月曜日のイギリス人

那由多

月曜日のイギリス人

 一人暮らしの冷蔵庫は魔窟だ。

 きちんと計算して使えばそんな事にはならないと人は言う。そんなのはまさに机上の空論。計算通りに物事が進むと思ったら大間違いだ。

 そんなに上手くいくなら日本の食料廃棄問題はもう少し小規模なものになっている事だろう。しなびたニンジンの尻尾や、いつのものとも知れぬ乾いたニンニク、そう言えば買ったな、という調味料などはもはや冷蔵庫のアクセサリーと言って差し支えないだろう。冷凍庫という名の凍土には、今も冷凍保存の名のもとに霜が降りて変色しきった鶏肉が眠っているに違いない。

 そんな事はない?

 それは気のせいだ。きっとあるに違いない。あるったらあるんだい。泣くぞ。

 えへん……取り乱した。

 ある、という前提で話をしよう。

 ここで、例えば冷蔵庫迷宮化論というものを打ち立ててみる。

 これは、閉まっている状態の冷蔵庫内は複雑に迷宮化し、食材たちは常にその迷宮をめぐらされる哀れな冒険者であるという論だ。我々が冷蔵庫を開けると、庫内は瞬時に元に戻るが、その際にいくつかの食材は迷宮化した次元ポケットに取り残されるわけだ。すると、食材は一時的に我々の目から消えてしまう。だが、何度も迷宮化と復元を繰り返すうちに、消えた食材はひっょこりと目の前に戻ってくる。結果、こんなのあったっけ、となるわけだ。

 この論の素晴らしいところは、従来無実であると信じられてきた冷蔵庫に、その罪の一端を担わせることができるという所にある。これによってほんの少し、人は罪悪感という名の重りを軽くすることができるかもしれないのだ。

 もっとも、それで我々が無実になるではなく、そう言った犠牲者……犠牲物を減らすための努力というのはするべきである。

 そういう点で、俺はきちんと努力をしている。あるイギリス人が言っていた。月曜日には先週の残った食材を使い切るんだ、と。

 日曜だったかも。

 まあ、どっちでも良い。つまり、大切なのは一週間単位で帳尻合わせをするって事。なるほど、これは素晴らしいやり方だ。しかし、雑多な食材を効果的に使いきるにはどうするべきか。生憎、俺はイギリス人ほどの調理スキルが無い。例えばチョコレートケーキにビーツを混ぜるような発想は持ち合わせていないのだ。

 俺のような凡夫に取れる手段は何か。考えた結果、一つの答えに行き当たった。

 冷蔵庫の中身を一度リセットするためのごった煮スープを月曜日に作る。

 美味いか不味いか、それは残っている食材で決まる。博打性の高いこの料理は俺のお気に入りになっていた。筆舌に尽くしがたい不味さの事もあれば、なかなかうまくできることもある。それが実に楽しい。

 俺はこのスープを「月曜日のイギリス人」と名付けた。二度と同じスープはできないが、いちいち名前を考えるのも面倒くさい。こうして一括りに名付けておけば、考える必要もないというわけだ。

 ちなみに、今日のスープは乾いたハム、しなびたシイタケ、何か忘れていたおつまみの貝柱、ニンジン、キャベツ、昆布の切れ端、となかなかに豪勢だ。ローズマリーとセージとタイム、それにショウガとニンニクと黒コショウも少々。基本の味付けは塩だが、味に深みを出すために少量のケチャップとウスターソースも投入。ふわんと立ち上る香りは、今日のスープが良い出来であることを示していた。後はもう少し煮込めば完成だ。鍋の火を弱め、しばし鍋を眺めることにする。


 ふと、玄関のチャイムが鳴った。時計は午後七時を過ぎたところ。

 来客の予定はない。宅配便の予定もない。さて、誰だろうか。

 インターフォンを一応つないでみる。

「どなた?」

「は、私、藤村と申します。大手食品で営業をしている物でして……」

 大手食品と言えばだれもが知っている超メジャーな食品会社だ。そんな人が何でうちに。

「何の御用ですか? 押し売りでしたらお断りですけど」

「そういうものではございません。ただ、道を歩いているとあまりにもいい香りがしたものですから。食品メーカーのものとして、どうしても正体を確かめずにはおれませんでして……」

 うちのスープの香りがどうやら表に溢れだしているらしい。何という威力だろうか。ていうか、月曜から大変だな営業の人は。

「ちょっと待ってくださいね」

 いい香りと言われて嫌な気はしない。俺は気を良くしてドアを開けた。

「あああ、し、失礼します」

 俺を押しのけんばかりの勢いで玄関に踏み込んできた藤村君は、立ち止まるなり大きな深呼吸をした。

「はぁぁぁ……。素敵な香りだなぁ」

 えええ、そんなに?

 ただの冷蔵庫内一掃ありあわせスープなのに?

