命のゼンマイ
地下30階層。猥雑な屋台と病んだネオンが密集する、地下都市一のブラック・マーケット。広げられた露天商に並ぶのは、新聞、元が何なのか定かではない肉。出典不明の魔道書、鉄屑、果ては人間の臓器まで。
質を求めない限り、ここでは何でも揃う。かつてハイドアンドシークと言う名の戦鬼に更地に変えられて尚、不死鳥のごとく、あるいはどうあっても滅しきれず世界に存在し続ける雑菌のように、ここには人の営みが再開されていた。
その、奥まった路地の一角。打ち捨てられた廃棄物の腐臭と吹き出す瘴気の悪臭に疲弊しきって、男が独りうずくまっている。
彼の名はパラベラム。かつては上層で特権階級としての贅を極めつくし、下層民を支配していた男だったが、今の彼には往時の悪趣味なまでの余裕などはなく、ただ薄汚れた疲弊だけがある。
「こんな筈では……こんな……ッ!」
血走った目でうわ言を繰り返す。戦鬼殺しに襲われてから、彼の全ては狂ってしまった。あの赤錆びた戦鬼の、何の意味もなく殺すことに純化した目が、恐怖によって彼の精神を破壊し尽くしたのだ。加えて、凶悪極まる商売相手の情報を売った彼は、いよいよ全てを棄てて逃げ出す以外に無かったのだ。
「くそっ!」
ゴミ箱をひっくり返して、生ゴミを漁る。彼の肥えた舌は、文字どおりゴミでしか無いその食事を食事としては認識しなかったが、彼は有無を言わさず、腐りかけたそれを嚥下した。むせ返り、獣のように唸る。
その時、不意に。
何処からともなく現れた鴉が、ぶちまけられた生ゴミのおこぼれにあずかろうと飛び来たった。
「があァッ!」
怒りのままに獣じみて吠えて、パラベラムは鴉を拳で振り払った。
飛び去った鴉の羽は、不気味に蒼い。
パラベラムは不吉を感じた。それは、あの日、戦鬼殺しと対面した時と同種の物だった。
「良い格好になった。パラベラム卿」
飛び去った蒼い鴉は、彼の背後に立つ男の腕に止まった。
黒いロングコート。蒼い鋼の躯体。顔の上半分を覆う鬼面、二本の角。
「あ、あああ……っ」
初めて会う戦鬼だった。だが、その姿は、存在は、彼に明確な死を想起させるのに十分な程濃密な死を纏っていた。打ち捨てられた地下都市に、悍ましい戦火の匂いが蘇る。
「初めから、こうなる事は解っていた筈だ。逃げ切れるつもりでこれまで罪を重ねた訳でもないだろう?」
「あ……あ……」
「清算してもらおう、お前の罪を。払いお代はその頸だ」
抜き放たれ、鈍く蒼い光を返す極東の片刃剣――刀。
蒼白く冴え渡り、引きつったように凄絶な業物が振り上げられるのを、パラベラムは絶命の瞬間まで釘付けになって見ていた。
それは、余りにも美しい殺意そのものだった。
「味気ない。だがお前ならば、こうは行くまい」
胸を貫いた刃を引き抜いて、男は嗤った。
その肩で、蒼い羽のカラスが不吉を告げるように鳴く。
「蒼褪めて待て、戦鬼殺し。貴様の価値、この『蒼白い爪痕』が推し量ろう」
深い地下の底から、蒼褪める不吉が這い寄ろうとしていた。
**
闘技場。
沸き立つ観客。鳥籠めいた鉄柵。足元には、鋼混じりの白砂。そこに立つ足は、泥濘を踏みしめるように覚束ない。
彼は、腕をついて獣のように這う己自身を知覚していた。こうするのが正しい姿だと思えていた。長い間、二足歩行の幻を見ていたのだと。白砂につく四足は、前足を欠いてバランスが悪い。
「覚めても覚めても、まだ夜だ」
ずるり、と音を立てて、白砂の中から腕が這い出した。刃に覆われた異形の腕。焦げて砕けた鬼面を晒して、その戦鬼は……スリープウォークは笑った。
