誰があんたを好きだって?

伽藍 @garanran

誰があんたを好きだって?

 とあるSNSでそいつの名前を見つけたのは、完全な偶然だった。

 別に探していたわけじゃない。SNSで本名なんか使ってる向こうが悪い。


 【川瀬亮】


 名前を眺めていれば、自然とかつてのクラスメイトの顔が浮かぶ。

 中学の同級生だった。たぶん、当時のわたしにとっては男子の中で一番話す相手だった。だからといって、仲が良かったわけではなくて。


 細くてチビっこい少年だった。女子の中でも二、三番目くらいに背が低かったわたしと同じくらいの身長だったから、当然のように男子の中では一番背が低かった。

 口が悪くて、成績は良かったような気がする。同じくらい口が悪かったわたしとは、よく言い合いになっていた。

 よくあることだろうけれど、卒業してから十年、ほとんど会ってない。何回か、卒業生の集まりで顔を合わせたくらいだ。


「……ふーん」

 思い返すとなんとなく、じわじわと面白くなってきて、わたしは友人申請のボタンを押した。個人宛のメッセージに手早くメッセージを打ち込む。

『久しぶりー。ゆきだよ、覚えてる?』

 メッセージが送られたのを確認してから、わたしはふと我に返った。いきなり声をかけたりして、何をしているのだろう。

 一度送信したメッセージを取り消すことはできない。どうせ返信なんてないだろうと思うことにして、わたしはスマホをしまいこんだ。



 どうせ返信なんてないだろう。そう、思っていた。

 ――だと、言うのに。

 夕飯を食べて戻ってみれば、スマホが新着メッセージの受信を通知していた。

「いやいや、まさか」

 呟きつつアプリを立ち上げる。予想に反してというべきか、予想通りというべきか、亮からのメッセージが返ってきていた。

 最後に会ったのなんて数年前だし、どんな会話をしたのかも全く覚えていない。だというのに、そんなブランクなど感じさせない調子で。

『おう、久しぶり。どしたよ』

 うわ、マジで返信きたよ。感心しているのか驚いているのか自分でも判らないまま、ほとんど何も考えずに返信する。

『んにゃ、別になにもー。名前見かけたから』

 すぐに返信がくる。

『暇人か』

『暇人だよ、悪いか』

『社会人?』

『一応社会人。そっちは』

『俺も』

『何の仕事してんの』

『教えねー』

『いや、なんでだよ』

「いや、なんでだよ」

 謎の返しに思わず声が出た。相変わらず腹の立つことしか言ってこない。

 そうだ、こいつはこういうやつだった。

 そんなわたしも、なんともまあ色気のない文章だけれど。これが仮にも年頃の男と女のやりとりか、と考えて可笑しくなった。

 部屋に持ち込んだココアを抱え直して、スマホを前に考え込む。亮のやつも、随分と会話を続けにくい反応を返してくる。

 考えながら、わたしは文字を打ち込んだ。

『紅葉の葉もいよいよ色づいて参りましたが、いかがお過ごしでしょうか』

『手紙かな??』

『皆様ますますご健勝のこととお慶び申し上げます』

『手紙だな??』

 短い文面にどう返すか考えている間に、続けてメッセージが届く。

『わかった、暇なんだな。この暇人め!!』

『よくわかったな、暇なんだよ! 相手してよー雑談のネタを所望する!』

『友達いねーのかよ』

 そのメッセージに、わたしはふはっと笑った。

『友達いるよー失礼な! せっかく亮の名前を見つけたから相手をしてやろうってのにーありがたくおもえー』

『誰が思うか!』

 くだらないやりとりをしていると十年前に戻ったような気がして、わたしは思わず笑った。

 昔もこうだった。中学の三年間、真面目な話をした覚えなんて一度もない。

『いいねー変わらんねー亮くん大好きー!』

『あっそ。大好きなら奢ってくれださい』

『奢らねーよ!!?』

 一つの意味もない言葉に、一つの意味もない言葉を返す。ただこれだけのことが、とても楽しい。

 こんな風にして、わたしと亮の交流は、十年ぶりに唐突に復活したのだった。


***


 交流が復活した日から、わたしはたまに亮とメッセージのやりとりをするようになった。

 というか、けっこう頻繁にやりとりをしている。週に三日とか、四日。よっぽど仲の良い友達とも週に一回連絡を取れば良いほうのわたしにしてみれば、ずいぶんな頻度だった。

 わたしは家から電車で数駅先の書店で働いている。お昼の休憩時間にスマホを確認すれば、案の定、亮からのメッセージが入っている。

『○○っていつ入荷するっけ』

『あーっと、明後日だね。予約したの?』

『おー、俺の地元の本屋でな』

 何気ない調子で返された言葉に、わたしはそっと息を吐き出した。彼のいう『地元』は、わたしとは縁のない場所だ。


 中学の同級生なのだから当然のことだけれど、子どもの頃、わたしと亮は同じ街に住んでいた。

 生活圏も同じだったし、ちょっと大きな街に出ようと思ったら絶対に同じ駅を使わなきゃいけなかった。普段使いの本屋なんて一件しかなかったし、友人たちと集まるファミレスも数件の候補しかなかった。