 ひょっとして、俺はとんでもないものを作り出してしまったんだろうか……。

「すみません。ほんとに図々しいお願いなんですが」

「は?」

「それ、食べさせてもらえませんか?」

「はぁ?」

 思わず大きな声が出た。何言ってんだこの人。

「分かってます。物凄く図々しいお願いだって事は分かってます。でも、お願いします。少しで良いんです。どうしても味を見なけりゃ気がおさまらないんです」

「いや、でも……」

 俺が渋っていると、藤村さんは懐に手を突っ込んだ。拳銃? いやいや、ここは日本だ。そんなわけはない。案の定出てきたのは名刺入れだ。ん? 名刺?

「これ、私の名刺です」

 差し出された名刺を見ると、確かに大手食品と書いてある。営業部の課長さんだ。おいおい、管理職がこんな無茶するのかよ。

「見ての通り、本来は保身に走るべき管理職が、この通り無茶をしてしまっているのは、何もかもあなたの作った物が放つ香しき匂いのなせる業です。何卒、何卒お願いします。この香りの主を食べさせてはいただけませんか」

 ここまで言われて食べさせないのも意固地な気がする。おいそれと振る舞うものでもないが、ここまで言われて固辞するようなものでもないわけで。

「分かりました。どうぞ、上がってください」

「あ、ありがとうございますっ!!」

 泣くなよ。良いおっさんが。手も握らないで欲しい。そういうのは女子でお願いします。

 俺は藤村さんを食卓に座らせ、小さめの器を手に鍋の前に行った。覗き込んでみると、茶色いスープにいい感じで油が浮いて旨そうだ。液体部分だけだと、上質なコンソメにも見えるな……。

 ふと、そんな事を考えた俺は、器にスープだけを注いで藤村さんに出してやった。

「おお、こ、これが……」

 深呼吸する藤村さん。

「間違いない、この香り。スープだったのか……。美しい、琥珀色……。ああ……たまらない」

 なんかうっとりしだした。おっさんなのに。なんて酷い絵面だろう。尋ねて来たのかタイトスカートで黒髪ロングの営業レディだったら良かったのに……。

 作った本人的に、こんなことを言うのもどうかと思う。だが敢えて言おう。

 引くわー。

 ドン引きだわ。

 何なのこいつ、スープマニアの変態? 

 俺がそんな蔑みの目で見ていることなど露ほども知らずスープを見つめたり香りをかいだりしている藤村さん。というか、見ていることを知ったとしても気にしないんじゃないかな。ともかく、彼はなんだかんだで五分ほど味以外を堪能した後、ようやくスプーンを手に取った。

「そ、それでは……いただきます」

「あ、はい。どうぞ」

 はよ食え。

 まるで貴重品でも扱うかのような手つきでスープを掬い取り、ゆっくりと口元に運んでいく。ただの一滴も溢すまいという表れなのかもしれないが敢えてもう一度言おう。

 はよ食え。

 そんな心の叫びもどこ吹く風。藤村さんはゆっくりと俺のスープを口に運んだ。口の中でたっぷりと味わい、うっとりした顔つきのままごくんと飲み干す。

「はぁぁぁぁぁ」

 ため息とも何とも言えぬ声とともに、大きく息を吐いたのは間違いない。

「これは……これは本当に美味しい。美味しさで口からビームが出るならば、今頃このあたり一帯が焼け野原ですよ」

 それは、出なくて本当に良かった。

「これは……大地と海のダシが絶妙に合わさり、甘味、辛味、酸味が混然一体となった素晴らしい味わいです。これほどのスープ、三ツ星ホテルでも味わったことが無い」

 うーそーだーねー。

 こんな適当レシピのスープにそれほどの爆発力があるわけないじゃん。どれどれ?

