第12話 8月16日 13時14分 曇り
左目は、かなり腫れあがっているようだ。目蓋がまったく開けられない。
少年は延々と謝罪の言葉を繰り返していたが、僕は素っ気ない返事しかしなかった。同じことを何度も言われるのが煩わしい。
「そんなことはどうでもいいよ。それより、中庭に行かないか?」
僕の突飛な提案に対して、少年は、悲しみと嫌悪を混ぜ合わせたような表情を見せた。僕は、返答を待たず、中庭へと歩きだした。保険室に行けよ。少年が、そう叫んでいたが、無視した。物事の優先順位はわきまえている。左目が失明しようが、感染症を起こそうが、そんなことはどうでもいいのだ。人生は短い。急がなきゃいけない。
僕の進路を塞ぐ人間を突き飛ばしながら、廊下を小走りで進んだ。何人かの生徒や、警備隊のゴリラ共が僕を見て、大声で騒ぎだす。足を止めずに、窓ガラスに映る自分の顔面を眺めてみた。左目から額の辺りまでが真っ赤に腫れあがり、血が滲んでいる。角度を変えてみると、赤いキノコか何かが、顔に生えているようにも見える。こんな顔で走っていたら、どうやったって目立つだろう。だからと言って、顔を隠すつもりもなかった。逆に、堂々と胸を張り、誇らしい気分で廊下を行進する。ギャラリーは、続々と集まり、僕の後ろに付いて来るので、まるで独裁国家の軍事パレードのようだった。
僕に群がるやじ馬たちを吹っ飛ばしつつ、笹川が僕の傍へと割り込んで来た。この大きな体に優しい心を搭載した殺人兵器は、今にも泣き出しそうな表情で、僕に濡れタオルを差し出していた。なんという忠臣ぶりだろうか。だが、僕は鼻で笑って、笹川の善意を踏みにじっていた。傷口を冷やすことなんかよりも、この酷い顔のまま、中庭に行くことが大事だ。
中庭から、安居達の叫び声が聞こえた。あの間抜けな3人組は腰を抜かし、地べたに尻もちをついていた。どうやら、僕が到着するのと同時に猫の死体を見つけたらしい。しかし、いくら予想していなかったものが発掘されたからとはいえ、連中の反応は大げさな感じがした。猫の死体ごときで、なぜ、そんなに怯えるのか。。
この暴行犯たちへの失望からだろうか、どっと、疲労感が増してきていた。それでもすべきことはあった。貴族が持てる者の義務を果たすように、僕は、僕の責務を、誰からも求められていない、むしろ、やらないで欲しいと懇願されるようなことを、誰一人、幸福にせず、嫌な気分にさせるような、余計なことを、全力で遂行しなければいけないのだ。
僕は、重くなっていく体に鞭を振るって、安居達を指さし、声を上げて嘲笑した。この一連の動作は、脳で考えた動作を実行したもので、感情に突き動かされたものではなかった。つまり、下手な演技だ。
「金をよこせって言うからさ、あそこに金が埋めてあるって嘘を教えてやったんだ。実際にあるのは猫の死体なのにね」
そう言って1人で笑い続ける僕を見て、少年と笹川の表情は、凍りついていた。他の連中の様子は見ていないから分からない。多分、2人と同じように、僕の気持ち悪さに驚いているんだろう。精神科医でも何でもない僕の見立てでは、それが正常な感性で、僕がおかしいことに間違いはない。だが、僕は笑い続けるしかなかった。
あそこに埋めてあるのは、猫の死体だけ、というわけではない。猫の死体と一緒に、父から貰った手切れ金の1000万が入ったカバンも放り込んでいた。だから、賭けも2つあった。1つは、猫の死体を見つけた安居が、怒りに任せて僕を殺すこと、もう1つは、連中が父からの手切れ金を見つけてくれること。この2つの内、どちらかでも達成されれば僕の勝ちだ。僕は、勝手にそう決めていた。
僕が殺されれば、もう無様に生きていかずに済む。もしも、あの1000万円、父が僕を捨てたという事実が形を成しているもの、それを安居が見つけて奪い去ってくれれば、僕は父親に捨てられた人間じゃなくて、ただの捻くれた人間として生きていけたかもしれない。
