ウサギ小屋のヴァンパイア

Rabbit Hutch Vampire


 うだるような暑さの中、

 みんな一目散に駆け出して、昼下がりの道路に出て行く。


 学校では午前のあいだに行われる水泳教室が終わったところだ。

 水泳の成績が悪いか、プールで遊びたい児童だけが参加している。

 夏休みだというのに学校へ来るのは、

 なんだか損したような、でもちょっと特別なような、不思議な気持ちだ。


 みんな、誘い合って、友達同士で固まって、帰り道をはしゃぎながら歩いていく。

 アンは一人だけのたくたと歩きながら、近くのコンビニに入った。


 あ、買い食い、いけないんだ。先生に言いつけてやろ。

 そんな意地悪な声が聞こえないのは、

 誰もアンなんかに気付いていないからだろう。


 だから堂々と、アンはパピコを買う。

 パピコを買って、来た道を引き返す。


 アンは飼育委員なのだ。

 みんな、春先に仔ウサギが生まれたときはあんなに喜んで、

 我先にと触りたがったくせに、夏休みの登校があると知ると、

 誰一人飼育委員なんてやりたがらなかった。


 だから、アンは静かに手を挙げて、

 張り詰めた風船みたいになった教室から空気を抜いてやった。


 夏休みのあいだに、

 一体誰が「今頃アンは学校でウサギに触っているんだな」なんて思い出すだろう。

 ましてや、それを羨んだりするだろう。


 中庭の用具入れから日差しにあたって熱を持った掃除用具を持ち出して、

 バケツに水を汲んで、ウサギ小屋までのたくたと歩く。

 腕にはパピコの入ったビニール袋がぶら下がってしゃらしゃら言った。


 ウサギ小屋は中庭で一番涼しい場所にある。

 木々の密集した日陰だ。


 明るいところから急に影に入ると目が見えなくなったみたいで不安だった。

 ただでさえ視力が随分悪くてめがねをかけている。

 アンは目つきを悪くして、小屋を窺った。


「……いるの?」


 そっと、呼びかける。

 なにか、動く気配がある。

 ウサギではない、もっと大きなもの。

 分厚い布が引っ張られたような音。


「いるのね」


 ちょっとだけほっとして、アンは扉に手をかけた。

 条件反射で足元に寄ってくるウサギたちの気を餌で反らして、小屋の奥まで歩む。

 土の匂いがする。

 ウサギたちが掘り返した穴に躓かないよう慎重に歩いた。


「パピコ、食べる?」


 小屋の奥で、誰かが首を横に振った。

 そうすると、さらさらと音がする。

 長い髪が揺れてこすれた音だ。


「そう。じゃ、いただきます」


 アンはパピコの袋を開けて、そのへんのバケツをひっくり返して腰掛ける。

 小屋の一番暗い場所を見やると、そこに女の人がいた。


 アンよりもずっと年上だ。

 六年生よりは大人に見えるけど、アンのお母さんよりはずっと若い。

 でも、駅やイオンで見かけるような女子高生とも雰囲気が違う。

 何歳、って尋ねたら「二百歳」と答えられたきり、

 アンは年齢を尋ねていなかった。


「サリー。暑くなぁい?」


 また、首を横に振る気配。

 段々目が慣れてきて、暗い場所でも物が見えるようになる。


 彼女は、サリーは、夏だというのに暑そうな分厚い黒いワンピースを着ている。

 手首までしっかりと覆って、足にはタイツを履いている。


 見る人に対して迷惑だから、

 夏は涼しい格好をするべきだとアンは考えるようになった。

 サリーは長い長い金の髪のなかに悲しげな容貌を隠していて、

 今はパピコに吸い付くアンのほうを胡乱に眺めていた。


「……」


 パピコ、食べたいのかな、やっぱり。

 いらないって言われたから、持って帰って夜に食べようと思ったんだけど。


「……いる?」


 聞かなきゃそれで済む話なのに、

 うっかり尋ねてしまったことをアンはすぐに後悔した。


 思ったとおり、サリーは控え目に頷いて、

 若い小枝のように白く細い指でパピコを受け取る。


 蓋を開ける前に吸い付いて首を傾げたので、

 アンは開ける仕草をして見せてサリーに理解を促した。


 なんとか蓋を開けて、サリーは赤ピンク色の唇を吸い口に触れさせる。

 ちゅっ、と音がした。

 キスみたいでなんか恥ずかしいなと思う。


 サリーの舌先にちょっとだけパピコの色が乗った。

