第03話 懐帝劉禅       

 やおらお立ちになり、慌てふためくご様子で入り口に向かわれます。手ずから戸をお開けになれば、その向こうには、恰幅の良い、ひと目で名士と知れるお方がいらっしゃいました。

 義父上が、速やかに拝跪はいきいたします。

 そのただならぬご様子を見、室内の誰もが、何事かも解し得ぬまま、義父上に倣いました。

「陛下! よもや、斯様な場にて拝顔の誉れを賜りますとは!」

 陛下、と義父上がお呼びになったのは、他でもありません。しょくの地にてかん再興の大業を為された昭烈しょうれつ帝・劉備りゅうび様のご嫡子。かい帝・劉禅りゅうぜん様にございました。司馬昭しばしょうの手にて洛陽らくように遷されてのち、帝の位は剥奪。劉備様の故地である、安楽あんらくの地に封じられておいででした。

「これ、陳令史ちんれいし。今や吾は国を失い、魏国の一封爵ふうしゃくに過ぎぬ。旧官で呼ぶは、けいに僭逆の嫌疑が掛かろうぞ」

「何をおっしゃいますやら。陛下とて、愚人ぐじんを令史とお呼びではございませぬか」

 ふむ、と劉禅様はその豊かな顎髭をしごかれます。令史、とは蜀の地に義父上が在らせられた折の官名です。

「そうであったな。吾もまだ、この境遇に慣れぬようだ」

 劉禅様が室内に目を転ぜられました。思い掛けぬ貴賓の来訪に固まる孤人らではありましたが、その中にあり、元海げんかい様は泰然となさっておいででした。

「なるほど」

 劉禅様が目をお細めになります。

「芽吹いておるな、令史。さすがは洛陽、天下の枢要。人士にも恵まれておるようだ」

「若木の日増しに伸び太りたるを見届けるは、この上なき欣喜にございます」

「誠に、な」

 仰るや、劉禅様は入室なさり、義父上の肩に手を置かれました。その後、下座に着かれるのでした。

「令史よ。卿の講義、久方振りに受けたくなった。続けよ」

 戸の外にて侍っていた近習らが銘々に顔を合わせては、嘆息を漏らしておりました。彼の者らのうち一人が劉禅様の隣に着座し、他の者らは室外にて待機。予期せぬ運びに孤人こじんらは戸惑いましたが、

「安楽公にお伺いしたいことが」

 ここで物怖じせぬのが、王弥おうびでした。

 玉座を失ったとは申せど、かつては文武百官を統べられたお方。そのようなお方を前に、王弥は笑みをすら浮かべておりました。その心胆は、やはり並外れていた、と評せざるを得ません。

 ましてや、呈した議が議にございました。

「過日の歓待の宴にて、公は蜀での日々を思い出すことはない、と仰せになったとか。これは亡国の主たるの責をなげうたれたかのように聞こえまするが、いかがでありましょう」

 場が、凍てつくのを感じました。

 劉禅様が洛陽に引き連れられ、魏帝よりの封爵を受け。王弥が持ち出したるは、その後に開かれた宴における一幕の言葉です。宴のまこと華やかなること、劉禅様は大いに楽しまれたご様子であらせられたとか。そこへ司馬昭が「蜀の地のことを思い出すことはございますかな」と問うたところ、劉禅様は王弥の呈すがごとくお答えになりました。

 お言葉を聞くや、司馬昭らは劉禅様を大いに軽侮したそうです。お父上亡き後、社稷しゃしょくを守らんと、文字通り身命を挺して国をお守りになった漢臣諸氏の尽力。その全てを、劉禅様は打ち棄てられたのだ、と。

 劉禅様はわずかに微笑まれました。孤人には、困ったようにも、泣き顔のようにも見えました。

「忘れたと申せば、果たして吾が咎は解け去るのであろうかな」

 問いに対する問いを、孤人も、王弥も、学友らもにわかには解せずにおりました。

 そう。劉禅様のお言葉を、逸早く汲まれたのは、やはり、と申しましょうか。元海様でした。

「社稷の毀損、則ち不孝」

 つ、と涙が零れ落ちました。

「公は、魏将入蜀の報を聞くや降ぜられたと伺っております。故に豊かな巴蜀はしょくの地が血火に没することもなく、また漢の遺臣らも、その多くが禄を保たれたまま魏に仕えるを許されたとか。臣民の安寧を思えば、公はご英断を下された、と申すべきでございましょう」

 褒めやそしつつも、その面持ちは悲しみをたたえておられました。

 劉禅様としても、元海様の振る舞いに感じるところがあったのでしょう。言葉を受けてより暫しは訝るようでしたが、やがて、やさしげな笑みを元海様にお向けになるのでした。

「其方は?」

新興しんこう劉淵りゅうえん、と申します」

「新興……そうか、其方が、匈奴きょうど左賢王さけんおうの。道理で目を惹く訳よ」

 元海様は劉禅様に改めて拱手し、その後、言葉をお継ぎになります。

「帝は万民の父なれど、また天の子とも申せましょう。なれば公は、親を二度喪われたのですね」

 事ここに到り、ようやく孤人も元海様の涙の理由に辿り着くのでした。

 幼き頃、元海様は母上を喪われました。その時の慟哭の甚だしきこと、衆人は驚くと共に、その孝悌こうていの篤きに深く感じ入ったそうです。

 またその深きお心は、他者の悲痛をも深くお汲み取りになるのでありましょう。見れば、劉禅様も知らず知らずの内に涙をお零しになっておられました。従者がそれに気付き、慌てて拭き取ろうとしました。

「良い。暫し、このままで」

 みだりに君子が涙をお見せになるなど、常ならばあってはならぬはずのことでした。なれど両名共にそれを隠そうとする素振りは一切なさりませんでした。

 わずか、数語のやり取り。忽ちの内に元海様と劉禅様のお気持ちが通じ合われたことを実感するのです。

 義父上が仰りました。

「高帝が冒頓単于ぼくとつぜんうに敗して後、冒頓単于には高帝の公主こうしゅされました。以後、代々漢室と攣鞮れんてい氏は深き姻戚の間柄。故に、劉左賢はまた、漢の子でもございます」

 涙ながらに、二度、三度と。劉禅様は頷かれます。やがて袖口にて涙を拭われると、それでも幾分の潤みは抜き切れぬ眼差しで、元海様を見られるのでした。

「劉淵殿、吾が遠き弟御よ。こうして其方と会えたこと、嬉しく思う」


 ――この日より遠き後、離石りせきにて、元海様が漢王を名乗られたとき。

 孤人は、深く通じ合われたお二方のお姿を、鮮明に思い出したのです。

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