でも、どちらの賭けにも負けた。結局、僕は父に捨てられた子供だった。負け犬の自分を嘲笑い、より惨めな気分へと、追い込んでやりたかった。だが、1人で狂ったように笑ってみても、あまり上手くいかなかった。
それから、数百年のような数時間が経過した。
僕は年老いた保険医の手により、顔面の大半を包帯で覆われる羽目になった。ミイラ男のコスプレのようで面白かったが、笑えたのは最初の三分だけだ。暑苦しいし、うざったくて仕方がない。専門医の診察を受けるようにと言われたが、そうしないことにした。左目が見えなくなってしまっても、それはそれで面白い。
まだ、正式に決まったわけではないが、安居達は退学処分になるらしい。こんな学校を追い出されてどこへ行くのだろう。ゴミはゴミ箱へ、という言葉もあるから、連中にも約束の地はあるんだろう。刑務所とか保健所とか、墓の中とか。まあ、僕が心配することでもないね。
掘り返された猫の遺体は、信じられないことに、そのまま放置されていた。この学園には、公衆衛生の概念も、人の心もないらしい。やりたくない仕事は、誰かが勝手にやってくれるとでも思っているのだろうか。汚れ仕事は賤民である僕の義務なので、仕方なく猫を埋め直していると、どこからともなく少年がやって来て(多分、僕を付け回していたんだと思う)、無言で僕の手からスコップを奪い取った。どうやら作業を代わってくれるらしい。
失業した僕は、やることもないので、少年に適当な質問をしてみることにした。生まれとか、育ちとか、何故この学校に来たのか、とか。ありきたりで、退屈な僕の質問に対し、少年は簡潔に回答してくれたが、質問と同じように面白い話ではなかった。
少年の両親は不仲で、自分達である子供にすら敵意をもっており、彼が自分達と同じ家にいることが気に入らなかった。だから、そのまま追い出して、この学校に入れた。それだけの話だ。少年がそう言って簡単な説明を終えてしまうと、沈黙を埋めるように、今度は僕が身の上話を始めていた。肉親が父しかいなかったこと。その父に再婚相手が出来て、家から追い出されたこと、そんなことを話した。こちらも、それだけの話だ。大したことではなく、よくあることだ。
「そうか。お前には家族がいないんだな」
「君も同じだろ」
話しているうちに、僕らはお互いの名前を知らないという事に気が付いた。今更、自己紹介するのも変な気がしたが、少年が照れくさそうな顔をして、なかなか切り出そうとしないので、僕の方から言うことにした。
「僕は有馬だよ。
「オレは
黒山恭児はそう言って、赤くなった顔を隠すように下を向いた。
恥ずかしがり屋の少年をからかっても良かったが、僕はそんな事よりも、安居達に切られた髪型の方が気になっていた。まるで座敷童のようなおかっぱ頭で、華奢で小柄な黒山にはよく似合っている。
右目でじっと見ていると、なくすには惜しい。そんな変な気分になった。
「そういえば、その髪型はどうするの?」
「どうするもこうするも切るしかないだろ」
「ダメだ。そのままにしてろ」
「分かったよ」
僕の命令に黒山はあっさり従った。僕をこんな顔にした罪悪感からそうしているのか、それとも別な考えがあるのかは分からない。とりあえず、僕は黒山に笑いかけることにした。顔面を覆う包帯のせいで、いくら笑っても見えるわけはないのだが、雰囲気は何となく伝わるだろう。伝わらなかったとしても、別にいい。
「しかし、暑いな」
そう言いながら僕は空を見た。厚い雲から顔を出した太陽が、ひどく忌々しかった。
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