Live.66『逃げた僕が悪いのか 〜BARELY ESCAPE WITH ONE'S LIFE〜』
秋葉原の地下アジトから逃げ出した鞠華は、近くのネットカフェで一夜を明かしてから、翌日の夕方ごろに帰宅するべく店をあとにした。
横浜・桜木町駅で電車を降り、ファー付きのフードを深くかぶって道を歩き始める。
視界を流れていく景色はどういうわけかいつも以上に華々しく、とくに駅前は暖かな街灯と綺麗なイルミネーションの光に包まれていた。看板が煌々とライトアップされた店頭からはありきたりなクリスマスソングが流れ、すれ違う男女のカップルたちはみな幸せそうに笑っている。
(ああ、そういえば今日はクリスマスイブか)
どこか様子の違う街並みをみて、そこで鞠華はようやく今日の日付に気付くのだった。
いま思えば、『アクターとしての仕事』と『動画収録』という二足のわらじを履くような生活は、休みがほとんどなく多忙な毎日だった。
それに加えて、昨日起きた事件のこともある。あまりにも目まぐるしく変化していく現実に気を取られ、クリスマスを気にする余裕など全くなかったのだ。
(……今年もクリぼっちですなぁ)
そもそも夏頃に上京するまで引きこもっていた身としては、そこまで大きなウェイトを占めるイベントというわけでもない。
なにより人混みは苦手だ。とくに寄り道する理由も見つからなかったため、そのまま雑踏を突っ切って帰路につくことにした。
そうして歩き続けること、さらに十数分。
やっと自宅マンション付近に到着した鞠華だったが、自室のドアの前にできた人だかりを見て思わず足を止めた。
「なっ……」
遠目から見ても、それがカメラやマイクを携えた報道陣であることはすぐにわかった。
彼らはこちらの存在に気付くと、獲物を捉えた猛禽のごとく集まってくる。
「
「宇宙飛行士、
「国民は混乱しています──」
「アウタードレスとの一連の戦闘はマッチポンプだったという憶測が──」
気付けば、家とは反対の方向へ駆け出していた。
記者の質問攻めとカメラフラッシュを背に受けながら、とにかく逃げる一心で走る。
途中、冷たい突風を受けてフードが脱げてしまったが、いちいち直している余裕もなかった。
(なんだよ……どうなってるんだよ、これ……)
咄嗟に狭い路地へと身を隠した鞠華は、息を整えながらあんまりな現状を胸中で嘆く。
先日の“ライブ・ストリーム・バトル”の放送中に行なわれたウィルフリッドの声明は、やはり民衆たちに大きな波紋を呼ぶ結果となってしまっていた。
何よりも『
騒動についてはネットカフェ宿泊中にニュース記事をみてある程度知っていたとはいえ──それを現実として受け止めるには、まだしばらく時間がかかりそうだった。
(……行ったか)
人の気配が消えたのを感じた鞠華は、こっそりと壁から顔を出して様子を伺う。
どうやら無事に記者たちを撒くことができたようである。そう確信した鞠華はそそくさと路地を出ようとしたが、そのとき不意に背後から声をかけられた。
「
まだ記者が残っていたのかと思い、足底で画鋲を踏んだように飛び上がってしまう。
……が、その声にどこか聞き覚えのあることに遅れて気付き、鞠華はおそるおそる後ろを振り返った。
「あ、アリス……ちゃん……」
真冬の道端でばったり出会ったコート姿の少女が、今はまるで慈愛に満ちた天使のようにみえた。
*
約三ヶ月半ぶりに訪れたカスタード姉妹の部屋は、寒さで冷え切っていた鞠華を居心地のいい暖かさで迎えてくれた。
まだ上京したての頃に
「あっ……僕のマグ、取っておいてくれてたんだぁ」
ウサギの絵がプリントされたマグカップを目の前に置かれると、鞠華は少し驚いたように手に取る。
このマグカップはこの家で共同生活を送っていたときに、鞠華が自分専用に使っていたものだ。というのも、どうやらカスタード家ではコーヒーや紅茶をマイカップで飲む風習があるらしく、ほかの二人も自分用のカップをそれぞれ所持している。
「また使うこともあるかも……って、思ってましたから」
「えっ」
「い、いえ。なんでもないです」
アリスはペンギンの赤ちゃんがプリントされた可愛らしいマグカップに一口つけると、ふと湯気だったコーヒーに視線を落としたまま黙り込んでしまった。
やがてアリスのほうが踏ん切りをつけたようにカップをテーブルに置くと、どこか不安げな面持ちで話を切り出した。
「昨日からずっと、お姉ちゃんが家に帰って来ないんです……」
「……!」
「連絡も全然つかないし……逆佐さん、何か知ってますよね?」
鞠華にとってはもっとも
はたして真実を伝えるべきか否かと、迷いあぐねた鞠華は思わず言い
そうして延々と
「……逆佐さんっ!」
「わわっ……!?」
ソファの上に押し倒される形となり、気が動転した鞠華は軽いパニックに陥ってしまう。
だが、胸に顔をうずめながらすすり泣くアリスの声を聞いたとたん、彼の熱暴走しかけていた頭はふっと冷静になった。
「アリスちゃん……?」
「すみません。ちょっとずるい聞き方でした……お姉ちゃんにも逆佐さんにも事情があるってこと、今はちゃんとわかってます」
何も知らされず、信用するだけの判断材料を持っていなかった以前とは違う。
今のアリスはたしかに、鞠華やレベッカたちを信じている。
その優しさがよけいに、鞠華の胸を締めつけるのだった。
「……実はさっき、病院に行った帰りだったんです」
鞠華の服の裾をぎゅっと掴みながら、アリスが声を震わせてそう言った。
一瞬、てっきり彼女が怪我をしたのかと不安に思ってしまう。そんな鞠華の予想は、より残酷な形で裏切られることとなる。
「ちーちゃんが昨日、戦闘に巻き込まれて……瓦礫の下敷きに……」
「うそ……藤崎さんが……?」
「命に別状はなかったんです。けど、片方の脚が……ううっ、あああ……あああああ……!」
アリスの級友である
おそらく昨日の戦場と化した横浜市街のどこかに、彼女が居合わせてしまっていたのだろう。
黒いゼスマリカが破壊の限りを尽くした、あの場所に──。
あの時、自分が“マスカレイド・メイデン”を制御できなかったから?
