あなたの花と私の骨_02

 その日、世の中が騒然としていたことに気づかないまま、私は忙しさに追われていた。

 花を選んだ。

 白、黄色、淡い紅。

 どうしても入れたくて、菫を添えた。

 棺に入れるなら、あんまり濃い色の花は避けたほうが無難だ。

 骨に色が移ってしまうことがある。

 高温の炎で燃え尽きても、花の色はそうやって残る。

 母の色は、ただ白だった。

 菫だけが青く骨を染めた。

 思いがけず病を患い、母は一年足らずの闘病を経て亡くなった。

 葬儀の夜、世の中に信じがたいニュースが広まっていたと知るのは、もっとずっと後になってからのことだ。私はずっと塞いでいて、花を選ぶことが紫苑の結婚式を思い出させて余計に落ち込んだ。

 母の葬儀の花と友人の婚儀の花が重なるなんて、おかしな話だ。

 結局私は、母の期待に一度でも応えることができなかった。応えたかった。

 紫苑がいたら慰めてくれただろうか。黙ってそばにいて、他愛もない話をしてくれて、心を軽くしてくれて、私を救ってくれただろうか。

 紫苑は、今どうしてる?

 世界が終わるんですって。

 その報せを知って、あの日の選択が正しかったと確信した。

 世界が終わる日にあなたと一緒にいるのが私では、気の毒だ。

 心から愛する家族に囲まれていたほうが、よほど幸せだ。

 母がいま亡くなったことを幸いに思った。

 あの人は感じやすいから、この混乱のなかで暮らすのはひどく困難だったに違いない。

 きっと心をすり減らし、傷ついて、惑い、苦しんだ。そうなる前に天国に行けたなら、不幸中の幸いだ。

 さしあたって私の生活は変わらなかった。

 職場で花の世話をする。注文があれば冠婚葬祭の花を納品する。注文に応じた花束を作り、届ける。花を求める人々は、まだ華やかな生活の中にいたようだった。

 次第に葬儀の花の注文が目立ち、連日しめやかな花を選んだ。

 時折、故人が好んだ花なのか、色の濃いものが混じると母を思い出した。

 灰白色の骨にぽつんと染みつく青の色。

 花弁の色を鮮烈に焼き付けた、菫に染まった母の骨。

 今思えばそれは死出の旅への供のようで、ほのかな憧れを抱く。

 私もいつか死ぬときは、愛した花に染まりたい。


 * * *


 こんなご時世でも――

 こんなご時世だからこそか。

 結婚式の花の依頼が、久しぶりに入った。

 新婦の好みの花や、式場の雰囲気作りの希望をたずね、ふさわしい花を集める。

 ピンク、イエロー、ペールブルー。温かな季節の柔らかい色。

 納品間近にキャンセルの連絡が届き、すべては行き場を失った。

 どんな事情があったのか私には分からない。

 どうすることもできずに持ち帰った花が、部屋の中で場違いに瑞々しくて恨めしい。

 ここに置いても枯れるだけなら、処分してしまおうか。花びらをポプリにするのもいいかもしれない。思いついたまま花びらをむしる。

 テレビをつけたのは、静寂が耳に痛いからだ。

『今週の終活応援団は~!? 神奈川県川崎市から!』

 手作りの結婚式を挙げるんです。

 若いカップルはそう言った。

 ふたりとも成人して間もない、まだ学生のカップルだ。お金はない。

 だから、大学の一角を借り、会場をつくり飾りつけをして、料理も衣装も何もかもを手作りして用意した。まるで文化祭みたい、とはしゃいで笑う。

 同級生も、親も兄弟姉妹も、一日限りの、二人のためだけの文化祭を楽しんでいる。

 誓いのキスに囃し立てるような歓声を上げる。誰もがみんな幸福そうな笑顔だ。

 バンドサークルの友人がウェディングソングを奏でて歌う。

 道端の花を摘んで集めたという素朴なブーケを友人たちが取り合う。

『僕達、後悔したくないから』

『これで悔いはなくなりました』

 インタビュアーへ答えると、列席者たちから拍手があがった。

『それでは最後の質問です。最後の日、あなたが一緒にいたい相手は誰ですか?』

 見つめ合うふたり。

 言葉はない。

 目尻に涙を光らせて、お互いに抱きしめ合う。

『今日はおめでとうございました! みなさんもよい終末を迎えましょう!』

 もったいなかったな、と思う。

 もしもう少し早く知っていれば、この人たちに花をあげてもよかった。