 うおぉ、マジで美味い。

 自分で作っといてなんだが、こんな美味いスープ初めて食べた。

 こんな得体の知れ無いおっさんに食わすんじゃなかった。大失敗だ。途中で飽きろ。スプーンを置け。

 だが、そんな願いも空しく藤村さんはスープを平らげ、器まで舐めようとしたところで理性が勝ってようやくスプーンを置いた。

「お代わりありますか?」

「無いです」

 あるけど。あれは全部俺のモンだ。

「嘘でしょ。こんなうまいスープ、大量に作らなきゃ、この絡み合う味わいは出せっこない」

 食品会社に勤めているだけの事はあって、なかなかに鋭い。

「ええい、無いもんは無い。さあさあ、帰って下さいよ」

「そんな、こんな美味い物を独り占めですか」

 当たり前だ。うちの材料で俺が作ったんだから、所有権ありまくりだ。

「良いから帰れ」

「じゃあせめて、レシピを売ってください。お金は払いますから」

「そんな物は無いですよ。ありあわせのもので作ったんですから」

「そんな!? これだけのものが偶然の産物? 信じられない」

 実際そうなんだから仕方ない。

「じゃ、じゃあせめて、何が入っているのかだけでも」

「やだね。企業秘密だ」

「じゃあ、その秘密を売ってください」

「断る!!」

「何で?」

 売るような秘密なんてないからだ。企業秘密って言ったところから、全部ノリだしな。

「良い話じゃないですか。あなたが奇跡的に生み出したスープの中身さえ教えてくれれば良いんです。あなたの言い値で買いますよ」

「い、一千万とかでも?」

「ええ。後の儲けを考えれば安いものです」

 売れるのか……。

 一千万円あれば、結構楽に暮らせるし、今の仕事も辞めれるなぁ……。

 でもなぁ。特別な物なんて何も入ってないしなぁ。言うだけ言ってみたら、嘘つけ金返せなんて流れも充分にありうる。

「……わかりました。では、我々があなたを雇いましょう。開発部門スープチームの特別顧問という形でね」

「はい?」

 本日二度目のきょとん。

「あなたはそこでスープの再現に挑んで頂ければいい。どうです? 月給は弾みますよ」

 そう言って彼が提示してくれた金額は、何というか破格だった。

 五分ほど悩み、俺は決めた。そう。転職したのだ。

 このスープを再現する作業は、困難を極めた。ハムの添加物、シイタケやニンジンのしなび具合、貝柱の放置日数、ありとあらゆるデータを取り、様々なパターンを試した結果、俺は味の再現に成功した。研究チームのみんなは涙を流して喜んでくれた。そこから、素材の研究、加熱の時間、調味料の質など研究を進め、味わいを高めていった。もはや月曜日のイギリス人、なんて甘い物じゃなくなった。れっきとした、人様からお金を頂く商品へと、このスープは昇華を果たしたのだ。

 だが、それはただの始まりでしかなかった。

 上層部の交替による、材料費の見直し要請をどうにか乗り切り、品質はそのままにコストを三割減。上層部は喜んでくれたが、それまでに付き合いのあった数多のメーカーに別れを告げるのは、余りに辛すぎる現実だった。

 悲劇はそれだけでは終わらない。信じていたメンバーの一人は産業スパイだったのだ。激しい銃撃戦の末、機密は守られたが仲間の一人は負傷。彼の家族に訴えられた我が社は大打撃を受けた。

 結果、チームは解散。それまでコツコツと大鍋で作り続けていたスープも、材料の品質を大幅に下げ、機械で製造されることに決まった。おかげで大半はリストラ。俺自身は開発チームに残て新たなるヒット商品を開発するよう要請されたが、誰がこんな会社に残るものか。こちらから辞表を叩きつけ、俺は夜の街へと飛び出した。

 俺は荒れた。今まで稼いだ金をばらまくように使い、日夜歓楽街をのし歩いた。やがて帝王と呼ばれ始めた頃、俺の前に一人の女性が現れる。それはかつて開発チームで一緒だった吉崎さん。彼女は俺に平手打ちを喰らわせ、かつての輝きを失った俺をなじった。なじりながら彼女の瞳に光る涙。それですべてを悟った俺は、そっと彼女に口づけをした。

「一緒に街を出よう。どこか遠くへ」

「あなたとならどこまでも」

 ところが一筋縄ではいかない。帝王の凋落を察した連中が、徒党を組んで歓楽街に押し寄せてきたのだ。街を守るため、止める吉崎さんを振り切って、俺は闘いへ身を投じる。

 どうにか平和を取り戻した俺は、ズタボロの身で彼女の元へ戻った。

「二度と私を置いて行かないで」

 散々怒った彼女は、最後に震える声でそう言った。

 その時俺は感じた。添い遂げるのは彼女しかいない、と。

 二人だけの細やかな結婚式。

 そのまま街を後にした俺達は、行方をくらませた。

 そして、三十年の時が流れた。

 静かな田舎町。その一角にある小さなレストラン。初老の夫婦が二人だけで営むその店には、月曜日にだけ出る秘密のメニューがある。

 その名は月曜日のイギリス人……。


 鼻孔をくすぐる香りにふと目を開ける。

 小さな台所のガス台には小さな鍋が乗っかっている。

 中ではスープがコトコトと音を立てながら煮えている。漂う香りはそのスープが煮詰まっていく香りだ。

「そうか、スープ作ってたんだっけ」

 どうやら、鍋の様子を見ているうちに寝入ってしまったらしい。

 随分長い眠りだったような気もするが、スープが焦げ付いてもいないところを見ると、ほんのひと時だったらしい。

 今日の月曜日のイギリス人は傑作の予感。

 それほどまでに良い香りが台所を埋め尽くしていた。

 そろそろ食べ時かな。俺はコンロの火を止めた。

 ふと、玄関のチャイムが鳴った。時計は午後七時を過ぎたところ。

 来客の予定はない。宅配便の予定もない。さて、誰だろうか……。

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