 『いつもの場所』も、友人たちと計画して繰り出す『ちょっと遠くへお出かけ』も、だいたい行き先は一緒だ。お店の名前を出せばお互いに判るし、話すときに困ることなんてなかった。

 けれど、今となってはそれでは話が通じない。亮の言っている『地元の本屋』がどこにあるお店なのかをわたしは知らないし、どんなジャンルの本を扱っているのか、どんなレイアウトをしているのかもぱっと思い描くことはできない。

 亮は就職を機に、都内にある職場の近くに引っ越した。電車で一時間かかる街は、地元に残ったわたしからすればとんでもなく遠い。

 それは当たり前の話で、当たり前の話なのに、なぜか不思議な気がした。だって中学の頃、『近所の公園』といえば大型ショッピングセンター裏手の公園しかなかったのに。


 わたしもそんなに連絡を返す方ではないけれど相手はそれ以上に気紛れだから、簡単にやりとりが途切れてしまうこともある。どう返そうかと、わたしは首を捻った。

『なんだよー、わたしのお店に買いに来てくれないの?』

『いやなんでだよ! 本一冊買いにそっちまで行けってか』

『里帰りついでに』

『明後日水曜じゃねえか。なら土日に行くわ。いや行かねーけど』

『従業員割って、知ってる……?』

『なにそれ魅力的』

 亮とのやりとりはいつもこんな感じだ。くだらなくて、何の意味もない。けれど中学の頃に戻ったようなやりとりがどうにも楽しくて、続けてしまう。

 相手が何を考えているのかは、いまいち判らないけれど。延々と料理のレシピが送りつけられてきたときは『作れと?』ってなりましたよね。

『あー、判った。よし判った。お前んとこで○○先生のサイン会開いてくれよ。そしたら行くわー行きますわー絶対行きますわー』

『無茶をおっしゃる!』

 しがない地方の一書店員に何を求めているのか。

 思わず画面を見て笑っていると、休憩室の扉が開く音がした。振り返ると、バイト仲間が休憩室に入ってくるところだった。

「ゆきちゃん、交代ー。よろしく」

「はいはい、行きますよー」

 休憩室に置きっ放しの鞄にスマホを放り込む直前に、思いついてこう打ち込んだ。

『そのうちご飯行こうよ。わたしが東京で遊ぶついでにでも』


***


「――なーんて、言っちゃったけどね」

 数日前に送ったメッセージを見返して、わたしは嘆息した。顔が引き攣ったのが自分でも判る。

 冗談混じりに誘ったわたしへの返信を見たのは、その日の午後の業務が終わってからだった。

 画面をスクロールさせて、数日前のやりとりを睨みつける。

『マジかー、ご馳走様でーす!』

『いやご馳走様でーすじゃねーよ』

「いやご馳走様でーすじゃねーよ」

 思わず、あのときにした返信がそのまま口から飛び出した。

「ゆき、どうかした?」

 話しかけられて、わたしははっと我に返った。気づけば、正面に座る友人が呆れたようにこちらを見ている。

 学生時代の友人とパンケーキを食べに来ていたのだった。状況を思い出して、わたしは苦笑いで誤魔化した。

「やー、ごめんごめん。ちょっと思い出し怒りを」

「思い出し怒り」

 おかしな日本語が面白かったのかぽつりと口の中で反芻して、友人が首を傾げる。

「SNS見てたの?」

 スマホの画面が見えたらしい。二人でいるときにお互いスマホを触っていることなんてよくあることだから、咎めているのではなく単純な好奇心だろう。

 少し考えてから、わたしはふと思い出した。

 社会人になると、中学時代の友人か高校時代の友人か大学時代の友人かなんてどんどんあやふやになるものだ。けれど、考えてみれば彼女は中学からの友人だった。

「あー、ほら覚えてる? 川瀬亮」

 もご、と友人がパンケーキを食べていた口を止める。ぱちり、と大きな瞳が瞬いた。