 画面の右上には『再放送』のマークがあって、なおさら手遅れだったと気づく。

 でも、彼らはきっと手作りにこだわって、道端の花を使いたがっただろう。

 なにもかもが手遅れの花びらが籠いっぱいに積もった。

 風通しのいいところで乾かす必要がある。

 バルコニーへ出ると、すぐに風を感じた。初夏のまばゆい光が差して、理想的に輝く芝生を見ると、なぜ今ここに紫苑がいないのかと不思議に思う。

 この庭で過ごす朝ほど完ぺきな時間はなかったのに、今は空っぽだ。

 花のワルツが聞こえる。

 ピアノじゃない。空耳みたいな、かすかな旋律。

 下の階から笑い声。はしゃぐ二人の女の子。

 彼女たちのことを知っている。時々エントランスで時々すれ違う。

 紫苑と同じ年頃の女の子の二人暮らしで、仲の良い様子を見かけた。ずっと以前は大声で喧嘩するような物音も聞こえてきたりして心配だったけど、数日後にはやっぱり親しく寄り添う姿を見かけて、羨ましく思ったものだった。

 喧嘩をしても仲直りができるなら、怖いことは何もないじゃないか。

 私が叶えられなかったことを叶えているような姿に、妬ましく思う一方救われた。

 私はだめにしてしまったけど、あなたたちは大事にしているんだ。

 そのままずっと、さいごまで大事にしてほしい。

 私なんかが言うまでもないことだけど。

 階下を窺うと、バルコニーの縁からにょきっとセルフィーが伸びる。

 ふらふらと画角を探りながら揺れる。笑い、身を寄せ合い、撮影を続ける。

 風になびく、真っ白と、ブルーグレーのレース。

 それが素敵なドレスだとすぐに分かった。

 結婚式だ。

 二人は、二人だけの部屋で、密やかな婚礼を挙げている。

 誰に見せるでもなく、お互いのためだけに、記念すべき式をあげて喜んでいる。

 私は頭の中で配役を置き換える。

 階下の二人の姿を、私と紫苑に当てはめる。

 辿り着けなかった結末を羨み胸が痛んだ。

 何もかも投げ出したい気持ちだ。

 暴れて、吼えて、引っかき回して、ぐちゃぐちゃにして、ぜんぶ、ぜんぶ壊そう。

 ――焦らずとも大丈夫。

 もう、世界は壊れる日を待つだけだ。私も待とう。

 その日が来れば、望み通りのめちゃくちゃが、この空の下にやってくるのだ。

 抱えた籠の中の花びらが、風にうずうず揺れていた。

「おめでとう」

 私は微笑んで、彼女達に花を降らせる。

 暴力的な衝動を託された花びらは、しかし風に舞い上がるほどに軽く、ゆっくりと、はらはらと、彼女たちのもとへ優しく降り注ぐ。

「ありがとうっ!」

 屈託のない声に息が詰まる。

 私が今偶然に抱えていたものが、小石ではなく花びらだったことは、何よりの幸運だった。お礼の言葉を聞いて胸の内は塗り替えられた。

 あまりに幸せそうだから、心の底からお祝いをしたくなっていた。

 一方的に見るだけだったら、一方的に妬んで終わった。

 返ってきた言葉の温かさに、多分私は絆された。

「私たち、結婚するんです」

「とても素敵! お幸せに」

「はい。あなたも!」

 名前は知らない。喋ったことも、今日までなかった。

 うっすらと生活感が伝わってきただけの相手が、ほとんど見ず知らずの私の幸いを願った。今、世界で誰よりも、私よりも、あの子が私の幸せを願ってくれていた。

 私はあの子たちになりたかった。

 花はすべて、音もなく降り注ぐ。



 どうやら、世界は終わるようだ。

 大好きな女の子がいた。私を大好きだと言ってくれた。

 でも、後ろめたかった。

 ふたりで幸せになれるって信じきれなかった。

 ちょっと背中を押せば、彼女は他に好きな男の人を見つけて、結婚して、子供を産んで、幸せになれそうだった。

 だから手放してしまった。

 私のそばにいるよりも、そのほうがきっと幸せになれるから。

 あの選択を、誇らしく思う一方でずっと後悔している。

 つまらない嫉妬だったのかもしれないし、試したかったのかもしれない。

 あなたとは本気じゃないって言って遠ざけた。

 その後、あの子は理想的な家族像を育んでいった。

 私はSNSを介して、ずっとその様子を見守ってきた。あの子はSNSでは時折接点をくれる。でも、久しぶりに会おうよ、という約束まで至ったことはない。私から積極的に彼女の投稿に反応したこともない。

