覚醒
菜月がその瞬間に感じたのは体の異変。
自分の意志で動かせるけれど、何か変だということ。次いで目眩を感じるが、頭は固定されていて動かせず、くらくらと視線だけが彷徨う。
目眩は長く続かず治まり、彼女の頭をすっぽり覆っていた機械が持ち上がる。
目にした色に、思考が止まった。
青。
それが何を意味するのか、菜月は施術前に入念に教えられていた。
死。
部屋には誰もいない。頭を覆う機械が下りる前は係員がいた。そして部屋の壁を真横に走る印象的なラインの色も薄緑だった。
今、係員は姿を消し、ラインも青色になっている。
視線を落とす。自分の身体。しかし違う。肌の色、指の長さ、皺、腕の肉付き……右腕にはほくろがあった。今はない。
動揺と衝撃が広がる。
死。
頭に浮かぶことば。
「最初に感じるのは身体の違和感です。そしてこのラインの色が青になっていれば、そこはもうデータ世界であり、あなた自身はコピー人格である、ということです」
施術前の係員の言葉が蘇る。身体に違和感があり、部屋のラインは青色。
(私は死んだの?)
疑問に囚われ息苦しくなり、椅子から立ち上がれない。
「施術完了後、その世界はデータ世界かもしれない。そう心構えをしていてください」
人格保存の施術のたびにそう説明されていた。けれど、こうして直面しても、何かの間違いだと菜月は思いたかった。
(どうして? なんで? 私は死んだの? まだ17歳なのに? 今の私は、コピーの私なの?)
左手にある扉が開いて、女性が一人、部屋に入ってきた。
「こんにちは」
係員ではなかった。服装がまず違う。私服である。次の人格保存の順番待ちの人が間違えて入ってきたのかと菜月は考えた。だが女性は施術着でもない。
「ん、大丈夫? 自分がどうなっているかわかる?」
何故こちらを気遣うのか。そして部屋から出て行こうとしないのか。
数秒後に菜月は気付く。この人は〈案内人〉だ。コピーが覚醒して最初に出会う
いつもと違う状況。施術完了後にも部屋に係員はいた。「終わりました。お疲れ様です」と促されて部屋を出て着替え、帰るだけ。
何度見ても、部屋のラインの色は変わらない。
「私は、死んだの?」
声は、菜月自身の声であった。動揺の震えも自覚できる。
「えぇ」
(死んだ。死、死、死……なら、どうして?)
「どうして?」
「説明するわ。こっちに」
椅子から立ち上がる。ふらついたものの、すぐに足取りは確かなものになった。
「身体におかしいところはない?」
女性から聞かれるが、菜月にはわからない。
体格スキャン(身長、体重、腕や足の長さ等々)は実施していたが、表層スキャン(肉付きや肌の色、ほくろなど)は断っていた。
完璧な菜月の身体ではないが、しっっかりと歩けている。意志通りに動かせる。
「こっちに」
部屋の外に促される。菜月の記憶では、扉の先は通路で、少し先に更衣室がある。ついさっき通ったばかり。
だが、そこにはもう菜月の知っている世界ではない。
部屋になっていて、壁際に飲料サーバー。そしてモニターと机があった。
壁に大きく映し出された日付けと現在時間に目が留まる。11月27日の14時。
(今は8月1日のはず……)
そこで思い出す。コピーの時間は人格保存が完了した時点で止まっている。
その間、現実世界では時間が進んでいる。覚醒するまでに〈空白〉が生じるのだと。
(私は、今から三か月後に死んだの?)
「何か飲む?」
女性の声に応答できず、ただ茫然と見返した。
「最初は身体に慣れることが大事よ。自分を保つ為にも」
女性は飲み物(匂いからコーヒーだとわかるそれ)をテーブルに置く。湯気が立っている。
覚醒後、死を拒絶するコピーもいる。自分はコピーではないと。死んでいないと。
コピーの最初は、自分の死を受け入れることから始まる。
(だから、時間をこんなに大きく表示しているんだ)
部屋の演出意図に気づく。
(でも、本当に私は死んだの?)
けれど菜月の疑問は消えない。
菜月の人格保存はこれが三回目であった。
人格保存の理由。菜月は自分の死期がわかっていたわけでも、死の危険を察知していたからでもない。
何かあった時の保険。ただそれだけ。自分が死んで、そのコピーが覚醒することなど考えてもいなかった。
それはまだ先の話だと。
顔を触る。元の自分の顔があるはず。しかし手触りでは判別できない。
「はい、鏡」
女性から渡された手鏡に映るのは菜月自身の顔。不安に歪んでいる。
しかし鏡を持つ手、指の形や皺、肌の色は、菜月の知る体ではない。
表層スキャンを断った結果、与えられるのは菜月と同年齢の標準的な体である。
表層スキャンは全裸になる必要があり、羞恥を伴う。年若い菜月には耐えられなかった。
「ここからは、あなたのお父さんとお母さんと一緒に話を進めるわね。港菜月さん。あなたの死亡原因について、二人から伝えたいって」
父と母。それは今の自分が知っている二人なのか。四か月もの〈空白〉、自分の知らない父と母。
「いい?」
菜月は暗いモニターを見つめる。知らない二人から聞かされる、自分の死の原因。
(本当に、私は死んだの? 聞きたくない。けれど多分、受け入れなければ先に進まないんだ)
死の拒絶。それはコピーが最初に克服すべきもの。死を拒絶したままのコピーはいずれ心が壊れ、データ世界から消去される。
事前に講習で受けた内容を思い返した。
(これは死の受容、データ世界で生きる為の第一歩なんだ)
それでも菜月はまだ受け入れたくなかった。17歳。死がこんなに身近なものだったなんて。
(どうして私なの? 他のコピーも、この儀式を終えて、今、存在しているの?
ではこの状況を受け入れずに、消去されたいの? 何のために人格保存したの?)
保険。何かあった時に、家族の為に自分を残すことを望んだ結果が今。
家族。今の父と母が、自分を必要としている。
両親はコピーを目覚めさせないことも可能だった。直前になってコピーの覚醒を取りやめるケースも多々あると説明を受けていた。
最もその場合、問題は複雑になる。未成年のコピーの場合、覚醒を確実に履行する為に代理人と別の契約をする。菜月も例外ではない。
だがそうはならず、菜月コピーはこうして覚醒した。
(現世の私がいなくなったのなら、今のコピーの私が、唯一の私。消去を望めば、両親は悲しむかもしれない)
〈二度の死〉は、避けなければならない。
父と母を悲しませたくない。菜月は胸の内で、その気持ちを増幅させようとした。そうすることで全ての拒絶を抑え込もうとした。
部屋を落ち着きなく歩き回り、壁に両手をつき、何度も深呼吸をする。
そうして菜月は頷いた。拒絶は重苦しい鉛のようになって腹に残っていたが。
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