 しばらくしてまたもぐもぐと食べ始めて、飲み込んで、きっちり紅茶まで喉に流し込んでから口を開く。

「……ダンナ」

「誰がじゃ!」

 反射的に言い返した。

 同時に、余計なことまで思い出す。当時しょっちゅう絡んでいたわたしたちを、クラスメイトの何人かは面白がって夫婦呼ばわりしていた。その中の一人が、彼女だった。

 中学の頃と言えば、男女が二人で話しているだけでも付き合っているんだろうとか騒がれるような時期だ。よくある話だし、実際わたしも今の今まで忘れていたのだけれど。

 ……ちょっと、話す相手を間違えたかも知れない。キラキラと輝く乙女のような眼を――別の言い方をすれば、餌を前にした肉食獣のような眼を――している友人を見て、わたしはこめかみを揉んだ。

「なんだ、ヨリ戻したんじゃん」

「いや、ヨリも何も付き合ってないし、もともと。好きでも何でもないし」

「でも連絡取り合ってるんでしょ?」

 つい、と友人の細い指が示したのはわたしのスマホだった。思わずスマホを手で隠す。

 隠してから、わたしは自分の失敗を悟った。これでは、SNSで連絡を取り合っているのが川瀬亮だと自白しているようなものだ。

 案の定、墓穴を掘ったわたしに確信を得たのか友人の瞳が輝きを増す。

「へえーそうなんだふーん」

「いやいや何もそうじゃないよ判ってないでしょ」

「で、川瀬と連絡取り合ってるの?」

「いや、」

「で、川瀬と連絡取り合ってるの?」

「…………はい」

 友人の圧力に屈して、わたしは頷いた。元々、嘘は得意な方じゃない。

 眼の前のパンケーキのことなどすっかり忘れたような顔をしている友人の視線から逃れるために、わたしはスマホに視線を落とした。

「えー、良いじゃん良いじゃん。二人で会ったりしてるの?」

「会わないよ、会う用事もないし」

「恋人は?」

「恋人……」

 言われて、わたしは動きを止めた。

 あいつに恋人がいるかなんて、考えたこともなかった。

 運動が出来る訳でも、イケメンな訳でもなくて、おまけにチビで毒舌なやつだったから、中学の頃はそんなにモテていなかった、と思う。わたしの中の亮はいつまでも中学の頃のイメージのままで、だから恋人という言葉とはどうしても繋がらない。

 まさか、と言いたくなるのを堪えて、わたしは興味がないという顔をしてこう返す。

「――いるんじゃないの、いい年なんだし」

「本人が言ってたの?」

「いや、訊いたこともないけど」

「ならワンチャンあるかもよ」

 思い出したようにパンケーキの最後の一欠片を口に放り込んで、友人がにやり、と笑う。パンケーキ大好きで、おっとりとした雰囲気で、いつも全身を可愛らしい服でまとめている友人だけれど、彼女はこういう表情がとても似合う。

「とりあえず、恋人がいるかだけでも訊いてみれば?」

 何が『とりあえず』なのかさっぱり判らないまま、わたしは曖昧に頷いたのだった。


***


「――うわ、デカッ! え、本当に亮? 誰かと入れ替わったとかではなく?」

「ンなわけねーだろ、チービ」

「うっせ!」

 金曜、夜。

 何故か、亮と二人で飲むことになりました。


 事の発端は数時間前だった。わたしが都内で遊んでいることを話したら、なんとなく流れで合流することになったのだ。

「いやいやいや、なんでだよ」

 ほんと、なんでだよ。最近こんなのばっかりだ。腹が立つ。

「なんか言いましたー? チービ」

「引きずるね、君!」

 言いながら、わたしは隣を歩く亮を見上げた。そう、見上げたのだ。わたしが、亮を!

 わたしはそんなに身長の高い方ではないけれど、それでも中学時代からは何センチか成長している。だというのに、亮はわたしの予想を遥かに超えてにょきにょき伸びていた。

 嘘だろ、中学時代はさんざチビ呼ばわりしてたのに、このわたしが逆にチビ呼ばわりされることになるなんて!