 私は結局、褒められもせず責められもしない人生と、他人から認められず責められる人生を天秤にかけて前者を選び、孤独に終わりを迎えようとしている。

 一緒にいて、って。

 今、そう伝えたって、彼女はきっと来てくれないだろう。

 世界が終わる瞬間を、一緒に迎えようよ。

 無理に決まってる。あの子にはもう、夫も子供もいる。

 最後に会った結婚式で、二人は完ぺきな夫婦に見えた。

 私の選んだ花に囲まれ、紫苑は伴侶との永遠を誓う。

 紫色のヘリオトロープ。永遠の愛。夫婦の変わらぬ愛を願う、結婚式に定番の花。

 私の心は今も変わらずあなたのことを想ってる。

 もし次に会うとしたら、口実がひとつある。

 この部屋の合鍵を彼女は持ったままなのだ。

 解約の際は揃えて返却する必要がある。

 勇気を出せたら、また会うきっかけになる。

 そんな勇気がなければ、郵便で受け取って終わりだろう。

 いずれにしても、それが、この部屋の終焉だ。


 * * *


 大きな台風に襲われて、出勤をしなくなって数日経つ。

 テレビはカウントダウンを重ね、残すところあと一週間を過ぎる。

 今になっても日常を続ける者も、もちろんいた。

 どんなに証拠を示しても、どれほどの人物が語り聞かせても、実感が湧かないまま、日常を延長している。

 私もそうだった。

 客足が途絶えても、でも朝一番に花を買っていく人もいた。

 誰かに贈る一輪のために店に立つ日々だった。

 この台風が明けたら、何もかもが元通りになる。

 世界が終わるかもしれないなんて妄言に踊らされた日々が、きっと終わる。

 そう囁く声も聞こえて、それこそおしまいだなぁと思う。

 元通りになるのか。何もかも。それなら私は、紫苑を取り戻したい。

 紫苑がいた日々まで戻らなければ、どの道だ。

 私にとって、あの日から、世界は終わったようなものだ。

 終わった世界にずっと取り残されてきた。

 ようやく周りが私に追いつく。ただそれだけのことだ。

 職場に行かずに部屋にいると、紫苑の声が蘇って仕方がない。

 初めて家に来た日。初めて庭で食事した日。初めて同じベッドに入った日。

 紫苑の笑い声が好きだった。囁き声が好きだった。言い争う声も、好きだった。

 紫苑は必死に言う。私のことを好きだという。

 その言葉を引き出したいがために、私は物分かり悪く振舞ったのだろうか。

 ううん。心の底から、紫苑の幸せを願っていた。

 最後の日に、一緒にいるのは、愛した家族のほうがいい。

 あのままだったら、何のつながりも持たない他人なんかと一緒にいる羽目になったはずだ。あの子の最後の相手に、私は相応しくない。

 ソファの上でうずくまり、風の音に耳をすませる。

 電源を入れたけどテレビの音は切っている。どこからか花のワルツが聞こえる。

 階下の部屋だ。

 恐怖を塗りつぶすかのように、連日、大きな音でワルツが聞こえる。

 二人で一緒にいてさえも、終わりが来るのは怖いのか。

 ううん、二人で一緒にいるからこそか。

 もし私の手の中に世界を操るリモコンがあったら、迷うことなく早送りを押して、今すぐ終わりに向かうだろう。

 私が今怖いのは、終わった世界で私だけが生き残ること。

 あるいは、結局世界が終わらないこと。

 みんなで『はた迷惑なニュースだったね』って笑いあって、再び日常を取り戻すこと。

 最後に一度だけ、紫苑に連絡を取ろうか。

 でも、紫苑に面倒に思われるのは嫌だ。罪悪感を与えるのも嫌だ。

 紫苑が自然と思い出すなら、楽しかったことだけでいい。私を置いて行ったことを、負い目に感じなくていい。きっとすがるような声しか出ない。

 胸を痛めたまま紫苑は死ぬのか。心底そうなればいいと思う。

 でも、紫苑はそれほど思いつめたりしないだろう。それが分かるのも嫌だ。

