第06話 八王乱 起――洛陽動乱

 魏武ぎぶ曹操そうそうが大々的に整備した町、ぎょう

 船にて黄河こうがを遡ること三日で洛陽らくように辿り着くかの町は、北に幽州ゆうしゅう冀州きしゅうを望み、東には青州せいしゅう、南に豫州よしゅう兗州えんしゅう徐州じょしゅう、更には長江ちょうこうの先、揚州ようしゅうへと、多くの地方に出るに当たっての起点となっております。まさしく、交通の要衝と呼ぶべき町であります。

 故にしん室は、この地に重鎮を配しておりました。司馬倫しばりん――以降は倫司りんしと呼びます。この地を任ぜられるのは、即ち通商、兵権に跨がる大権を握るに等しく、晋室中に於いても倫司の発言力が決して小さからぬものである、と言う証左でありました。

 その倫司に、元海げんかい様は招聘しょうへいを受けておりました。そしてご家族共々この招聘に応じ、鄴へと転居。また元海様を慕う多くの人士が鄴へ集った、との話を聞いております。あのお方であれば容易く人を引きつけるだろう、と深く納得したものです。

 ひるがえって、孤人こじんが居残る洛陽らくよう司馬炎しばえんが病を得て死に、司馬衷しばちゅうが次なる帝として立ちました。先だって述べたとおり、暗愚なる司馬衷は皇太后の一族、楊氏ようし傀儡かいらい。一方で帝に妃を献じ得た賈氏かしにしてみれば、傀儡の付随に過ぎぬ立場など到底受け容れられたものではありません。たちまち宮中にて、楊氏排斥の政変が起こりました。斯くして宮中に賈氏の独裁体制が生じます。

 この件に関し、因果応報、と述べるのも幾分躊躇ためらわれます。そもそも威徳いとく赫赫かくかくたる故に帝は帝足り得るのです。あきらかならぬ帝権に対し、いかほどの権門が洛陽に頭を垂れたままでおれましょう。

君側くんそくかんを断たねばならぬ」

 倫司が、醜態を晒す宮中の奸賊らを討滅せん、なる名目の元立ったのも、当然の帰結である、と申せました。またこの動きに、他の司馬氏一門も呼応します。倫司を首魁とし、軍勢が洛陽入り。賈氏一門の栄華は瞬きにも満たぬものと果てました。

 これにて大団円、世は並べて事もなし、となってくれれば良かったのですが、ご存知の通り、この変事は、更なる大乱の嚆矢こうしにしかなりませんでした。

 室の過ちを反例となし、晋室は宗族に大権を与えました。換言すれば、それは司馬氏内に勢力が分散していた、ともなるのです。

 親、兄弟ですら食み合うが権臣のならい。倫司に呼応した各地の司馬氏とて、内心では尊位そんい虎視眈々こしたんたんと狙っておりました。そしてまた、司馬氏に追従し、天下に名を為さん、と目論む豪族らも加わります。斯くして後の世に八王の乱と呼ばれる内乱が起こるのです。

 賈氏打倒が成るや、倫司は懦弱なる司馬衷に帝たるの資格なし、と帝位を剥奪、自ら次なる帝を名乗りました。これが他の一門に倫司打倒の大義名分を与えました。

 八王、なる名がつくほどです。実際は八ではきかぬ、多くの司馬氏が倫司排除に声を上げました。とは申せど、その全てを拾い上げる必要もありますまい。越司えつし睿司えいし、そして幽州に拠点を築いていた司馬騰しばとう――騰司とうしの三名を上げてしまいさえすれば事足りましょう。特に騰司、及びその配下たる王浚おうしゅん祁弘きこうは、せき并州へいしゅうにとっても看過し得ぬ名でありましょう。

 ともあれ、今は倫司に話を戻しましょう。


「白髪が増えたな、元達げんたつ

 並み居る壮士らの先頭に立ち、きらびやかな甲冑に身を固め。その口許には見事な美髯びぜんを蓄えた元海様ではありましたが、衆人を惹き付ける笑みは変わらず、いえ、寧ろより眩きものとなっておりました。

「此度の御活躍、孤人の耳にも届いております。中でもご子息、劉聡りゅうそう様、劉曜りゅうよう様のお挙げになった武功が際立っておられたとか。龍の子は、やはり龍なのですね」

「宮仕えは君におもねりを教えたか。似合わんぞ」

「まさか。衷心ちゅうしんよりの言葉にございます」

「では、そういうことにしておこうか」

 倫司が動いた、と言うのであれば、無論元海様もそこには従っておりました。この時には既に先主せんしゅ、そして主上しゅじょうも武将として長じておりました。

 ――王を、元海様とお呼びするのです。今この場だけは先主を劉聡様と、主上を劉曜様とお呼びさせて頂きましょう。

 若き日の元海様を彷彿とさせる怜悧れいりさに、覇気を併せ持った劉聡様。対して白き髪、赤い目という、異相以外の何者でもない佇まいの、劉曜様。

 良くも悪くも人目を引かずにおれぬのが、劉曜様のさだめなのでありましょう。この時も、覚えず孤人は不調法にも程がある眼差しを劉曜様に投げていたようでした。

「おい」

 劉曜様の赤き瞳が、孤人を射抜くのです。

「殺されたいようだな、貴様」

 衆人の居並ぶ中にも関わらず、劉曜様は剣をすらりと抜き放ちました。


 義父上の霊廟の前にて、いかほど拝跪はいきしていたことでしょうか。ようやく顔を上げた元海様の額が、いたく赤くなっておりました。どれほど強く、額を床に押し付けておられたのかが窺えます。