「ってか、中学の頃も俺とあんま身長変わらなかっただろ」

「でも男子の中ではチビだったろ」

「それを言うならお前だって女子の中でチビだっただろ!」

 言い合ってふつりと会話が途切れ、わたしたちは同時に顔を逸らした。お互い、馬鹿らしさに気付いたのだ。

 それでもわたしよりも背が高い亮に慣れることができなくて、ちらと横目で見上げる。

「え、それで何センチなん」

 ここでは素直に返ってきた答えを頭の中で反芻して、こっそり驚愕する。わたしとはきっちり15センチ差だ。

 そんなに身長に差が出るなんて思わなかった。

 中学時代のわたしだって、聞いたらきっと笑い飛ばしただろう。

「……チービ」

 なんだか悔しくて、認めるのが癪で、彼に聞こえないようにわたしは呟いた。


 金曜の夜は浮かれたように、あちこちにこれから飲み会に繰り出すのだろう社会人やら、学生やらが歩いている。その姿が面白くて、わたしはきょときょとと周囲を見回した。

 わたしの地元は田舎だし、働いている最寄りの駅も地元よりはちょっとマシくらいで似たようなものだ。わたしにとっては、そもそもひとがこんなにいるって状況が珍しい。都会すごい。

「完全にオノボリさんだな」

 横を歩く亮は面白そうな顔をしてそう言った。うるさい。

 仕事帰りだというからスーツ姿だと思っていたら、相手はカジュアルな私服姿をしている。その姿を上から下までしげしげと眺めて、わたしは言った。

「……無職なの?」

「失礼にもほどがありますね!?」

 お互い様でしょ!

 都会のひとたちはみんな早足だと友人が言っていたけれど、金曜日の夜でもそれは変わらないらしい。お店のディスプレイに気を取られてふらふら歩いていたら、後ろから追い越してきた男のひとにすれ違いざま肩をぶつけられたあげく舌打ちされた。

 思わず肩を押さえて呟く。

「都会こわーい」

「お前がちんたらしてるのが悪いんだ、バカ! こっち来い」

 ちょっとばっかし強引に腕を引かれて、あれよという間に歩道の中でもひとの少ない空間に連れて行かれる。慣れてるな、都会人。

「お前、そんなんで大丈夫だったのかよ? 変なアンケートとか答えてねーだろーな」

「いや、それはさすがに……。女の一人歩きがどうこうっていうほど治安悪くないでしょ?」

「そりゃそうだけどな、そうやって油断してるやつなんて傍から見りゃすぐ判るんだから――」

 相手の声が説教がましくなってくる。それを聞いているうちになんだか面白くなってきて、ついに堪えきれずにわたしは噴き出した。

 亮が! わたしを! 女扱いしてる!

 言ってやろうかと思ったけれど、仮にもわたしを心配してくれている相手に対して失礼かなと思ってやめておいた。亮はわたしの心遣いに感謝して欲しい。

 いきなり笑い出したわたしに対して、亮は心おきなくどん引きした顔をしていたけれど。君はとことん失礼だな。

「――っていうか、急に合流したけど、どこ行くとか決まってる? わたしこの辺詳しくないよ」

「観光客にそんなん求めてねーよ。適当なとこで良いだろ」

「観光客は……言い過ぎじゃないかな……」

 言い返そうとして、思わず語尾が弱くなった。観光客って何だろう。

 深遠な謎を前にしたわたしがうんうん唸っている間に、目的地に辿り着いたらしい。首根っこを掴まれて、わたしは仰け反るハメになった。

「ちょっと、何すんだよ……」

「この二階、前に来たとこ。ここで良いだろ」

「……まあ、何でも良いけどさ」

 食の好みはあんまり聞いてないけれど、自分の部屋に幾つも酒瓶をストックしておく程度の酒好きらしいというのは知っている。わたしは飲めないというのは先に伝えておいたはずなのだけれど、たぶん向こうは忘れているか、気にしていないだろう。

 大して期待もせず、わたしはお店に入った。内装はちょっとオシャレめの居酒屋という感じで、個室もあるようだ。というか当然のように個室に通されて、若干気まずい。

「ほれ、奥」

「ありがとー」

 先を歩いていたのに当然のように奥を譲られて、面食らいながらもありがたく奥のソファ席に座る。

 メニューを渡されて、わたしは思わず歓声を上げた。

「うわ、ノンアルのカクテルいっぱいある!」

「おー」

 アルコール飲料と間違わないようにか、アルコールありとなしでメニューが分けられていた。亮はアルコール飲料のメニューを見ながら、気のない様子で頷く。

「お前、酒飲めないっつってたじゃん。どうせならこういうのが良いだろ」

「おぉ……」

 ちょっと感動してしまう。

「いいね、気遣い系男子って感じだね! 褒めて遣わす!」

「ありがたき幸せ。ご褒美に奢ってください」

「いや奢らねーよ!? ってか東京出て働いてる方が良いお給料貰ってるでしょ」

「ひでーへんけんー」

 棒読みで返す男の表情が読めなくて、わたしは注意深く亮を観察した。

 そんなことを言いながら、たぶん亮は普通に折半で払うだろう。でも、わたしが出すといえばあっさり奢らせるだろうし、調子よく礼を言うはずだ。少なくともわたしの知る亮は、そういう性格だった。

