第3話 アイディと蔵持
時はアイディがリードミの森を出た頃に戻る。リードミの森から約20キロメートル離れた場所にある、西エウロ郊外の町ポトにアイディは立ち寄っていた。西側は海、東側は森に挟まれた町で、西エウロ中心部で働く者たちのベッドタウンとして栄えている。郊外といえどOutsiderや蒼い社の存在は広く認知されており、所々にOutsider出現及び発見の通報を促す蒼い社からの広告が掲載されていた。
そのうちどこにも住めなくなるのだろうか――アイディはますます色濃くなる身の上の孤独を、笑み絶やさぬ自身の顔に図らずも映してしまった。ブティックのショーウインドウに寂しい自分が見え、彼はそんな自分に人当りのよい朗らかな微笑みを与えた。いつの頃からか身についたアイディの癖である。
その時であった。急に身体の奥底から狼が唸る様な音が聞こえたかと思うと、充足感を欲する衝動がアイディを襲った。彼はその衝動、欲求を抑えられる安息の地を求め町を足早に巡った。不意に、喉から自分の衝動の片鱗がこぼれる――ご飯、と。
しかしながら、時は深夜一時を回っており開いている店はこの町になかった。辺りを窺ってみても、シャッターの閉まった表通りを、猫が向こうからこちらへと横切って来たり、土埃に汚れた街灯が冷たいアスファルトを照らしているばかりであった。アイディはちらと薄暗い裏通り、そしてその向こうにあるゴミ溜めに目をやった。胸の中でやじろべえがゆらゆらと揺れ、溜まった唾が緩く音を立てて飲み下された。それらを口にした経験がない訳ではなかったからだ。昔、野菜の切れ端や黴の生えたパンを食べていた記憶も彼にはある。だが彼にはそれがいつの記憶か判らなかった。寧ろ記憶か想像かどうかもあやふやなくらいであった。けれどそのような生活をしていた気がする。していたのか? 強いられていたのか? どちらにせよ、その生活は苦痛であった様に感じられた。だがそれだけではなく、なにか、温もりがあったように感じた。
温かい、誰かからの抱擁。渇いた身に滲み渡る掬水の様にも感じられる何か――やはりこれは記憶?
その矢先、アイディは猫の鳴き声を耳にして我に返った。裏通りに向けられていた視線を戻すと灰色の猫が彼を見上げていた。アイディは猫の種類などわからなかったが、種はロシアンブルーであった。猫は小さく一鳴きすると踵を返し、どこそこへ案内すると言わんばかりに優雅に歩き始めた。その猫はたおやかでありながら強靭さを窺わせるボディラインと、こちらを掴んで離さない様に感じさせる瞳が、どこか普通の猫とは違う妖しい色気を放っていた。雌猫だろうか。彼は少しも疑う事なく、“彼女”の後を追った。
やがてアイディは表通りの中心部、ポトの中央広場に辿り着いた。昼間ともなれば旅芸者たちが技を披露し、露店商たちが軒を連ね、活気に溢れる絵が浮かぶ様であった。しかしそんな広場も表通りと同じく、閑散としていて、屋台か何かが今その暖簾を片付けようとしている所であった。やはり猫に着いていっても何もなかったかと、アイディは肩を落とした。
「――え? あ、あの! 待って! 待ってください!」
一瞬アイディは“彼女”の恩恵を見落とした。だがそれと同時に“彼女”が何処かへ消えた事も見落としていた。
「ほほほ。運が良かったの、旅のお方。鍋の火を消しちょったら飯は食えんかったぞ」
瓶底眼鏡をかけた屋台の亭主、
「いい食いっぷりじゃのう、若さ故かいの? ほほっほ」
アイディは遠慮がちに笑むと、先程飲み込んだ言葉を今更に吐き出す。
「あの、でもぼく、一杯分しかお金を――」
「はて、何の事かの。儂は蕎麦一杯しか、お前さんから頼まれとらんが」
すっかり恐縮したアイディが頭を下げると、蔵持は笑って、禿頭を撫でた。
さて、アイディは今更ながらに気付いてしまった。自分の置かれている立場というものに。Outsiderだからという訳ではない。“能力”を見せない限りOutsiderは周りの人間との外見上の区別は余程の事でないとできない。問題は、アイディが着ている蒼の外套であった。これは彼の私物ではなく、蒼い社の制服だった。蒼い社の人間は単独で行動する事がないのだ。
Outsiderに対して確保や駆逐等の任務を行う際、一人では無謀、ともすれば無策だからである。例外があるとするならば四階級あるOutsider対策員中のトップクラスである特級対策員、更にその中で選び抜かれたエキスパート達だけである。だが、今のアイディが着ている制服は蒼い社の研究員のものだ。見かけの差異はあれど、仮にこれを言及されてしまうと何とも言い逃れができない。努めて人との関わりを避けてきたアイディにとって、これは一大事である。
ばつが悪い顔をしていたのを気取られたか、蔵持が口を開く。
「そういえば、お主」
「な、なんでしょう?」
何とかこの場をやり過ごせないか。やむを得ず“能力”を使い、逃げるしかないのか――アイディの脳裏をいくつもの案がよぎる。もちろん最悪の場合も想定している。この蕎麦売りの老人から受けた恩を仇で返さねばならない事も。