男は欠けた腕から燃える炎で、纏わりつく腕を払った。
「心は削られて、何を失って、何を拾い上げた? お前は」
朧に消えていく、スリープウォークの声。次いで、歪んだ黒鉄の砲塔が、彼を睨んだ。溶けて砕けた歪な城塞――ハイドアンドシーク。
「無駄話は止めにしろ。ここも戦場になる。お前がそうした」
絡みつく鋼の腕。振り払って、泥濘んだ砂地を踏みしめて進む。
「あなたも早くこちらへ来るべきです。奪った生命を数えながら、共に冥府へ滑落しましょう」
カーカス・サーカス。嘲弄するような、道化師の声。
焼き払い、屍を踏んで、その先へ。
「お前は何か思い違いをしているんじゃあないか? なあ」
酒精を伴った呟き。琥珀色の腕。カサヴェテス、と言う諱の戦鬼だった。
「戦おうが逃げようが、まして何かを護ろうが、そんなものになんの意味が有る? お前はただ、そうする事で自分の中の空虚から目をそらしたいだけだ」
薙ぎ払う。
焦失し、戦鬼の灰が宙を舞う。嘲るような声が残響する。
「――生きている事に意味があるのか? お前は間違いを犯しているぞ」
消え行く声に道連れにされるように、二足歩行の幻が遠ざかる。
ずっとこうしてきた。地を這って、炎を放って、殺してきた。
それが全てだった。失った腕の空白には、代わりに死を告げる戦鬼の炎が埋められた。もうそこには、それしかなかった。歪さだけがそこに存在していた。
「あの娘はどうした」
傷だらけの戦鬼が、眼前に立ち塞がる。
熾火めいた炎を吐いて居たその古傷からは、ただ血涙だけが滂沱と流れ、白砂に染み、泥濘を広げて行く。
ヒートアイランドの言葉が、彼自身のものだったのか、どうか。彼にはもう解らなくなっている。
「本当は戦いたくないんだろう」
――そうだ。
「殺すのはたくさんなんだろう」
――そうだ。
「戦場になど帰りたくないのだろう」
――そうだ。
「……名前を呼ばれるだけで、良かったんだろう」
――そうだ。
声に出さず答えて、バランスの悪い三足で踏み出す。
地を踏みしめたはずの感触は、不確かに柔い。地面には刃に刺し貫かれた少女が横たわっている。首筋から生える刃の柄は、彼自身の左手に。
蒼い髪、蒼い瞳。サーフ・クィーン。
流れ出す血が、泥濘を塗り広げる。
「すまない――」
ノイズ。耳鳴り。頭痛。
二足歩行だったころの記憶は、遠い。全てを投げ出して、夢にしてしまいたかった。
彼の手で息絶える者の姿は、いつの間にかブロンドの少女に変わっていた。
「――ロシン」
「……ミ、ナ……」
嗄れ果てて、声も出ない。
泥濘を這い出す無数の腕が、息絶えた無用者達が、彼を――オウガスレイヤーを嘲笑った。
息絶えた少女の傷口から流れる血が、白砂を沼地に変えて行く。
絶望に、底無しの泥濘に自らが呑まれていくのを、オウガスレイヤーは感じていた。
殺せば殺すほど、ここには怨嗟が満ちていく。彼を苛む者は、もはやこの世界に溢れ出して止まらない。
「もう、殺したくない」
息絶えた彼女の首の、血が止まらない。
***
……血が止まらない。
「…………」
『焦熱の夜明け』という名の地下闘技場での戦いから、3日が経った。
あの日以来、ロシンは眠り続けている。
重い体を引きずるようにして連れ回し、追っ手から逃れる為に、拠点を変え続けた。
少女の細腕には、ただでさえ巨漢の彼を運ぶのは骨が折れる。
30階層の廃屋。屋内とは言え、ここまで下層に潜れば瘴気に空気は淀んでいる。
棘の有る空気が喉に絡む。忌まわしげに咳払いをして、ミナはベッドに横たわるロシンの隣に腰掛けた。
