
激突の衝撃に両者が後方によろめいた。
決着が近い。
激突のたびに際限なく高まる彼らの魔力とは裏腹に、肉体は既に擦り切れかけていた。
「俺は戦鬼だ。そして、英雄でなくてはならない。勇者でなくては、ならないのだ」
ヒートアイランドは白砂を踏んで、一歩を踏み出した。
踏み出すごとに、この闘技場で散った戦鬼の亡骸が砕ける。古傷が疼く。足取りは、泥濘を踏むように重い。
この砂の中に、彼女も居る。
鼓動をやめた心臓が、鋼の奥で悍ましく脈動した。
「ならばお前を殺す。頸を差し出せ、戦鬼」
オウガスレイヤーは白砂を踏み、前へ。
一歩。一歩。踏み出す毎に、ここで散った名も知らぬ戦鬼の亡骸が足元で砕けた。
何も無い彼の世界には、敵手の気配さえももはや遠い。
怒涛のような歓声の中で、彼の耳が。
一つ、澄んだ音を捉えた。
「――――勝て!」
少女の声。
同時に、両者が駆け出した。
炎と炎とが、今宵最速の光を発して走った。
「――――負けるな、ロシン!」
――名前。
伽藍堂のオウガスレイヤーの頭蓋に、声が響く。炎が燃える。加速する。
激突した右腕と大剣が弾かれる。
踏み出したヒートアイランドの足元に、蒼い、蒼い金属片が――戦鬼の亡骸が在った。ヒートアイランドの動きが止まった。
戦鬼殺しは、その刹那を見逃さなかった。
「俺の意味は、これだ」
燃え上がる炎が、彼女の復習が、古傷の奥の、鼓動を止めた戦鬼の心臓を貫いた。
十万度の太陽に触れた肉体は、内側から燃え尽きて灰になっていく。炎でさえも、燃やし尽くしていく。粉々に砕いて、彼の体も白砂の中に溶かしていく。
その身を焦がす情熱の悪夢が、曙光に焼かれるのを、ヒートアイランドは感覚した。
「――カンナ」
彼女の名を呼んだ心臓が、跳ねる事は二度と無かった。
歓声が、末期の言葉を塗りつぶした。
絶えず戦場を求める者の明けない夜に、焦熱の夜明けが訪れた。
***
「ロシン! ロシン!」
少女が戦鬼殺しに駆け寄った。
闘技場に膝をついて、勝鬨をあげることも歓声に応えることもない彼の名を、少女は呼び続けた。
「しっかりしろ、ロシン!」
「ミ、ナ……」
「しっかりしろ! 自分の名を言えるか」
「俺、は……」
戦鬼殺しの装甲が、赤錆びた躯体が剥がれ落ちる。
「俺は――『
「――――ッ」
歓声が煽ったのか。
戦いが目覚めさせたのか。
炎の中に消えた筈の彼の記憶が、そこに目覚めかけていた。
「ロシン……?」
「俺は……俺は――もう、殺したく無い」
勝者の譫言をも、熱狂は埋め尽くしていく。
***
数時間後。闘技場にて。
「ヒートアイランドは敗れました」
観客の失せた客席。夢の喰い殻や吸い殻の散乱するその場に、女が一人。
表情の無い、能面のような顔。通信端末に向けて、凍えるような言葉を吐く。
『そうか』
通信端末の向こうから返った声には、僅かながら確かな喜悦が滲む。
女は、表情を崩さない。
『太陽の指先――いいや、今は戦鬼殺しか。懐かしい。知られざる我らが戦友だ』
「いかが致しましょう」
『思うままにしよう。我々の、
笑いながら、喜びながら、彼らは死を望んでいる。
死なせる事を。死なされる事を。
望んで、その果てを待ち焦がれている。
女の首には<911>の隊象。この世で最も忌まわしい無用者の烙印。
『状況を開始せよ、フェイスレス。我らの為に、黒い朝陽を描くのだ』
『
――かくて序幕は終わり、暁へ至る惨劇が開始される。
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