暴走させてしまったから、アリスの大事な親友を傷つけてしまったのか?
しかし、胸の中で泣いている少女にかけるべき言葉が見つからない。
間違えるな。傷ついたのはアリスであり、千歳であり、自分ではないのだ。
そんな胸中の葛藤は、リビングのドアが開かれる音によって打ち砕かれる。
「やはりここにいたか、ゼスマリカのアクター」
この場にいないはずの第三者に声をかけられ、鞠華は覆いかぶさるアリスとともに慌てて起き上がる。
ドアのほうを見やると、そこには厚手のダウンジャケットを着た
「ティニーさん、それに紫苑まで……」
「お前を連れ戻しにきた。ボスからはこれを預かっている」
匠はそう言って、手に持っていたストラップ付きのルームキーを見せてきた。
その鍵にたしかな見覚えがあったアリスは、驚愕に目を見開く。
「それ、お姉ちゃんの……な、何なんですか、あなた達は……!?」
インターホンすら鳴らさずに入ってきた侵入者たちに対し、当然ながらアリスは警戒心の棘を張る。
とくに匠に関しては誘拐事件のさいに面識もあったため、その人物が姉の所持物を手にしていたという事実は、尚のことアリスを混乱させた。
匠はそんな様子の彼女を冷ややかな目で
「君の姉上からの
「あ、あなたは……お姉ちゃんにとっての何なんですか……?」
「部下のような者、と覚えてもらって構わない。……それ以上のことは、君が知るべきではない」
匠は必要最低限の言葉だけを告げたあと、その視線を鞠華へと戻した。
「……何のつもりですか。怪我人の紫苑まで連れてきて」
「単刀直入に言えば、情報を聞き出すためだ。お前がなにか重要な事実を隠していることはわかっている」
「…………」
鞠華は匠の視線に耐えかねたように顔を
二人のやり取りに呆然としているアリスを無視して、匠はさらに疑惑を突きつけていく。
「聞くところによれば、お前は
「それがなにか」
「
まるで言いがかりじみた推理を聞き、うんざりとした鞠華はため息交じりに言葉を返す。
「何も矛盾はしてないですよ。10年前まで千葉に住んでいて、家がメチャクチャになったから愛媛にいる祖母の家に引っ越した……それだけです」
「本当にそれだけか? お前の
「ハァ……だからウィルフリッドさんも言ってたじゃないですか。僕の本当の名前は、
「それも嘘だな」
名乗りすらも
しかし匠はそれすらも微動だにせず、淡々と喋りはじめた。
「悪いが“天地鞠華”という人物について少々調べさせてもらった。宇宙飛行士・
「…………」
「天地鞠華はその双子の兄だ。お前に姉などいない……違うか?」
その問いかけに、透明な少年は答えなかった。
否、答えられるはずがなかった。
それを“認めて”しまえば、今まで積み上げてきた全てが無へと帰してしまう。
だから“逆佐鞠華”は、苦渋の想いで声を絞り出した。
「僕が悪いっていうのか……」
「なに……?」
「だってそうだろッ!? こんな昔の話を突きつけて、あなたたちは僕を追い詰めようとしてるんだ! でも、誰だって逃げたい過去の一つ二つはあるんだ……それがいけないっていうのかよ!!」
鞠華は思いの丈をぶちまけると、
心配した紫苑がそばに歩み寄ると、鞠華はまるで最後の希望にすがるように彼女の体へとしがみついた。
「助けてよ、姉さん……昔みたいに『笑って』って、言ってよ……」
「まりか……?」
「だって、紫苑は姉さんなんでしょう……? 十年前、離れ離れになって……でも生きてた、生きていてくれた、ぼくの大事なねえさ──」
「ぼく、まりかのおねえちゃんじゃないよ」
「は……」
祈るように鞠華が顔を仰ぐと、紫苑は首を横にふった。
まるでこの世の全てに見放されてしまったような絶望を抱き、紫苑から手を離した鞠華はそのまま床に崩れ落ちる。
頭が割れるように痛み出したのは、そのときだった。
「うぅ……ああっ、あああああ……あああああああああああああ……!!」
「逆佐さん……!?」
とっさに駆け寄ったアリスの声も、もはや鞠華の耳には届いていなかった。
脳が焼ける。眼球の奥が燃えるように熱い。
大きく見開かれた両目が、血のような赤色の光を放つ。
次第に
「この
「えっ……?」
「窓の外をみてみろ」
混乱しているアリスへ、匠はそのように声をかける。
彼女は言われた通りにカーテンを開くと、夜闇のなかに巨大なシルエットが浮かんでいるのがみえた。
左右非対称に分かれた白と黒のマスク。
細長い手足を持つ、いかにも身軽そうな体躯。
以前にも現れた、
「あのドレスって……たしか、逆佐さんが入院していた時の……」
「なるほど、道理であのような姿形をしているのか」
「それって、どういうことですか……?」
アリスが不安げに聞き返すと、匠は導き出した答えを告げる。
「あれは、逆佐鞠華を
それが、おどけたような笑いを浮かべたマスクの理由。
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