二人ぶんの重みに、打ち捨てられて久しい薄汚れたベッドが軋みをあげる。
「……止まらないな」
彼の身体に刻まれた無数の傷が、絶えず血を滲ませている。
彼がこのまま目覚めなければ、この血が止まらなければ、自分はどうなるのだろうか。既に引き返し不能の所にまで、彼女の復讐の牙は食い込んでいる。ロシンが倒れれば、刺客が彼女の命を奪うのは時間の問題だろう。ただ、死あるのみだ。
滲む血を拭う自分の手が、ミナには酷く小さく感じられた。
「なあ、どうすればいい? 私は……」
戦いたくない、と彼は言った。
もうたくさんだと、殺したくないと。
意味を与えているのだと思っていた。戦う事でしか生きられない戦鬼という身でありながら、戦う場所を失ってしまった名も無い彼に、自分は戦う為の意味を与えてやっているのだと。
彼が闘争を求めて、自分が求めているのがその結果による破壊ならば、そこには利害の一致があるはずだと、思っていた。
だが、違った。そんなものは、ミナの妄想に過ぎなかった。
彼は――ロシンは、戦いたくなど無いのだから。
「お前、辛かったのか?」
血が止まらない。
滲む血をタオルで拭って、ミナは問う。その問いは、あるいは宛てのない自問だったのかもしれない。
両親を殺された憎しみから、ここまでひた走ってきた。敵を追って、ロシンを使って、仇を追い続けていた。
だが、それは現実逃避に過ぎなかったのかもしれない。ただ一人、誰も自分の名を呼ぶ事の無くなった世界に生きる理由を、復讐に依存し、仇に押し付けていただけではないのか。
戦火を望んでいたのが彼女ならば、ミナこそが戦鬼だった。彼女こそが、戦場の中でしか生きられない哀れなものだった。
それに気づいてしまった。
窓から見上げた、抑圧された低い空には、曇天が立ち込める事もない。ただ薄汚れた染みが、嘲笑う亡者のような模様を晒してミナを見下ろすのみだ。
「……なあ、起きろ、ロシン」
呟く声は、震えていた。
滲む地は、いつの間にか止まっていた。
彼は、彼女の命令を破らない。
それが、二人の間にある絶対のものだった。
「……ミナ」
「……よう、ロシン」
薄く目を開けたロシンに、ミナは微かに笑いかけた。
安堵と優しさを滲ませた淡い笑み。ロシンは上体を起こしかけて、苦痛に顔を歪めた。
「寝てろ。まだ万全には程遠い」
「……どれ位寝てた?」
「三日と少しだ。ここは30階層。怪我人を連れ込むには、あまり上等なねぐらじゃないかな」
「30……?」
勢いをつけて、ロシンが起き上がった。今度は苦痛に呻く事もなく、ミナにそれを咎める隙も与えなかった。
ロシンは正面から、彼女の顔を覗き込んだ。
「こんな下層まで降りちゃ駄目だ。肺をやられるぞ」
「気にしやしないさ」
「駄目だ」
ひどく真剣な彼の表情は、ともすれば悲痛でさえあった。ミナは耐え切れず視線を逸らして、皮肉な笑みを浮かべた。
「酷い言われようだ。お前が目を覚ますまで、誰が重い身体を引きずって歩いたと思ってる?」
心にもない事を口にしていた。こんな恩着せがましい事を口にするつもりは無かった。ただ胸の奥に蟠る感情が苦い毒となって口に溢れてたまらず、吐き出さずにはいられなかった。
一つ音を吐く度に、ミナは自分が醜く卑しい生き物に変わっていくのを感じた。
「それは感謝するけど、けど駄目だ。ミナはまだ子供なんだから。身体に気を遣わないと」
「子供か」
乾いた笑いが、引きつった喉から漏れた。ミナは、もはや自分が卑しい獣に成り果てるのを止める術を持たなかった。