 ――不意の着信音に、身体が跳ねた。

 発信元は相田紫苑。旧姓のままの登録名。

 驚くあまりに血の気が引いて、いっそ吐き気がするほど動揺した。嘘? これは、夢か。

 私は気が狂ってしまって、自分に都合のいい妄想を見ているのかもしれない。

 信じられなくて電話を取れない。着信音が途絶えた瞬間、安堵と一緒に死ぬほどの後悔を抱く。飛びつくようにスマホを握る。

 すぐさま再びの着信があり、何を取り繕うこともなく通話ボタンを押した。

『――先輩?』

 神様の声がした。

 紫苑だ。

『ああ、良かった繋がって。あたし、どうしても先輩と話がしたくて』

 本当に紫苑の声だ。

 少しだけ低いのは、経過した年月のせいか、電波状態のせいか。

 何かを言おうとして、でも息を吸うばかりで結局言えず、私は金魚になる。

 これでは紫苑に誤解されてしまう。私は今、声が聴けて嬉しい。電話がきたことが嬉しい。もう全部これでいい。これで報われたってことにしていい。

『……綺莉先輩? 声、聴きたいな。ほら、ゆっくり深呼吸して』

 紫苑は優しく笑う。

 言われた通りにして、やっと声を取り戻す。

「紫苑」

 それでも結局、言えたのはその一言だった。

 やっぱりすがる声になった。

『はい。先輩。……久しぶりですね』

「紫苑」

『電話、今大丈夫ですか?』

「……うん」

 電話の向こうは、砂嵐でも吹いているようにノイズまじりだ。電波が悪いのかもしれない。お願いだから、繋がったままでいて。祈りながら紫苑の声に耳を傾ける。

「あなたは、いいの? 家族は」

『それなら大丈夫です。ちゃんと許可もらってますんで』

「じゃあ、よかった」

『ねえ先輩。あたし、今ね、外にいるんです。声、聞こえてます? うるさいかな?』

「ううん、聞こえる。大丈夫。大丈夫?」

『面白いっすよ。見上げ慣れた看板が地面に寝っ転がってたり、車がひっくり返ってたり。へへへ、映画みたい』

「どうか、紫苑。どうか気を付けて」

『ありがとーございます』

 ノイズは本当に風の音だったらしい。

 こんな日に、なぜ外出なんかしてるのか。紫苑はしかし、楽しそうにくすくす笑う。

『今ね、あたし初恋の人のところへ向かってるんです。さいごを一緒に過ごすために』

 言葉は返せなかった。

 歌うような声から喜びが溢れていた。

 紫苑なら、どんな素敵な初恋をしていても不思議じゃない。

 私は心の底から彼女の初恋の人が羨ましくなる。義理堅い紫苑を好ましく思う。

 急に電話の理由に思い当たる。

 ほんのわずかな間でも、私は紫苑の同居人だった。

 紫苑は恩を感じて、最後のお礼の電話をくれたのだ。今のうちに。

「……家族は、いいの?」

『ええまあ。あたし、頑張りましたよね? さいごにこれくらい、ご褒美もらっておこうかなって思って』

「……いい家族ね」

『はい。娘は今頃パパにべったり、パパも娘にデレッデレ。実際、入る隙はないですよ。誰が乳やったと思ってんすかね。ふふ』

 憎まれ口ににじむ愛は、私には縁遠い感情だ。

『……あたしね、たしかに、あの人のこと気に入ってました。でもそれは雰囲気がなんとなく先輩に似てたから。子供ができて、ママをやるのも楽しかった。あの人との暮らしも、あの部屋での日々ほどじゃないけど……だって、すごい素敵なことが起きたとき、いつも惜しいなあって思うんですよね。ここにいるのが、先輩だったら完ぺきなのに。この人が先輩で、この子が先輩との子供だったら最高なのに』

「紫苑……?」

『先輩。あたし、幸せな家族やってましたよね?』

 もちろんだ。それ以外のなんだというのか。経済的に安定して、子煩悩で、愛妻家の夫。好きな仕事をマイペースに続けながら、手先が器用で何でも作る、料理上手で愛情深い妻。素直で利口で可愛らしい、紫苑にそっくりな娘。

