菜月
チリンチリンと鈴の音で菜月は目覚める。
自分の部屋、フィーネが鈴を鳴らしていた。
起き上がる。その様子を見て消えるフィーネ。
居間に降りると、台所で母は朝食の片づけをしていた。
「おはよう」
「んー」
「ご飯? パン?」
「パーン」
菜月は台所に入り、冷蔵庫を開けて牛乳をコップに注ぐ。
「あっ」
油断して少し零してしまい、布きんで拭った。汚れは消えてくれない。少なくとも一日は。
牛乳を冷蔵庫に戻す際、母と背中同士が文字通り重なる。だが二人とも気にしない。感触はない。
菜月が机に着く前に、朝食は用意されていた。
朝食を食べ、部屋で顔と髪のセット、着替え、ゆっくり支度を済ませる。
「もう行くからねー」
洗濯場にいる母に声をかける。
「いってらっしゃい」
学校に行く菜月。洗濯場から出てきてそれを見送る母親。
テーブルの上はそのまま。コップ、食器、パンくず。台所にある零れた牛乳を拭った布きんも。
菜月の残した影響。それらは現実世界には何一つ存在せず、AR上にのみ存在する。
菜月にとっては実物であり、けれど母にとってはARグラスごしに表示されたデータ。触れられないもの。
片づけない菜月に母はため息をつき、クリーンアップアイコンを選択する。菜月の残した影響は全て消え去った。
菜月と影響を表示する〈シルフ〉は、部屋の天井から吊るされた宝石のようなインテリア。
描写能力は凄まじく。だがどんなに演出しようとも、こうしてデータとしての側面を見せつけられたし、それを完全に回避するのは難しかった。
けれど、最初こそコピーとの生活に戸惑い、菜月として扱うことに葛藤したものの、今はもう慣れていた。
今の菜月を人として見てられるからこそ、些末事は気にならなくなっていた。
クリーンアップのようなデータ処理は、生活の一部でしかない。その中で菜月だけは真実だと。
起きる時間が早いときも、寝過ごして遅刻しそうなときもある。
テレビを見て笑い、ニュースの話題、その日に起きた出来事、関心。学校の事、友達の事。
朝食の片づけも菜月自身がやれば済む話なのだが、そのあたりのルーズさも変わらずだった。
そのままにしておいてもいい。帰ってきた菜月はしぶしぶ片づけるだろう。それでも注意してから片づける割合は多くなった。
菜月の振る舞いを、人として自然なものとして感じている。
その自然さも模倣に過ぎないと言われても、母にとって今の菜月は、やはり菜月であったし、そう見ようとする気持ちもあった。
コピーの通う学校。菜月は生前と同じくデザイン科に入学した。
授業は普通。ただ若いコピーは少なく、一同に集められて授業を受けている。見えている内容はそれぞれ違うが。
菜月にはコピーの友達もできた。
「なつきー、今日は〈紅京〉に行こー」
放課後。
帰ろうとする菜月に声をかけたのは
コピーであることを受け入れ、自身のデータ特性を最大限活用する子。放課後は各国のデータ都市を巡っている。
活動的だが、少しわがまま。髪型を思いっきり変えたり、身に着ける装飾にも気を使っている。
〈紅京〉とは中国のデータ都市。人口が世界一なのはデータ世界も変わらず、表示レイヤーも既に三つめの赤が与えられていた。
紅京の紅もそれにちなむ。
「ごめん今日は……」
「えー」
「港さんにも都合があるんだろ」
紗夜を制したのは同学年の
「じゃあもういーよ」
ふてくされ、紗夜は一人歩いていく。「悪いな」と言って恋は紗夜の後を追う。
二人はいつも行動を共にしている。付き合ってはいないというが、そうは見えなかった。
菜月は門から〈うみねこモール〉へ。
エントランスに到着し、柱を背にして楓を待つ。
放課後に出かけるのは久しぶり。ここ最近は楓が自分の部屋に来てネームを練ってばかりだった。
再会を果たしてから、菜月は楓と色んな場所に出向いた。
うみねこモールをはじめ、他のお店や公園。コピーが行ける場所へ。
どんなことできるのか確かめる為に。
そこでシルフの描写能力の限界、コピーとその同伴者に対する周囲の目がどんなものか知ることができた。
ARグラスで通話や、ARキャラクター、コピーと話す人は出かければ見かける。見えない相手と話をする人はどこにでもいる。
だがいくら〈独り言〉を言う人が増えても、その行動は奇異で、誤解を与えることもある。
喋りながら歩いていて、楓だけがすれ違う人に振り返られたり、話しかけたと誤解されたり。
菜月は一緒にいてその度に申し訳なく思った。
それに人やコピーが多い場所ではシルフの処理が遅くなり、タイムラグで会話が困難になる。
菜月が出かけることを躊躇い、安定して会話できる自分の部屋に集まろうと提案するのは当然だった。