 かと思うと、サリーはけほけほと咽返って、

 口の中に含んだものを吐き出してしまう。

 申し訳なさそうにアンを見上げて、パピコを拒絶したふうに遠ざける。


「……無理しなきゃ良いのに」


 仕方ないから、まだひとつめを食べている途中なのに、

 アンはもうひとつのパピコにも口をつける。


 あ、ここって、さっきサリーが口付けた場所だ……とか、

 意識するのは腹立たしいから、

 勇ましくぱっくり咥えてじゅるじゅるじゅるじゅる啜ってやる。

 お腹が痛くならないといいな、とちょっと思う。


「ほら、サリーはこっちなんでしょ」


 ようやくひとつだけパピコを片付けたから、空いた片手をサリーへ差し出した。

 サリーはちょっとだけ眉間の力を抜いて、アンのちいさな腕を見た。

 そうして躊躇いなく指先に吸い付くと、ちゅうちゅうと啜りはじめる。

 ちゅうちゅう……かぷっ。


「痛っ」


 サリーに噛まれた。

 あやうくパピコを取り落とすところだった。

 サリーは噛み付いて作った傷口から、アンの血をちゅるちゅると啜る。


 サリーの指よりもまだ小さいこどもの指先を、

 まるで赤子が母親の乳首にするようにしゃぶっている。


 あんまり勢いがいいのでちょっと怖くなるのだけど、

 こうしている間はサリーのことを存分に見られるから、アンは平気だった。


 サリーはとってもきれいな人だ。


 ある雨上がりの日に来てみたら、いつのまにかウサギ小屋に隠れていた。

 青ざめた肌は夏の日差しにも汗を浮かべず、マネキンみたいに無機質だ。

 ウサギ小屋の奥で縮こまって、

 足元には捕食したウサギの亡骸がひとつ、転がっていた。


 肉は食べない、血を吸っただけ。


 アンは怖かったけど、それ以上にサリーがきれいで見とれてしまって、

 このきれいなものを隠しておかなきゃいけない使命感にかられてしまったのだ。


 誰かに見られたら、連れて行かれちゃう。

 わたしの手から奪われる。

 きっとサリーは弱いに違いない。

 だから守ってあげなくちゃ、わたしが。


 サリーは血を啜る。ちゅるちゅると。

 アンはもう空っぽになったパピコの容器をいつまでもかじっている。

 サリーがそうしている間は、なんだか予防注射を受けているときに似ていた。

 でも、それ以上になんだかいたたまれない気持ち。

 ちょっと、多分、いやらしいなって思うのだ。


「サリー。血、美味しいの?」


 パピコよりも美味しいのかな。

 甘いの? 苦いの? しょっぱいの?


 質問にサリーは答えない。

 血を飲むのに必死で、聞こえていないのかもしれない。

 差し出した手のひらは真っ白に色を失っていて、ちょっと怖くなる。

 でもサリーを拒絶しない。


 アンはサリーのしろい顔を見下ろして、自分が血を失いゆく様を見ている。

 こんなに暑くて汗をかくのに、

 体の芯は冷えていくような感覚が、気持ち悪いのに気持ち良い。


 彼女の言葉を信じれば、サリーは吸血鬼だ。

 どういう経緯かは判らないが、群れからはぐれて学校に迷い込んで、

 朝が来て日陰に逃れるうちにウサギ小屋にたどり着いた。

 お腹が空いて死にそうで、やむなくウサギを殺してしまったらしい。

 血を吸いすぎたせいだ。


 いつか自分もウサギと同じようになるだろうか。


「……ごめんなさい、アン」


 思うさま血を吸っておきながら、サリーは申し訳なさそうに囁く。

 ようやく食事を終えて、サリーはアンから離れていく。

 そばに居ていいのに、と彼女の作った距離を寂しく思う。


「いいよ。へいき」


 ディズニー映画のお姫さまみたいな顔をしたサリーは

 現実のものではないように思う。

 今まで出会った誰とも、ぜんぜん似ていない。

 あえて言うなら、昔土手に捨てられていた猫を見つけたときを思い出す。


 いいものを見つけた、と思った。


 結局アンの家で買うことはできなくて、

 友達の親戚にあげてしまったのだけど……。

 でも、今度こそは。

 今度こそは大丈夫。


「わたしの血なんか、いつでもあげる」


 だからサリーは、ずっとここにいて。

 誰にも見つからないでいて。

 わたしだけのものでいて。

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