「金がないと言っておったな」
「そう、です……」
禿頭を撫でる仕草、腰巻を外す動作、包丁や網をしまう所作、瓶底眼鏡の奥に潜む視線、呼吸――蔵持の一挙手一投足に緊張が走る。しかし怪しまれてもならない。今、彼が何を考えているのか。言葉の意味は。裏があるのか。何を言わんとしているのか。何を返答するべきか。疑りの心は夜の闇とアイディの間に鬼を潜ませた。
「どこへ旅立つつもりじゃ」
「宛のない旅です。自分探し、みたいなものですかね」
「そいつは大変じゃな……蒼い社の服を着ての」
アイディの身体中に電撃と熱が走った。血が一瞬にして沸騰するかのようだった。もう言い逃れはできない――屋台を叩いて立ち上がったその瞬間、顔に何かを引っかけられた。枯れ野に起こった火が山々を飲み込むが如く、千本万本の針が自分の身に突き刺さるが如く、顔中に熱を感じた。飛び上がる様にその場から転げると、更に何かを浴びせられる。――湯だろうか。冷静に考えれば“能力”を使い蒸発させる事も可能であったが、熱い。突然の出来事に思考も追いつかず、“能力”も出せないまま、アイディは顔中に湧き立つ熱さに悶える事しかできなかった。
仰向けになった所に、蔵持が馬乗りになる――重い。いや、厳密に言えば、自分が転倒した際に一緒に倒れた椅子を利用されているらしく、身動きが取れない。湯と涙で滲んで、蔵持がどういう顔をしているかも窺えない。年貢の納め時とはこういう状況の事を指すのであろう。アイディの思考は徐々に緊張から解き放たれ、なだらかに諦めの坂を転がった。この後自分はどうなるのか。きっと行き着く先は蒼い社だろう。いや、もしかしたらその場で銃殺なのかもしれない。死後の世界は本当にあるのか、自分はどうなるのだろうか。その内、走馬灯が自分を迎えるのだろうか。だが、走馬灯も蒼い社も、アイディを迎えはしなかったのである。
「南無三! これはとんでもない事をしてしまった! 湯を引っかけて、あまつさえお召し物をこんなに汚してしまった! ああ、旅のお方、どうかこの爺めを許してくだされ。今の私に差し出せる物は、替えのお召し物か、残るはこの命しかございません」
蔵持の口からは次々と言葉が出てくる。アイディは彼に抱き起され、顔も布巾で丁寧に拭ってもらった。勿論、束縛などされていないので自由に動けるのだが、今度は彼の行動に呆気に取られて動くことができない。
「やや、お召し物にシミが残ってしまいますぞ。さぁさぁお脱ぎくださいませ。それに脱いだままではお寒ぅございます。せめてこれだけでもお召しになって下さいませ」
慣れた手つきでアイディは着ていた蒼い社のコートを脱がされ、いつのまにか白い割烹着に着替えさせられていた。コートは丁寧に畳まれると、屋台のそばにあったバケツの中に収められたのであった。蔵持の口調が丁寧なものから、先ほどの調子へと変わったのは、アイディが口を開こうとしてからであった。
「こうまでせんとお前さん今にも逃げ出しそうじゃったからな。しばらく路銀はここで働いて貯めなさい」
「え……」
蔵持の不審な行動も去ることながら、一体なぜこんな提案をしたのかが、更に理解ができなかったからなのは言うまでもない。だが蔵持は椅子を直しながら話を続ける。
「何があったかは知らんが、それ相応の修羅場の様なものをくぐってきた、と、儂はお前さんから感じた。しかしな、あのまま蒼い社の服を着ているのはちと危険じゃ。旅をするのも結構じゃが、しばし足を止め、時勢と好機を知るというのも、一興ではないかね?」
アイディを迎えたのは走馬灯でもなく蒼い社でもなく、今この時この場にいる蔵持であった。彼の論理的かつ抒情的な説得に、アイディは上手く返答ができなかった。押しの一手、蔵持がアイディに詰め寄る。
「それに、蕎麦一杯の財産しかなくて、今後どうする気なんじゃ? 旅をして、また儂の所に戻って蕎麦をたかるのかの?」
「そ、それは――」
「では、決まりじゃの。さぁ、今夜は遅いが、屋台も入れられる宿を探すかの」
「でも、ぼくは」
「なぁに、今のお前さんは、ただの蕎麦売りの手伝いじゃよ。怪しさなら、儂の方が上じゃろう?」
蔵持は、相変わらずほっほと笑うと、自慢の禿頭をぐるりと撫でまわした。アイディは湯を被せられた事も忘れるほど、事態を上手く飲み込めずにいた。だが、どうやらこの割烹着はしばらく着せられたままの様な気がしたので、屋台を押す蔵持について行く事を決めたのであった。
その経緯を見守る、一人の少女がいた。夕闇に溶かしたような髪、燻り続ける鉄の様な瞳は、宵闇に混じり合いながら淡く月の光を反射させていた。
「お人好しか、あるいは気取られたか」
彼女は握りしめていた拳を開くと、その掌から拳銃を出現させた――無論、手品ではない。黒い粉が掌中から現れたと思うと次第にその粉が拳銃を造ったのだ。
「まさかな――
彼女こそ、天壌寺が寄越した刺客、ハポネ島からの休暇を返上してやってきた、G.G.ブレットである。
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