掌編
青い靴
いつも雨が降っていて、街を包むのは、湿った香り。
石畳の溝に雨水が流れるさまは葉脈や毛細血管のように有機的で、
町自体が生きているみたい。
二人はいつも、坂道にかかるアーチ橋の下でお別れをする。
坂の上には宮殿が建っていて、二人はそこからやって来た。
濡れた石畳を音もなく踏む、白い足。
裸足のままで娘は男を見送る、それが館の掟。
だから、サリーもそうした。
アーチ橋の下で雨を避け、男と抱擁を交わす。
娘達は靴を与えられないから、裸足のままで石畳を踏む、
その健気さで気を引いて男の情を操った。
「お別れね」
「また来るよ」
「今度はいつ?」
「なるべく早いうちに」
「今度こそ、わたしをここから連れ出して……」
サリーの会話の方法は頼りなげな囁きだけ。
男はたまらず、自分の脇腹あたりにあるサリーの頭をいとおしそうに撫ぜる。
サリーの金の長い髪はそれだけで価値在るもののように輝いて揺れる。
「靴をプレゼントするよ」
それが、靴を与えられない娘たちへの秘密の約束の合図。
「きみを救い出すよ」
陶酔的な言葉を男は恥ずかしげもなく贈る。
サリーは男の腕のなかではかなげに微笑んだ。
返事は返さない。
その笑みこそが答えのように。
それで男も満足して娘と別れていく。
約束を曖昧にしたまま。
*
宮殿とは名ばかり、窓の明かりだけが眩しい。
古ぼけた寄宿舎を買い取って運営される娼館。
玄関に立って濡れた服が含んだ水を絞る。
裸足のかたちを木造の廊下にてんてんとつけていく、白い影。
サリーの姿を彼女は見ている。
玄関に鍵をかけて、足跡を追いかけるように歩む。
揺らぐ、燭台の灯りが、二人の影を窓に描き出す。
おとなと、少女の姿。
アンブローシア。
マニッシュな短い黒い髪。切れ長の涼しげな眼差し。
唇にわざとらしいルージュを引いて、女性だってことを殊更に強調する。
ちぐはぐな女、アン、彼女がこの館の主。
サリーは部屋に戻る直前にアンを振り返る。
「アン」
呼びかけに応える声はない。
アンはそこにサリーなど見えないみたいに、
彼女を追い越し、寝室へ帰っていく
冷たいアン。
女の子のことを気にも留めない。
ただ仕事を与え、働いただけ支払い、
少女たちの働きで自らの懐を潤している守銭奴。
誰が欠けても気がつかないに違いない。
でも、彼女の掟に従っているかぎりは、不干渉で自由主義。
都合の良いことこの上ない。
アンの館では似たような境遇の女の子たちが働く。
衣食住と給金を保証され、娘らしい少女時代と引き換えに暮らす彼女たちは、
しかし女性であるがため、したたかに日々を生きていた。
子供らしい幸せな子供時代なんて、
所詮は子供の演技力によって成り立つ大人のための物語。
子供たちはほとんどのお客の想像を裏切って、
己の能力で働くことに充足感と自信を得ていたのだから。
そもそも、ここへ少女たちを買いに来る大人の同情なんて、
笑ってしまうほど虚飾的だ。
彼らはこの期に及んでまだ威厳を保とうとしているらしい。
それが少女たちには滑稽だった。
*
「サリー、迎えに来たよ」
サリーの部屋へ、男は来た。
約束の通りに。
まるい箱は暖かな生成り色で、
掛かっているリボンの色は醒める様な青。
サリーの髪飾りとおんなじだ。サリーの好きな色。
白い体に金色の長い髪、
それにひときわ青いリボンを飾ると、サリーはとても綺麗になる。
海から来たちいさな女神みたいだ。
無邪気な裸身を自由奔放な髪が取り巻いている。
サリーの部屋にはおおきなベッドがひとつ。
ヘッドボードには貝殻の意匠が彫られている。
シーツもカーテンも眩しい純白。
南国の砂浜みたい。
サリーが身を投げ出すと、
まるで彼女の体がお人形のようにちっぽけに見える。
たっぷり愛し合ったあとで、
男はサリーにプレゼントした靴を恭しく履かせてくれる。
高くて華奢なヒール、足首をきつく締め付けるベルトの靴。
誰かの手助けなしにはまともに歩けない。
それは男の独占欲のかたちをしている。
真っ白い素足に青い靴を履くと、
サリーは一層青ざめて、
人間離れした美しさを際立てた。
サリー。
宝石みたいな女の子。
それを飾ると、だれもが威厳を手に入れる。
澄ました顔は無垢でいて、瞳は英知の色をして、
真白い頬は二度と戻り得ぬ過去に似た感触を持っている。
このまま成長を止めてしまいたいと誰もが膝をついて祈る、
一瞬のまばたきのなかに生きている少女。
サリーは裸身に男の着古したコートだけをまとって、
それなのに足はぴかぴかの真新しい靴を履いて、
そっと、静けさの満ちる館を抜け出した。
