性欲
第13話 9月16日 03時16分 曇り
目が覚めたが、真っ暗でなにも見えなかった。昨日は、たしか21時に寝た。あまりにも早すぎたんだろう。日の出より先に目が覚めた。だから、というわけでもないが、起きてすることを前倒しで始めることにした。2度寝をするのもいいのだが、たまにはそうしない日があってもいいじゃないか。
自室の洗面所で顔を洗い、歯を磨き、鏡の中の自分を眺めてみる。そこには、恐ろしく身勝手な不平不満を溜め込んで、何年も世界を逆恨みし続けたあげく、決して勝てない戦いに疲れ果てた、空虚な目をした男が映っている。空虚。何もないこと。また、そのさま。それが僕、
「17歳の高校生なら、それだけで十分じゃないか」
僕は、そう呟きながら目蓋を閉じる。すぐさま、パッと開き直す。それから、また閉じて、今度は右目だけ、次に左目だけといった具合に、片目だけ開けてみる。3回か、4回ぐらい、それと同じことを繰り返す。遊びでやっているわけじゃない。これは、一種の視力検査だ。
間違いなく僕の左目の視力は低下していた。視界が狭くなり、見るもの全てがぼやけている。左目だけを使って自分の手を眺めてみると、指と指の境界線がうまく判別できない。手首から上が、一つの物体と化していて、小さめの団扇か何かのように見えていた。右目も使って、両目で見れば、それが団扇じゃなくて手だと分かる。僕は医療の専門家ではないが、これは多分、正常な状態ではない。
僕の左目が、こうなった原因を簡潔に説明すると、同級生に監禁され、顔面に蹴りを入れられたからだ。強い衝撃を与えればモノは壊れる。当然のことだ。しかし、僕が迅速に適切な治療を受けていれば、ここまで酷いことにはならなかったかも知れない。暴行を受けた時、僕の顔面は、赤い風船のように肥大化していた。だが、僕は病院になど行かなかった。顔の腫れを氷水で冷やし、患部を包帯でグルグル巻きにしたぐらいで、それ以上のことは何もしなかったし、させなかった。
あの時から、目にダメージがあることは分かっていた。この国には保険制度があるので、怪我をしたら医者に行くのが自然な流れだろう。だが、僕はそうせずに、ケガを放置することにした。そんな理屈に合わない奇妙な行動をとったのは、僕が西洋医学に不信感を抱えていたから、というわけではもちろんなくて、単に医者に見せるのが億劫だったからだ。あと、そのついで程度に、もしかすると目が見えなくなるかもしれないな、という予感が脳のすみっこに生まれていたからだと思う。
視力を失うというのは、大変なこととされている。実際、全盲になったら大変なんだろう。だが、それはそれで面白そうじゃないか。僕は、他人の不幸に関心は持てない。だって、心底どうでもいいからね。 しかし、どんなに人の心が欠如していても、自分の悲劇になら酔えるかもしれないだろう。それはつまり、シェイクスピアごっこができるかもしれないってことだ。この世は舞台、人類はみな役者だ。ジュリエット、別な男を探せ。
まあ、その結果、左目の視力が著しく悪化したという事実に直面し、僕がどう感じたか、どんな感想を抱いたか、それを文字に起こし、言葉に変え、口に出してみよう。
「何の問題も無い。何も変わらない。何も気にすることはない」
鏡に映る醜い顔と、愚かな心の中を覗き込みながら、詩人ぶるのはやめにした。勢いよく洗面所を出て、安っぽいが丈夫そうな木製の学習机の上に座り込み、窓の外の風景をじっと睨みつける。まだ暗くて何も見えないが、たとえ明るくなっても、この部屋から見えるものは山しかない。ここは東西南北、四方八方、前後左右を山に囲まれたド田舎に存在する全寮制の中高一貫校、私立安居学園だ。花や蝶は舞ってくれないし、良家の子女も存在しない。生徒も教師も関係者は例外なく、全員がろくでなしで、まともな人間など見当たらない。いいところじゃないし、子供の教育に適しているとは言えないが、世間の目も届かないから、子供を捨てるには都合がいい。そんなところだ。
僕の父は再婚して、僕が邪魔になったので、ここに僕を捨てた。オマケとして親子の縁を切るためと思わしき、手切れ金の1000万(推定)もついて来たが、今のところは使い道が見つからない。ついでに言えば、こんなものを抱えてどうやって生きていけばいいんだか、僕にはさっぱり分からない。
まじめな話、この学校を卒業した後は、どうしたらいいのだろう。進学?就職?バカをいうな。僕に、将来の夢だとか、人生の目標など存在するわけもない。やりたいことはない。しかし、その逆、何をしたくないかってことは、はっきり分かってる。周囲の環境に順応して、真っ当な人間になること、まじめな学生、善良な社会人、思いやりのある夫、立派な父親、好々爺、そんなものには絶対になれない。窓の外に太陽は見えない。そして、この人生を照らす光はない。また詩人みたいなことを言いやがって、お前は何がやりたいんだ。心のインターネット回線を経由して、もう一度、いや、二度、三度と自分に問い合わせてみても、頭に浮かんでくるのは、他人の人生を引っ掻き回してやりたいとか、人の苦労や努力を無駄にしてやりたいとか、とにかく足を引っ張ってやりたい、とかいう感じの見事なまでの邪念ばかりだ。それが僕らしく生きるということなのだろうか。そんなこと僕に分かるわけもないが、勝手にすればいいじゃないか。僕がどうなろうが、僕の知ったことか。
まぁ、待て。ステイだ。お猿さん。考え方を少し変えよう。やりたいことではなく、僕に何ができるのかを考えてみよう。この世界を地獄に変えること、社会を破壊すること、人類を絶滅させること、そんな偉業を達成するのは不可能だ。僕にそんな才能はない。しかし、だがしかし、八王子生まれの何の才能もないTVタレントのように、人の気分を逆撫でし、不快にさせるくらいだったら、ゴミくずの僕にもできるはずだ。当座のところは、そんなことで満足しているフリをして、お茶を濁しつつ、寿命が尽きるのを待てばいい。
それはそれとして、やはり2度寝はしておこう。今日の予定はもうないからね。
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