 この十年ろくに会っていなかったのだから、実際にはどうかなんて判らないけれど。

 いつの間にか、飲めないわたしに配慮したお店を選べるようになっていたみたいに。

「何、俺って見惚れちゃうくらいイケメン?」

「いや、それは、……ないかな……」

「まさかのマジレス」

 おどけた調子で問うてくる亮に返しながら、まじまじと元同級生を眺める。

 よく知った、けれどあの頃よりも確かに大人びた顔。見飽きたと思うくらい見慣れていたはずで、こうして会っている今だって何も変わっていないような気がするのに、たまに知らないひとの顔をする。

 よく知った、けれど知らないひと。

 それがなんだか面白くなくて、わたしは亮の顔から視線を逸らした。

「決まったか?」

「あー、……ちょっと待って」

 わたしが言うと、呼び鈴に伸ばそうとしていた手を引っ込める。昔の亮なら、構わずに店員を呼んで慌てるわたしをからかっていたかも知れない。

 よく知った、けれど知らないひと。

「――ねえ、亮」

 その瞬間のわたしの感情は、自分でもいまいちよく判らない。

 気付けばわたしは、亮に問いかけていた。


***


「――で?」

 見ているだけで嬉しくなるような、きらきらとしたタルトを前にして。

 相変わらず可愛らしいワンピース姿で、ピンク色の頬で、優しく眼を細めて、友人は微笑んだ。

「なんて答えたの、川瀬は?」

「…………」

 完全に面白がっている声音に、答えないままわたしの前にも置かれたタルトを睨みつける。

 つやつやとしたブルーベリーに、瑞々しいクランベリー。山盛りのフルーツを、真っ白いクリームが飾りつけている。

 フォークを持って、タルトに突き刺す。ざくっ、とフォークがタルトを貫通して、皿がかつんと音を立てた。

「行儀が悪いよ、ゆき」

「済みません」

 謝って、タルトを口の中に放り込む。

 美味しい。わたしの気分が乗らなくたって関係なくタルトは美味しくて、ブルーベリーにもクランベリーにも罪はない。

 罪深い味をうっとりとしながら飲み込んで、わたしは紅茶に手を伸ばした。

「ゆきー? ゆーきーちゃーん?」

 わたしの友人様は実に実に楽しそうだ。きらきらしている顔を見返して、わたしは望む答えを教えてあげた。

 あの夜、思わず口をついて出た質問に、あっさりとした答え。


『あんたって、彼女いるのん?』

『は? 関係ないだろ、バーカ』


「――んの、バカって言った方がバカなんだよ、バーカ!」

「小学生かな?」

 吐き捨てたわたしの言葉に、友人が嘆息した。呆れたように、救いがないとでも言うように、心から楽しそうに。

 友人が楽しそうで何よりです。

 ぐったりとテーブルに突っ伏したわたしのつむじをつんつんと押しながら、友人は弾むような声音で言った。

「相変わらず妬いちゃうくらい仲が良いねえ、ゆき」

「それはどうも!」

 答えてがばりと体を起こし、再びタルトにフォークを突き刺した。

「行儀が悪いよ、ゆき」

「…………」

 ふいと顔を逸らしたままのわたしの視界の端で、友人がひょいと肩を竦める。

「でもまぁ、いるとは言われなかったんでしょ?」

「まともに答えてくれなかったからね!」

「じゃあワンチャン」

「―――」

