第6話 6月9日 18時14分 曇り
この学園の中庭は、庭と呼べるようなものではなかった。
中庭は建物と建物の間に存在する空間だから、大抵の場合、そんなに大きなものではない。しかし、この学園の中庭に関しては、もはやグラウンドと呼んだ方が適切なぐらいに面積が広かった。だが、ここには花壇も、噴水もない。伸び放題の雑草と、デタラメに配置されたベンチがあるだけだ。
で、その中庭には誰もいなかった。昼間なら、ここに自分が馬鹿であることを証明するため、人前でタバコを吸ったり、酒を飲んでいるバカな生徒達が数人いる。彼らは、実に平凡で退屈な悪事をする。
悪事と言っても、ゆすり、たかり、恐喝、暴力行為、等々をすると、正義の味方である警備隊のゴリラ達に殴られる恐れがあるため、大したことはできない。例えば、太っている人にデブと罵声を浴びせたりするとか、女子生徒に卑猥な単語を聞かせたりするとか、だいたいそんな程度だ。
僕の場合、身体的特徴が全くないので、連中にからかわれる要素が全くなかった。それでも、何も言われなかったわけでもない。
ある日の授業中、僕の隣の席にいた頭の悪い男(補足すると秋田君ではない)が僕に絡んできた。
「ようボンボン」
「それは僕の事か?僕は別に金持ちじゃないよ」
「だってお前、先公とかと同じ所に住んでるだろ?」
「金を持ってるのは僕の父だ。僕じゃない」
「お前、何言ってんのか分かんねえな。結局は同じことだろうが」
それは、まるで父と僕が同じ穴のムジナであるかのような発言だった。本当に、まことに、実に、不愉快である。類人猿とチンパンジーのハーフのクソ野郎、とっとと動物園に帰りやがれ、と言わざるをえない。
その話は置いておくとして、中庭で知り合いを探すには、もう時間が遅すぎたようだ。この時間帯だと、大体の生徒達は晩飯を食っている。一応、規則では、19時ぐらいまでに夕食を食べないといけない、ということになっているので、誰もいなくて当たり前だ。僕は自分自身に突っ込みを入れつつ、適当に時間でもつぶそうとベンチに座った。
背の低い、華奢な体つきの少年に声をかけられたのは、ベンチに腰かけてすぐだった。暗くて顔が見えづらいせいかもしれないが、僕には全く見覚えがない。
その少年は、僕を強く睨みつけていたのだが、体格がよくないので威圧感は全くなかった。こんな子を怖いと思えるほど、僕は臆病ではない。逆に、「怖いよー、おしっこチビリそうだよー」と悲鳴を上げて、おちょくってやろうか? という、馬鹿な誘惑が僕の頭に浮かぶ。
「オレだよ。この学校に来るとき、バスで見ただろ」
「ああ、覚えてるよ」
完全に忘れていたが、僕は平然と嘘をついた。確かに、バスの中でゴリラ達にボコられていた少年だ。座りなよと言ってみたが、僕の提案を少年は無視した。
「お前タバコ買ってたろ」
「そうだよ。いる?」
少年は脅すような口調でそう言ってきたので、僕は少年と態度が対照的になるように、穏やかに笑って答えた。少年は半信半疑の表情を浮かべたが、僕は嘘はつかない。もちろん嘘だ。僕は嘘ばかりついている。おかげで何が本音なのか、僕にすら分からないぐらいだ。
「どうぞ」と言いながらタバコを差し出すと、少年はタバコを僕の手からひったくり、自分のズボンのポケットへと突っ込んだ。
「それが欲しいならまた買ってくるよ」
僕がそう言うと、少年は明らかに困惑の表情を浮かべた。まったく理解できないもの、完全に頭がおかしい奴、そういう輩を見る目を僕に向けている。恐怖感も混じっているのかもしれない。
少年は返事もせずに、僕に背を向けて遠ざかって行った。彼の小さい背中に「明日もここにいるよ」と呼びかけてみたが、悲しいことに反応はなかった。
チャイムが鳴った。何時のチャイムかは分からない。それからしばらくして、生徒たちに寮に戻るように命令する校内放送が流れたが、僕はそれを無視して、雲を見ていることにした。僕は自然に関心はない。だから、目的はもちろん別にある。
雲は流れていく。暗くて見えないが、多分、流れてるんだろう。
目的の男、懐中電灯を片手に持ったゴリラがやって来たのは、それからかなり経ってからだ。何をしている、とっとと寮に帰れ、と怒鳴りつけられるより先に、僕は口火を切った。
「頼みがあるんだが、10万円でどこまでしてくれる?」
巨大な岩のような体をした男は、先ほどの少年以上に動揺していた。どうして並外れた大きな体をしているのに、そんなにも気が小さいのだろう。体格と胆は反比例するのか、それとも僕は怖い顔でもしているのだろうか。口が裂けているわけでも、火傷の跡があるわけでもないのだが。僕は相手の反応を待たず、そのまま話し続けた。
「殴って欲しい奴がいるんだ。理由は僕が作るから、適当な距離を保って監視していてくれ」
金を地面に投げ捨てると、男の目が泳いでいた。迷っているらしいが、とどめの一言がちょっと思い浮かばない。どうしようかな。まあ、適当なことをいうしかないか。
「あなたの名前が聞きたいな」
男の口が動いたが聞き取れない。聞こえないよ、と笑って言うと、また男は怯えた顔をした。何故だろう。どうして僕がそんなに怖いのか? 僕は虎でも、人食い殺人鬼でもない。腕力もないし、頭も良くないのに、怯える要素が僕のどこにあるのだろう。
「さ、笹川将太です」
なんで敬語なのか分からないが、とりあえず僕は笑っておいた。男の目がかっと開く。もはや、キングコング笹川の顔にあるのは、あからさまな恐怖の感情だけだ。
僕はじっと男の顔を見つめる。男が、僕の方を見たまま、震えながら、ゆっくりと金を拾うと、僕は「それでよし」と心の中だけで呟いた。
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