第7話 6月10日 13時17分 晴れ



  僕はタバコを仕入れて、中庭に来ていた。だが、あの少年の姿は見つからない。


 僕らは、会うという約束をしたわけではなく、僕が一方的に「明日もここにいるよ」と言っただけなのだから、彼がここに来なくても、それは彼の自由だし、仕方のないことだ。しかし、まだ来ないと決まったわけでもない。あまり多くは期待はできないが、今日は天気もいいし、僕に予定なんか存在しないのだから、ベンチにもたれかかりつつ、脳への電力供給を停止し、のんびり空でも眺めていればいいさ。

 僕は、そんな風に考えていたのだが、この中庭のベンチは人を引き寄せる魔法のベンチらしく、僕への訪問客はすぐにやって来た。しかしながら、それとも予想通りというべきか、現れたのは招かれざる客だ。

 そこにいたのは、例の少年ではなくて、以前、僕に絡んできたクラスメイトの男だった。前にも言ったが、この男は秋田君ではない。名前が分からないのは不便だが、別に知りたくもない。よって今後は学園名から拝借して、安居と呼ぶことにしよう。

 

 「なあ、お前さ。タバコ持ってるんだって?」

 

 安居(仮)の言い方は馴れ馴れしかったし、僕にたかろうとしているのは明白だったが、それほど不愉快では無かった。教室で話しかけられた時は、僕は異常に腹を立てていたが、今になって考えてみると、それほど怒るようなことでもない。ああなったのは、あの時の会話に父のことを絡めてしまったからだろうし、それをしたのは僕の方なのだから、この男、安居のせいではないだろう。

 悪いことをしたな。そう思った時は、もう遅かった。

 突然、爆発音のような大きな音がして、僕は反射的に身をすくめていた。何が起きたのか分からない。何か巨大な物体が飛んできて、それが安居にぶつかり、安居が跳ね飛ばされたように見えた。

 僕の壊死した脳みそが、この事態を把握したのは、それから数秒経ってからだ。笹川将太が殴りつけるようなタックルをかまし、安居を数メートル先まで吹き飛ばしていたのだ。

 確かに、僕は笹川に安居を殴れと頼んだ。アイツが僕に話しかけたら、アイツが僕を脅していることにする。そして、脅されている僕を守るため笹川が安居のことを一発、ゴンっと殴って終わらせる。僕は、その程度のことしか考えていなかったし、そうとしか伝えてない。

 だが、サービスなのか、それとも趣味なのか、サディストの笹川は僕が頼んだ以上のことをした。大の字に倒れた安居のみぞおちを蹴りつけ、痛みに悶えている安居の服の襟首をつかみ、中庭を周回するように引きずり回す。土埃が舞い、聞き苦しい悲鳴があがった。

 抵抗の無意味さを悟った安居は、両手を使って頭を覆い隠し、頭部だけは守ろうとしていた。しかし、笹川はそれを許さない。安居の手を踏んづけながら、無理矢理に頭部から手を引き離し、左右の頬への平手打ちを開始する。リズミカル、というよりは単調な肉ドラムの音が青空の下に響き渡る。実にのどかだ。

 その後も平手打ちは休むことなく、永久機関のように続けられた。安居はキリストの教えを超越し、右の頬を打たれたら、左の頬を差し出さずとも殴られ続けている。そろそろ生命の危機が近づいている気もするが、なにも心配することはない。例えここで死んだって、3日後には復活するさ。何はともあれ、故人の冥福を祝おう。父と子と聖霊の御名によって、アーメン。

 笹川が暴力を振るうのに飽きてしまうと、安居は何処かへ連れ去られていった。あれ以上、痛めつけられないといいんだが。僕は奴の安否を気にしつつ、綺麗さっぱり忘れ去り、ベンチでうたた寝をすることにした。


 結局、この日、少年は中庭に来なかった。


 僕の方は、そのまま中庭に居続けたが、無為に過ごしていたわけでもない。中庭の隅っこに、ガリガリにやせた老猫がうずくまっていたので、それを観察し続けていた。

 猫は全く動こうとしなかった。死んでいるようにも見えたが、腹の辺りが動いているから、おそらく呼吸はしているのだろう。もう体力がないのか、気力がないのか、理由は分からないが、少なくとも元気ではなさそうだ。

 死にかけた猫を見ていても別に楽しくはない。だが、興味深くはある。ついでに死について考える良い機会になる。チャンスというのは無駄にするためにあるものだが、今日の僕は暇すぎて、無駄にするほどの余裕はなかった。だから、僕はチャンスに飛びついた。

 生けるものは必ず死ぬ。そして、僕は天国とか、地獄とか、「あの世」というものを信じていない。だから、死んだ先にあるものは完全なる無だと思っている。この考えに従うと、生きることで強制的に発現する喜怒哀楽、その他諸々の感情の群れ、思考の濁り、脳に張り巡らされていく屈辱や苦痛の根は、死ぬことによって取り払われる事になる。それは、とてもとても良いことだ。じゃあ、なぜ僕が首を吊るなり、高いところから飛び降りるなりして、自殺しないのか? と問われると答えは簡単だ。僕は小難しいことをよく考えるが、根本的に頭が良くない。なので、僕の考えることは8割が間違っている。で、僕の相対性理論が誤りだとすれば、「あの世」が存在しないという常識もグラグラ揺らぎ、もしかすると『あの世が存在するのかもしれない』と、僕の心の中のマイノリティ達が愚かな主張をやめてくれなくなる。それは僕をひどく不安にする。

 あの世なんてものがあったら、僕はどうするのだろう。どうやって、やりすごしていくのだろう。平穏な人生、悲惨な人生、エキサイティングな狂った人生、様々な人生のサンプルが揃っていて、多少は予測が可能な「この世」ですら、うまく生きていけない愚かな僕が、未知の世界である「あの世」でうまくやっていけるのか。無理に決まっている。なら結論は先延ばしにして、この世を生きておいた方がいい。

 自分の事ばかり考えても仕方ないから、他の生徒達についても考えてみた。彼らは、どうして生きているんだろう。何か楽しいことがあるのだろうか。見ること、聞くこと、話すこと、どこら辺が楽しいのだろう。彼らが僕より賢く、人間性に優れているようには見えないから、やはり僕と同じように苦しんでいるのだろうか。いくら考えても僕には全く分からないし、そもそも他の人の考えなんて、僕は理解したくもないのだ。つまり、この思考実験はゴールを目指すこともなく、ただ東へ西へ、デタラメに走り続けているようなもので、単純に言うと時間の無駄に過ぎない。やっぱり、他の人のことを考えるのはやめよう。どんなに客観的になろうとしても、僕は僕にしかなれないのだから。


 いつの間にか夜になっていた。笹川にボーナスを出してやりたかったが、巡回に来た警備員は、笹川ではなかった。人生というのは、思ったようになってはくれない。


「何時だと思っているんだ。早く寮に戻れ」


 男の言い方が気に障ったので1万円を投げ捨てた。男は無言で金を拾い、その場を立ち去る。不快感は消えて、闇の静寂だけが残った。

 僕は暗闇の中、無心になって待ち続けた。しかし、笹川の奴は来ない。僕は月に一瞥し、クソめと無意味な悪態をついて、部屋に戻ることにした。

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