 軽い調子で言った友人に、わたしはぴたりと動きを止めた。まじまじと見返すと、にっこりと天使のような友人が微笑んでいる。

「押せるだけ押してみても損はないと思うよ」

 天使のような、無垢で可愛らしくて、眼の前にするだけで心が浮き立つような、笑みで。


「当たって砕けたら、全力で慰めてあげるね!」


***


 数週間後の金曜日、夜。

 駅の化粧室で鏡の中の自分を確認して、わたしは頷いた。

 黒のワンピースに、ピンクのアイシャドウ。チークはオレンジを強めに、口紅はナチュラルベージュ。

 普段、わたしは仕事ではスーツで通しているし、メイクもベースメイクくらいしかしない。平日ではあり得ない格好に、少しばかり心が浮ついた。

「さて、約束の時間は、と――」

 スマホを確認して、時間が迫っていることに気付いて慌てて踵を返す。待ち合わせはいまいる駅の東口だ。

 中学の頃の友人から、飲みの誘いがあったのは数日前。もともと仲の良い相手だから、わたしがあっさりと頷いたのは当然の流れだった。

『ゆきー、ついたー?』

『ごめん、いま行く!』

 友人からのメッセージに返信して、待ち合わせ場所に向かう。数人の見覚えある男女が集まっている。その中の一人に眼をとめて、わたしはこっそりと息を飲んだ。

 ほとんど無意識に、普段は着けることを忘れっぱなしなネックレスのトップに触れる。黒いワンピースに赤いネックレスだから、不自然ではないはずだけれど。

「ゆきー、あんたのダンナ呼んどいたよ! 教えてあったよね?」

「うん、聞いてたよ」

 余計なことをと言えば良いのか、よくぞ誘ってくれたと言えば良いのか。距離感が判らなくて、中途半端な位置で足が止まる。

 立ち止まったわたしにわざとらしく爽やかに手を上げて、川瀬亮は笑った。

「よう、この前ぶり」




「………」

 き、気まずい。

 飲み会で、わたしと亮は当然のように隣同士にされた。『元夫婦』の認識はこんなところでも有効らしい。

 隣に座る亮に、わたしはどうにも居心地の悪さを感じていた。この前二人で会ったときにはそんなもの感じなかったのに。

 といっても、居心地が悪いと思っているのは自分だけのようだ。亮はわたしの隣で普段と変わらない様子で元同級生と話し、ときおりこちらに話題を振ってくる。

 前に会ったときは、向かい合って座っていた。だから彼と同じテーブルに着くことを気にもしなかったのだけれど。

 今回は隣にいるせいで、身じろぎするとときおりわたしの右腕と亮の左腕が触れる。本当に勘弁して欲しい。気付かれない程度に亮から体を離した。

 亮と隣同士に座ることがこんなにも落ち着かないことだとは。

「ゆきー、聞いてる?」

「あぁ、うん、聞いてる聞いてる」

 女友達の声かけにおざなりに頷いて、ジンジャーエールを喉に流し込む。味はろくにしなかったけれど、炭酸が喉を通り過ぎたのは辛うじて認識できた。

「そういえばさー、夫婦はどうなの、最近会ってんの?」

「あー、」

 横合いからの問いに答えかけて、言葉を止める。迷って、ちらりと亮を盗み見た。

 亮はといえば、わたしなら一発で救急車を呼ぶハメになるようなお酒をこともなげに飲み干しながら顔色の一つも変わらない。変わらない顔色で、常と変わらない表情で、何でもないように。