アンの目覚めを妨げぬようこっそりと、
他の部屋の娘たちのひんしゅくを大いに買いながら、男に手を引かれて走る。
女の子たちは窓から思い思いの餞別の品を投げた。
まるで脱獄犯を見送る囚人みたいに。
リボン、キャンディー、タバコにリップ。
片一方だけのイヤリング。
蓋を失くした香水瓶。
サリーは外を目指す。
手にしたものだけポケットに詰めて。
*
男の手は熱く汗ばんでいて、
繋ぐというよりもほとんど掴むようにサリーの細い手首を引いている。
「小さな家を買って、ささやかなお店を営もう。
ぼくは家族を捨てるし、仕事を捨てる。
きみの幸せのために、何者でもなくなって、あたらしく出発するんだ」
「ええ。きっと、幸せになりましょうね」
サリーの頼り無い囁きはこの世に響くものとは思えないほどにか細かった。
雨に打たれて尚、サリーの髪は輝いて、
早く隠さなければそれが何よりの目印になってしまう。
この儚い少女のためにこれまでの人生を捨ててやり直す覚悟を、
男はとうに済ませていた。
容易い決断だったはずだ。
そうすることで、男自身が救われるのだから。
「列車が来る。あれに乗るよ。
遠くの町へ行く。
海の見える町だ。ここではない場所だ」
「ええ。きっと、幸せになりましょうね」
「きみを脅かすものは何もない。
誰もきみを傷つけない。優しくするよ、ぼくのサリー」
「ええ。きっと、きっと幸せになりましょうね」
雨に凍えた頬をほころばせて、サリーは笑う。
男はそれを何よりの信頼の証だと信じて、
近く訪れる幸福な未来に胸をときめかせた。
*
駅を、死にかけた街灯が照らす。
列車が停まっていて、あとはあの扉をくぐるだけ。
この街から逃げ出すために、あとはそれだけ。
着の身着のまま、荷物も持たず、二人はその列車に転がりこむ――
それができれば、夢に描いた暮らしが待っている。
そのはずだった。
駅のホームに真っ赤なコートの女が立っている。
フェミニンなコートから伸びる足は、
白く艶めかしくしなやかな曲線を描いて、女性の脚のかたちをしている。
娘ではない。
大人の女性の長い脚。
履いているのは、その装いに不釣合いなダックブーツ。
誰の力も借りずに立ち、地を踏みしめる確かな靴。
「アン――アンブローシア」
サリーが囁く。
その声が弾んでいることに男は気が付かなかっただろう。
きっと、死ぬ瞬間も。
アンの手短な仕草でピストルから飛び出した弾丸が男の命を奪うのに、
まばたきほどの時間があれば充分だった。
男の周囲で石畳の溝が赤く染まっていく。
街に染みこんでいく。
立ち尽くして雨に打たれるサリーへ、
アンは揺るがない足取りで歩んだ。
「アン」
名を呼ぶ少女の細い頬を掴み上げ、覗き込む。
そのおろかな顔を。
震える指がサリーの顎を痛める。
口の中で、歯が内頬に押し付けられて、傷をつくる。
唇にそっと滲んだ赤い血を、アンは舌先で舐め取って、
ついでのように耳元に唇を寄せて囁いた。
「あんたはわたしの物なのよ。勝手にどこへも行くんじゃないわ」
アンの震える声に、サリーの胸まで震えた。
恐ろしいアンは乱暴な言葉をいくつも少女へ投げつける。
それらの言葉はしかし、サリーの性質を正直に説明するものでしかない。
アンは用心深くもう一度男の頭を撃ち抜いて、
それからサリーを顧みずに歩き出す。
サリーは丁寧に青い靴を脱ぎ、男の亡骸に添えた。
手向けの花のように。
それきり彼女は靴にも男にも執着を示さず、
裸足のままアンの背中を追いかけた。
雨に濡れた重たいコートを途中で脱ぎ捨て、
真白い裸を暗闇に浮かび上がらせて、アンに寄り添い歩く。
彼女達の館に向かって。
こうして今日もサリーの逃亡ごっこは幕を閉じる。
サリーは何より、アンの必死な顔が大好きだ。
素知らぬふりをしながら、
本当は娘たちに裏切られることを何より恐れている。
あの館に棲まう少女のひとりひとりがアンの魂の欠片であるように、
大事にかき集めている。
サリーはいつだって試すように、男に懇願するのだ。
『ここから連れ出して欲しい』
そうすれば、アンが追いかけてくれる。
怯えてくれる。
怒ってくれる。
何よりも、それが、嬉しかった。
こんどもうまく行った。
アンは連れ戻しに来てくれた。
わたしのために、またひとつ罪を重ねてくれたのね。
あなたの負う罪の重さが、同じだけ、わたしへの愛を囁いている――。
「アン、大好きよ」
赤いコートの女と真白い裸の娘が、
寄り添いながら、雨に濡れる宮殿へと帰っていく。
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