 写真はいつも温かみにあふれていた。

 紫苑の料理は幸せそのものだった。

 すくすくと育っていく娘の近況に、時の流れの速さを思い知らされた。何かを育む尊さと一緒に。

 誰が見てもうらやむような、正常に機能した、安定に満ちた、温かく仲の良い家族。ついぞ私が得ることができず、母に見せてあげられなかった姿だ。

「私、あなたに押し付けた?」

『いえ、あたしのほうから食い気味にいきました。そこまで言うなら見てろよって、先輩が正しいってこと証明してやるからって。そしたら先輩は、少しは先輩自身のこと好きになってくれるかなって期待しました。だめだめな後輩を育てて、結婚の面倒まで見て、幸せな家庭を授けてくれた、サンタクロースみたいな先輩。あたしに沢山のプレゼントをくれた、よき先輩なんだぞって。そう思ってくれたらなって。だからあたし、先輩が思い描く理想の幸せの家庭を、頑張ってました。先輩のおかげで幸せになれましたって、毎日アピールしました』

 風の音が膨らみ、何か大きなものが煽られ転がる音が聞こえる。

 どうか紫苑が、無事に辿り着きたい場所に行けますように。

『……でも、やっぱりきついときも結構ありましたけど』

「ごめんなさい、紫苑」

 聞こえただろうか。消え入るような声だった。紫苑の吐息が返ってくる。

 呆れているの? それとも、笑っている?

 私は断罪の言葉を待つ。

 いつしか風の音が止み、反響する足音が聞こえた。

 階段を上っている。どこかでワルツが聞こえる。

 花のワルツが聞こえる。ありえない予感に胸が震える。

『世界が終わるって聞いて「しめた」と思っちゃいました、もう肩こっちゃってたんで。もう下ろしていいんだ、これ。重かった~、よっこいしょって。すごい軽くなりました。心も体も』

 暴風の音は壁の向こう。

 紫苑の声は、さっきまでよりもずっとクリアに聞こえた。

『――だから、今やっと先輩のところに来れました』

 嘘だと思う私の背中で、ノックの音が響く。

 静かに二回。

 私は振り返るのがやっとだった。

 ソファに座り込んだまま、力を失って立ち上がれずにいる。

 でも、紫苑ならこの部屋に入ってこられる。まだ合鍵を持っているから。

 開いたドアから聞こえるのは、階下からのかすかな音漏れ。

 壁の向こうの風の音。硬い靴底が床を踏む。

 耳元からも、玄関からも、同じ声が聞こえた。

 ――ただいま。綺莉先輩。

 耳元で通話終了の電子音が響く。それもすぐに途絶える。

 力ない手からスマホが滑り落ちて太ももを叩く。

 コートを着た紫苑は、腕に花束を抱えていた。風にあおられて花びらを散らし、雨に降られたのか濡れそぼっている。あの日と同じヘリオトロープ。ストラップシューズを脱ぐのももどかしいような足取りで土足のまま部屋に上がる。

 これは夢か、幻か。私の都合のいい妄想か。

 紫苑はそっと、花束ごと包み込むように私を抱きしめる

「会いたかったです。あたしの、初恋の人」

「……いいの? 紫苑。家族と離れていいの?」

「いいっしょ、家族サービスはもう充分してきたし、ママは好きな人と一緒に死にたいっす。だって先輩、ぜったいひとりで震えてると思った。そんなの許せない。あたし、先輩のこと大好きだから。怖い思いはさせたくないです。だから、嫌って言ってもそばにいます」

 深く湿った囁き声が耳をくすぐる。

「許して、紫苑」

「なにも恨んだりしてないですよ。でも、ちょっと惜しいかな。もっと先輩と一緒にいたかったから」

 嬉しくて何も言えない。これが幻でも構わない。

「もうぜったい離れません。さいごまで一緒です」

 すべて決壊して、涙があふれて、言葉が堰を切る。

 あの日言えなかった言葉が全部、時を超えて声になる。

「ごめんね紫苑。ごめんなさい。そばにいて、ずっと。私のそばにずっといて。もうどこにもいかないで。誰のものにもならないで。私は、あなたが、」

 あなたが好き。

 あなたが好き。

 あなたが好きだから。

「泣かないで、先輩」

 母が子をあやすように、歌うように囁く。

 紫苑の声が私の傷口を塞いで癒す。

 すべての傷が痛みを忘れて、死んだ身体にもう一度血が巡るように、胸が熱くなる。このままずっと抱きしめていてほしい。

 あなたがこの骨に焼き付くまで、そうしていてほしい。

 やがて私は紫苑に導かれて立ち上がり、窓を開けて暗い空の下へ出た。

 ふたりが愛した庭で寄り添う。

 壊れていく世界を眺めながら、

 お互いの髪に花を挿し、

 心からの幸福に頬を綻ばせて、

 笑う。

 笑い合う。ふたりで。

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