「元達。先生は、いかに身罷られた」

「安んじてはおられました。晋に遷らされてより後、仕えるべき主を失い、ならばせめて主の事跡をつまびらかにせん、と記した三國志さんごくし。それが司馬炎の意に適い、他の史家の仕事に大きく優越致しました。痛快つうかいかな、が遺されたお言葉です。近くには司馬炎の意を全うせん、との企図が、やがて千乗の光陰の彼方、漢室の皇統の賞揚に繋がるのだ、と」

「先生らしい」

 涙しつつ、元海様は微笑まれました。

「先生のお言葉は、その全てに罠を疑わねばならなかった。ならばその畢竟ひっきょうの大作は、そのものが大いなる罠、と見做すべきであろう。これは、いつまでも読み解き切れそうにはないな」

 元海様の後背に、欣然きんぜんたる面持ちにて頷く劉聡様。一方では、憮然と塞ぎ込む劉曜様。劉曜様の頬は赤くなっておりました。劉聡様が、唐突に剣を抜いた劉曜様の、その頬を張られたのです。

 劉聡様の怒りようの烈しきこと、却って元海様が止めに入らねばならぬほどでありました。

 倫司の尖兵として軍を率いた元海様は、その精兵らを自在に操り、瞬く間に洛陽を制圧致しました。その戦働き振りは、都の住民に匈奴きょうど兵の苛烈なる強さを刻みつけるに至りました。

 都の住民。そう、孤人が寄食していた陳家にても、この点は全く変わりません。

 都に住まう漢人らに取り、匈奴とは兇暴たる蛮夷ばんい。どう言い繕ってみたところで、孤人は匈奴のすえです。元海様が軍功を上げれば上げるほど、孤人は陳氏の家人よりはばかられるようになりました。

 漢族、匈奴。義父上のごとく、分け隔てなく接して下さる方が寧ろ、まれなのです。元々義父上以外よりさほど歓迎されている訳でもありませんでしたが、劉曜様の振る舞いは、孤人に対する警戒、嫌悪の念をより高めるに至ったよう感じております。


「元達。洛陽も、そろそろ潮時ではないか」

 元海様が、孤人に仰りました。

「と、申しますと――?」

 韜晦とうかいではありませんでした。己が真に欲していた言葉など、そう簡単に気付けるものではありません。欲していた、欲し過ぎていたがために、却って汲み取りきれなかった、と申すべきでありましょう。

「倫司は、越えてはならぬ一線を越えた。この先洛陽は大いに荒れよう。その趨勢を占うは、容易きことではない。が、何れにせよ多くの民が巻き添えとなろう。そこに君も付き合う必要はない」

 民、の一言に重きがなされたのを感じ取るのです。

 天下の安寧。

 過日、元海様が述べられた言葉を思い出しました。元海様の思いは、日に日に踏みにじられているような物でした。

 乱を治めるだけの力を持ち得ず、ならばせめて乱を司り、あたら火の粉を撒き散らさぬよう試みる。後日元海様は、猛毒を呑む思いで、そう決意した、と仰りました。胸中の苦しみは、いかばかりであったことでしょう。

 また劉曜様には、どれだけその思いが伝わっていたのでしょうか。


 やがて孤人は、洛陽を下る決意を致しました。三國志にまつわる取材にて各地にそれなりの伝手は出来ておりましたが、向かう先は新興しんこう、そう、孤人や元海様の生まれた地と致しました。

 間もなく、更なる火の手が上がりました。その火は瞬く間に晋国全土を覆い、各地に悲憤を撒き散らします。また各地にては、晋に押さえ込まれ、不遇を託っていた諸族が不穏な動きを示しておりました。その中には、匈奴諸部族もおりました。

 元海様は、匈奴を説得し、倫司の先鋒として糾合する、と言う名目で并州に遣わされました。そして并州に到達するや、匈奴を吸収し、独立を宣言。

 この頃匈奴に、単于ぜんうはおりませんでした。元々単于は略称であります。正しくは「撐犁孤塗とうりこと単于ぜんう」となり、撐犁が示すは天、孤塗が示すは地。即ち天下を統べるもの、と言う意味となります。かんの例に倣い、皇帝と並び立たせることは、即ち天が二つある、と認めるに等しきこと。故に魏が匈奴を服属させて後、匈奴諸部を束ねるのは単于に次する王の職掌となっておりました。その王の名は、左賢王。

 左賢王、即ち元海様の名代として、匈奴諸部を束ねていた王は呼延翼こえんよく、と申します。元海様の妃となられた呼延氏のお父上です。攣鞮れんていに連なる屠各とかく部主家のひとつ、呼延氏の首長です。元海様は、表では倫司に服従する体を取りつつ、裏では呼延翼様との連絡を密に重ねておりました。


 八王の乱は、結果としては元海様を覇道に導く好機となりました。しかし、そのことをいかほど元海様は喜ばれていたことでしょうか。

 後日、離石りせきにて改めて拝顔叶ったときの元海様は、既にして幾分の陰りを帯びておられたように思います。

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