「この前会ったなー、奢って貰おうと思って」

 奢ってくれなかったけどなー、けちー。冗談混じりの言葉に、周りは一斉に湧いた。彼らときたら、中学の頃からこれっぽっちも成長できていないらしい。

「奢るわけないでしょ! こんな可愛い子とデート出来て、むしろわたしが奢られる側じゃない?」

 準備していた言葉を口にして、わたしはからりと笑った。わたしの声に合わせるように周囲も笑う。

「えー、でもよー」

 言い出したのは、誰だったか。

「それって浮気じゃね? 川瀬お前、彼女とラブラブじゃんー」

 からかうような言葉に、わたしは一瞬、息が詰まった。

「バーカ、こいつと会って浮気になるかよ」

 笑いながら亮が返す。当たり前だ、わたしたちの間には何もないんだから。

 咄嗟に崩れそうになった笑顔を立て直す。大丈夫、崩れてない。思い込んでいなければ、周りを見られなくなりそうだ。

 ジンジャーエールに伸ばした手が震えていることに気付いて、わたしは勢いよくグラスを引き寄せた。

「あったりまえじゃん、わたしと亮だよー? ってか彼女いるとか教えてくれても良いじゃん、オメデトー! はいカンパーイ!」

 乾杯、とグラスを持ち上げれば、周囲も合わせてグラスをぶつけてくる。いつも理解出来ない飲み会のノリだけれど、こういうときは便利だ。

 意識していつも通りに振る舞った。そうしなければ本当に、何かが崩れてしまいそうだ。

 うつむいて、周りの視線を遮断して、そのまま逃げ出してしまいそうだ。

「あ、終わっちゃった。わたしも何か飲もうかなー」

 飲み干したグラスを置いて、メニューに眼を通す。並んだ写真の一つに興味を惹かれて、わたしは迷わずその名前を注文した。

 わたしの天使のような友人がたまに頼むから覚えていた。はちみつのようにとろりとした色に、杏の実が沈んでいる。


 アプリコット・フィズ。


***


 ――全く、『夫婦』設定はどこまで有効なのだか。


「じゃあ川瀬、悪いけどゆきよろしく!」

「送り狼になるなよー」

「バーカ、なるわけあるかっ」

 友人たちの声が、ふらふらするわたしの意識を上滑りしていく。お酒なんて本当の本当に飲まないから、酔っ払ったのなんていつぶりだろう……。

 足取りは怪しいし、正直さっきから軽い吐き気にも襲われている。これ以上なにか口にしたら間違いなくやらかしそうだ。

 考えなしに頼んだお酒一杯でこれだけ酔うのだから、お金はかからなくて良いかもしれないけれど。

 あぁ、眠い。

 眠い――。

「眠い……」

「ちょ、っと待てバカ! 座るな座ったらお前もう立てないだろ!」

 座り込もうとしたわたしの腕がぐいと掴まれて、引き上げられる。間違いなくわたしが座り込むのを邪魔するための動きに、いらっ、とする。

 別に良いじゃん、もう立てなくて。誰だわたしの邪魔をするやつは――。

 ぐらぐらする頭をどうにか上げたわたしの視界に、わたしが今日お酒を飲む理由になったやつが飛び込んでくる。びっくりして心臓が止まるかと思った。

「りょ、う……?」

「あーはいはい、ちょっと待ってろ。座るなよ、いいから座るなよ!?」

 なんだそれ、フリかな。

 考えながらどうにか壁に寄りかかって落ち着こうとしていると、わたしを置き去りにしてどこかに消えた亮はすぐに戻ってきた。手にはペットボトルが握られていて、ミネラルウォーターを買いに行ったのだ、とすぐに判った。

「ほれ、飲め」

「……え、わたし……?」

「いや、お前に買ってきたんだよ。この状況で俺が飲むとかどんな鬼畜野郎だ、俺は!」

 言いながらぐいぐいとペットボトルを手に押しつけてくる。食べものどころか水を飲んだだけでもやらかしそうだってのに、やっぱりこいつは鬼畜だ。

 絶対無理、と思っていたけれど、体は水分を欲していたらしい。口をつけた途端、わたしは一気に半分ほど飲み干した。吐き気はまだなくならないけれど、ほんのちょっと頭がすっきりする。

 そこでようやく、わたしは現状を把握することを思い出した。周りを見回せば飲み会をしていたお店からそう離れていない通りで、近くには亮しかいない。

「え、亮……? なんでいるの? みんなは?」

「二次会だと」

 まずは一番最後の問いに答えてから、ひょいと肩を竦めて。

「俺とお前は置き去りだよ。酔っ払った嫁の面倒を見ろだと」

「それは、また――」

 頭を抱える。ずきずきする。

 友人たちにわたしを押しつけられたのだ、となんとか理解した。『夫婦』関係はこんなところまで影響するらしい。なんてことだ。

「すまん、ご迷惑を」

「いや、別に? 呼ばれたから顔出したけど、話したいやつがいるわけでもないしな」

「……あっそ」

 あっさりとした答えに、ひっそりと嘆息する。

 知っている、と思った。こいつのこういうところは知っている。

 付き合いが悪いわけではないし嫌われているわけでもないけれど、普段から連んでいるやつは少ないし、淡泊。誰かと一緒にいるときも、ひとりでいるときも変わらずに飄々としている。

 人嫌いなのではなく、自分の興味がないことに対しては本当にとことん興味がない性格なのだ。そしてたぶんその『興味がない』には、わたしも入っている――わたしが突然返信をしなくなったって、亮は大して気にもしないだろう。

 そういうところは変わらないのだな、と思った。そのくせ、昔なら考えられないような気遣いを見せたりする。

 たったいま、水を買ってきてくれたみたいに。

「……ほんと、腹立つ」


 ほんと、腹立つ。

 再び縁が出来たことに柄にもなく浮かれて、積極的に連絡を取って、さりげないフリで必死に約束を取りつけようとしたりして。

 今日だってわざわざいったん家に帰ってまでオシャレして、慣れないメイクもして、亮がいるからって、バカみたいに。


 知らない間に背なんか伸ばしちゃって、一丁前に就職して、大人の男みたいな顔をして。

 そのくせ、昔と変わらないノリでバカな話に付き合って。

 っていうか彼女なんていつ出来たんだ、せめて教えろよ!


 本当に、バカみたいじゃない?


「お前、本当に大丈夫か? 歩けるかよ」

「あー、平気だよ」

 言いながら、並んで歩き出す。ふらふらしているけれど、なんとか歩ける。

 明らかな酔っ払いのこちらを亮が気にしているのは判るけれど、亮はわたしに手を貸さないしわたしは亮の手を借りない。わたしたちは、そういう関係じゃない。

 だって、そういう感情じゃない。

 誰が、あんたを、好きだって?

