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働いた後は決まってお腹が空くのに、何故か今日は全く食欲がなかった。

ベッドに寝転んだまま、テーブルの上にある時計をずっと眺めていた。

彼はもういないのに、あの甘ったるい煙草の香りがずっと残っている。

名前も知らない人。

ただの、バイト先の常連さん。

変だな、と思った。赤の他人のはずなのに、気付けば彼のことばかり考えている自分がいる。

最近はずっとコンビニとアパートの往復で、淡々と毎日を過ごしていたから、こんなに思考を巡らせるのは久しぶりの感覚だった。


「考えるのって疲れる」


私はゆっくりと瞼を閉じて、思考を手放した。




目が覚めると、身体が酷く重だるかった。

起き上がろうとすると、こめかみが鋭く痛む。

頭がぼうっとして、身体が暑い。

もしや、と思い体温計に手を伸ばす。熱を測ると38.5度。どうりで身体がきついはずだ。

ホラー映画の幽霊のように、ずるずるとベッドから這い出ると冷蔵庫にある水を飲む。

夏風邪だろうか。昨夜が雨で、肌寒かったのが原因かもしれない。

戸棚を開けて風邪薬の瓶を取り出す。瓶の蓋を開けると、中身は何も入っていなかった。買い足すのうっかり忘れてしまっていたようだ。

夜になれば、熱が上がって今よりもきつくなるかもしれない。

悩んだが、薬局まで薬を買いに行くことにした。

外に出ると、ちょうど日が沈みかけていて空はオレンジ色に燃えていた。

ツクツクボウシが鳴いている。頬に感じる風が涼しかった。夏がもうすぐ、終わっていく。オレンジ色の空を見ると、私はある光景を思い出してしまう。

私には家族がいない。

父は私が幼い頃、若い女と不倫して家を出た。父に捨てられた母は精神を病んだ。ろくに働きもせずに、私を一人家に残し、毎夜飲み歩いていた。

今でもよく覚えている。一人で眠る寂しさや、頼るべき人間である母に頼れない絶望感___。

私には風邪を引いた時、看病してくれるような母親は何処にもいなかった。

母はいつも、夕方になると私を置いて外へ出た。

母と二人で住んでいたアパートのベランダから母の後ろ姿を見送るのが私の習慣だった。「行かないで」という心の叫びを必死に噛み砕いて、涙が零れないようにオレンジ色の空を見ていた、あの頃。もう、私は母がいなくても生きていける。昔とは違うのだ、私は非力な子供ではない。

___ああ、駄目だ。

身体が弱ると、心も弱る。一人には慣れているはずなのに。

身体の節々が痛い。額に手を当てると先程よりも熱い気がする。思わず、その場にしゃがんだ。

自分でも理由がわからないが、何故か私は泣き出してしまいそうだった。

視線を感じて、顔を上げるとスーパーの袋を片手に持った主婦が不信そうな目で私を見ていた。

思わず、下を向く。縮こまるように膝を抱えて、灰色のコンクリートに出来たシミを眺めた。


「何してるの」


不意に、頭上から声が降ってきた。聞き覚えのある声だ。私はもう一度顔を上げる。目の前に、"煙草の彼"が立っていた。彼はしゃがむと、私の額に手を当てる。彼の手は冷たくて、気持ちがよかった。


「凄い熱……体調悪いの?」

「……はい」


私が頷くと、彼は私の腕を自身の首に巻き付けた。


「捕まって」


彼はそう言うと、軽々と私を背負った。


「こないだのアパートに住んでるんだよね?」

「そう、です」

「わかった」


私は都合の良い夢を見ているのだろうか。けれど、彼の背中からあの煙草の甘い香りがして、確かに現実だと思い知る。

彼は私を背負ったまま、アパートの方向へ歩き出す。どうやら、家まで送ってくれるらしい。

彼の背中に揺られていると、次第に瞼が重たくなってきた。背中から伝わる温度が心地いい。

店長、やっぱりこの人は怪しくなんかないですよ____私は心の中で呟くと、目を閉じた。

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