しかし出かけたことは無駄ではなかった。楓と時間を共にするうち、気まずさは少なくなり、菜月も自分に自信を持つようになった。
ただ公共の場では不可視の状態を選択している。姿を見られたくないから。
同じころ、モールに到着した楓は菜月を見つける。
菜月に近づく前に楓は一旦、拡張グラスを外した。菜月が立っている場所には誰もいない。
装着する。菜月がいる。外す。いない。
だからどうだというのか。
ARグラスが楓の声を拾い、表情を読み取り送り、位置情報と共にシルフに送る。
データ加工され、菜月の目に楓の姿、表情が映し出され、声が聞こえる。
楓も菜月の母と同様に、菜月コピーを菜月として見ていた。それに違いはない。
ここに誘ったのは、最近ネームばかりで行き詰っていたから。
それに菜月が出かけるのを遠慮していたからだ。
確かに外では上手くコミュニケーションをとることができない場面がある。
だからと言って菜月に臆病になられても困る。
コピーであることの負い目、遠慮。菜月からそれらを感じていた。
そんなことに遠慮しなくていいと、楓からは素直に言えなかった。だから誘った。
今、楓が菜月に親愛を傾ける理由。
それには菜月が直と交際していないから、という理由もある。
直が菜月の近くにいれば彼に任せただろう。支えるのは自分の役割ではない。頼られれば別として。
だが二人は先輩後輩の関係に戻ったと聞く。
そして菜月は自分を頼っている。友達として。
それに答えた。
今の菜月を菜月として信じているから。信じられるから。コピーの可能性を信じられるからこそ、楓は菜月と関わっていられた。
楓は菜月とずっと友達であったから、いいところも悪いところも知っている。
時に憎くもあり、時に優しくしてあげることも。
だが直との交際が始まって、少し心が離れてしまった。
自分の傍に菜月がいないときのことも考えるようになった。
一人で過ごすことを。
けれど菜月コピーは、交際前の菜月。
この状況は楓が望んだわけではない。
二人がまた付き合いだしてもよかった。だがそうはならなかった。
菜月を信じられるから。そして今の状況。
それが菜月の傍にいる理由だった。
「あっ」
菜月は楓に気づいて歩み寄る。
楓がグラスをかけていないことに気づく。
(何してるんだろ?)
後ろに立つ。自分がいた場所を見ている。グラスなしで。
どんな意味があるのか。友達がコピーになったことを考えているのか。
逆の立場なら? 楓がコピーになったなら、自分はどうしただろう。
通行人の男性が菜月のいた場所に移動した。
楓はARグラスをかける。菜月がいない事に気づいて首を巡らす。
後ろに立つ菜月に気づいた。
「あっ」
グラスをかけた楓に見つかった。言葉がでない。
「なにしてんの?」
「楓こそ」
沈黙。お互い言葉を探す。
菜月は時折、楓によそよそしさを感じるときがあった。
楓は自分といることに、何かしら思うところがあるのかもしれない。
ひょっとすると嫌なのかもしれない。もしそうなら無理に付き合わせるのは……
自分がコピーであるという負い目。それは菜月の思考に反映されるようになっていた。
結局、〈空白〉の大部分を埋め合わせることができなかった。
作成中の漫画も続きも描けない。自分で考え、練り上げたものではないキャラクター、ストーリーを好きになることはできなかった。
楓は責めず、それならばまた新しく作ろうと言ってくれた。
最初こそぎこちなかったものの、楓との仲は前と変わらない。
ただしそれは自分だけがそう感じているだけかもと、不安が影を落としていた。
そして直とは、表面上、友達のままだった。
漫画の感想、描いている漫画についてたまにメッセージがくる。以前のように。自分が知っている頃のように。
ただあれ以来、会っていなかった。
今はお互い望まないと会えない。そしてわざわざ二人きりで会う理由も見つからなかった。
友達。それすらも今は希望。直とはもっと疎遠になったように感じていた。
「ほら、〈縁の下〉にいくわよ。今日は美鈴さんもいるし」と楓。
店員の美鈴は今の菜月に対しても、以前と変わらず接してくれる。
〈縁の下〉は菜月が安心して出かけることのできる場所の一つだった。
「うん」
返事を聞いて楓は歩きだす。菜月も後を追い、歩調を合わせてその隣に並んだ。
コピーと、人間。
菜月は幸福なコピーだった。家族、友達、知り合いが今の菜月を肯定してくれるから。
それが続くかどうかは……
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