 あんたに恋なんかしてやるかっての!

 昔は変わらなかった身長。いつの間にか勝手に成長して、わたしのことなんて思い返したことがあったかも怪しい。

 ひとりでずっと先を行っているみたいに、

 あの頃からちっとも変われないわたしは置き去りのまま。

「あーあー、阿呆らしっ」

 言ってわたしは、道の縁石に乗り上げた。車道と歩道を分けているアレだ。子どもの頃、こうやって縁石の上を歩くのが好きだった。

「うわっ、バカお前っ」

 どうでもいいけどこいつ何回わたしのことをバカ呼ばわりすれば気が済むんだろう。いい加減失礼じゃない?

 横を見れば、同じ目線に亮の頭があった。縁石の分、わたしが高くなっているからだ。

 中学の頃と同じ目線、同じ距離感。

 キスでもしてやろうかと思った。こいつはどんな顔をするんだろう。

 考えて、けれどどうにも臆病で意気地なしなわたしは、どうせそんなこと出来ない。

「ねえ、亮。彼女さん可愛いのん?」

 わたしの問いかけに、亮はちょっと面食らった顔をした。わたしの方に向けていた顔をついと背けて、鼻を鳴らす。

「そんなん、言うまでもねーわ。かわいーわ」

「大好きなの?」

「おー、大好き」

「ふーん……」

 わたしは立ち止まった。

 ふふ、と笑った。きっといま、わたしは酷い顔をしているんだろう。

 わたしがついてきていないことに気付いた亮が振り返って、わたしを見て、ぎょっとした顔をする。亮の間抜けな顔がすぐに滲んで、わたしは自分が泣いていることに気付いた。

「お、おおお前どうしたよ!?」

「うっせー、眼に砂が入った」

 言いながら足を踏み出せば、予想した場所に足場がなくてひやりとした。縁石から踏み外したのだ、と理解したときには遅い。

 落ちる、と思ったときには、わたしの体は亮に支えられていた。ぐいと腕を乱暴に掴まれて、地面に下ろされる。

「バカか! あぶねーだろこの酔っ払い!」

 今日一番の怒声だった。腕を掴む亮の力は強くて、彼の手は少しだけ震えていた。心配させてしまったらしい。

「……ごめーん」

 さすがに反省して謝ると、ぶちぶち言いながらわたしの腕を引いて歩き出す。腕を引くっていうか、これもう連行じゃない? 女扱いっていうより犯人扱いじゃない?

 自分の考えがおかしくて、くすくすと笑い出す。亮はもう相手をしないことに決めたのか、こちらに視線すらくれなかった。

 あーあ、また離れちゃったなあ。

 同じ目線になったら、あの頃にちょっとでも近づくかと思ったのに。

 ちょっとだけでも、一瞬だけでも。

「ねえ、亮ー」

 呼んでも、亮は振り返らない。それでも構わなかった。そちらの方が都合が良かった。

 ずっとずっと、

「わたしの方が好きだったんだよ、ずっと」

 その可愛くて大好きな彼女さんよりも、ずっと前から。

 小さく、ほんの小さく口の中で呟いた告白が亮に届いたかは興味がなかった。振り返った亮が、わたしを見て首を傾げる。

「ゆき、いま何か言ったか?」

「……別にー」

「あっそ。ならいい」

 ほら、全く聞こえてもいませんなんて顔をして。

 とてもさりげない動きでわたしの腕から手を離す、ずるいやつ。

 そのくせゆっくりと歩くわたしに文句も言わずに歩調を合わせてくる、ひどいやつ。


 知ってた? 亮。わたし、あんたを好きだったんだって。今の今まで、考えたこともなかったけれど。

 考える必要もないくらい、当たり前のことだったみたいなのだけれど。

 何もかも、遅すぎたみたいなのだけれど。


 横を歩く男をちらりと見上げた。昔はわたしと並ぶくらいチビだったのに、今となってはわたしが見上げなくちゃいけない。

 わたしと亮を隔てた15センチが悲しくて、わたしは彼に気付かれないように、こりずに溢れてきた涙を拭った。


 中学の頃、亮に一番近い場所にいたのはわたしだった。男子は判らないけれど、少なくとも女子の中では、間違いなく。

 その場所は今では顔も知らない誰かに取られてしまって、亮の視線の先には知らないひとがいる。こんな形でしか気持ちを伝えられなかったわたしは、その場所に行くことなんてもうできない。


 もう二度と埋まらない、この身長差みたいに。

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誰があんたを好きだって? 伽藍 @garanran @garanran

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