「終わりにしようか、ロシン」
抜きはなった銃口を、自身のこめかみに突きつける。
直径9ミリの殺意の虚が、命を弄ぶ。下卑た気分になって、ミナは笑った。
「何を……」
「もう戦いたく無いんだろう」
せせら笑うような声が漏れた。ロシンの顔が驚愕と困惑に歪む。
ミナは自分が笑うのを止められなかった。卑しい生き物に堕ちて行くのを止められなかった。
「なら終わりにしよう。このまま引き金を引けば、それで終わりだ。お前は自由になって、戦いは無くなる」
誘うように、引き金にかけた指に力をこめる。
それを引く度胸など無いのに。終わらせる勇気など、あるはずもないのに。ミナは、死んだものは皆勇者だと口にした戦鬼の事を思いだした。この引き金を引くのは勇気だろうか。自分は勇者足り得るだろうか。それとも、ひどく哀れで、身勝手で臆病な生き物に過ぎないだろうか。
どっちだろう。ミナは乾いた唇で笑った。
「やめろミナ。銃を下ろせ」
「止めるなら、選べよ。ははは、いつか映画で見た。『愛か死か』だ。私が望むのは、それだけだ」
ロシンの左腕が、こめかみに銃口を突きつけるミナの右腕を掴んだ。銃口は呆気なく逸れる。ミナの頬を、涙が一筋伝った。卑しさが全身に充満するような感覚。隻腕の彼に、溢れた涙を拭う術は残されていなかった。
それが、彼女達の間にある全てだった。
「お前がそう望むのなら、俺は止まらないぞ。お前の望みを果たすまで、全ての仇を討ち果たすまで、俺は止まらない」
彼は優しかった。
全てを失って、復讐を望むことでしか生きる希望を見出せなかった惨めな少女に過ぎないミナを支え、共に歩み、その望みを叶えて来た。
優しい声をしていた。優しい笑みを浮かべていた。
だが彼女が復讐を望むたび、その声は死を求めて別人のように低く掠れ、柔らかな表情は鋼の鬼面に覆われた。
――彼女が望みを叶えるほどに、彼の素晴らしい所が消えて行く。
「茶番は終わりか、『戦鬼殺し』」
窓際に止まった鴉が、微かな影を落とした。
有毒大気に蝕まれた天蓋の下を飛び交う鴉の羽は蒼く、不吉を告げる声で鳴いた。
「生きる意味だの価値だの、なんの足しにもならぬ話題で己を慰めるのがよほど好きらしい。立派なことだ」
ひやりと、刃のような風が吹いた。
その向こうに、黒衣の男が――蒼い鋼の戦鬼が、立っていた。
「貴様が先か、小娘が先か。どちらでも良いが、貴様は殺す――俺は『
――
凍った水面を踏むような、危うく冷えた恐怖が、空間を満たした。ロシンは踏み出し、ミナを背後に庇うように立ち、言った。
「失せろ」
死を求めて別人のように掠れた声。
笑みを失った鋼の鬼面。
きっとお前は許されない。
お前の炎は憎悪の汚泥。
お前の血潮は悲嘆の激流。
誰も彼もを焼き尽くし、何もかもを無価値に堕とす。
お前は怪物。
――復讐を糧に死を望む、卑しい獣。
その在り方は、彼女が憎む戦鬼のそれと、なんら違わないものでしかなかった。
ミナは――ヴィルヘルミナ・ハーカーは、自身の存在がもはやそう評する以外にない存在だと理解した。
「ミナに、手を出すな」
……彼女が仇を願うたび、彼の素晴らしい所が消えて行く。
蒼い鋼の戦鬼の肩に鴉が止まった。避け得ぬ闘争の開始を告げるように、不吉な声で鴉が鳴いた。
戦鬼は、凍るような声音でもはや聞き飽きた戦鬼の常套句を口にする。
「では、どちらが強いか、試すとしよう」
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