あなたの花と私の骨_01
どうやら、世界は終わるようだ。
私は、最後に一度だけ、あの子に連絡をしようかどうか迷っている。
* * *
賃貸マンション五階建て。
四階角部屋、1LDK。
一人で住むにはリビングが広い。
転職と同時に暮らし始め、入居して一年に満たない頃、私は同居人を得た。
相田紫苑は、同じ職場の九歳年下の女の子。
バイトで働いていて、私にとっては初めてできた後輩になる。嬉しくてかわいくて、あれこれ世話を焼いているうちに、彼女が引越し先を探していることを知った。
気軽に誘ったくせに、気軽に返事をもらって、驚いたものだった。
まだ一緒に暮らす前。
初めてうちに招いたとき、紫苑はトートバッグにお泊りの荷物を詰め込んでやってきた。
「
おおきな目がキラキラ輝いているのを見て、掃除を頑張って良かったと思った。
きょろきょろするたび短い髪の毛先がくるんくるんと跳ねる。明るく染めたボブショートは、紫苑の雰囲気にとても似合っている。玄関でスニーカーを丁寧にそろえて、あらかじめ準備しておいたスリッパに履き替える。
「いらっしゃいませ、紫苑さん」
「おじゃまします!」
まずは内見ということで、一週間、生活をともにする。
「前にも言った通りだけど、大丈夫だよ。私、ほとんどこの一角しか使ってないの。空間が余っちゃって勿体なかったし、寂しかったし、ちょうどいいよ」
なんにでも手が届くから、横着してずっとリビングにいた。寝室にしていた一部屋がまるごと余っていて、ベッドがあるほかは荷物置き場も同然だ。
このベッドを紫苑に使ってもらって、私はリビングにソファベッドを買うつもりだと話すと、紫苑は「いやいやいやいや」と手を振った。
「先輩はベッドで寝てください。あたし頑丈なんで、ベランダに寝袋でも大丈夫なんすよ。一部屋貰っちゃうなんて申し訳ないし、リビングの隅っことかに巣をつくらせてもらえれば……てかべランダめっちゃ可愛い! 広い!」
暮らし方を検討しながら、紫苑はバルコニーまで歩いて行った。
そこが私の一番のお気に入り。
半円形にせり出して、洋風で瀟洒な雰囲気。面積も三畳ほどあって、ガーデニングをめいっぱい楽しめる。
今は鉢植えが少し並ぶ程度だけど、これから育てていくつもりだ。
「マジであたし、ここにテント張って住めますけど!?」
「待って、それじゃあ花が育てられないじゃない」
「あーそっか、そりゃダメだ」
「私ね、ここに芝生敷くつもり。整ったら、天気のいい日は、ここでごろごろするの。いつでもピクニックできるようになるの」
「最高! ぴっかぴかの朝、サンドイッチ作って、コーヒー淹れて、パジャマのまま芝生のベランダでブランチ!」
「そうなの、そうしたいの」
「えーいいな、あたしかわいいワンピのパジャマ買います。今はスウェットしかないけど絶対買う」
私が理想に思う暮らしに、紫苑も共感してくれる。それが嬉しかった。
「先輩、家に帰っても『お花屋さん』なんだ。なんかいいな」
「うん。好きだから。でも、紫苑さんは疲れない? 帰ってから仕事のことを思い出して気分転換にならないとか……」
「いえ、全然平気なタイプなんで。てか、そういう繊細さがあったら、職場の上司と暮らそうとなんてしないですよね?」
「……確かに」
私は笑った。今日は、ずっと笑っていた。
仕事でもそうだ。紫苑と一緒にいる時間が楽しくて。
そんなふうにして、私たちはお試しの一週間を共に暮らし──
そのまま、同居生活が続いていった。
紫苑が正式に引っ越してきた日に、伝えたことがある。
荷ほどきが済んで、すっかり紫苑の部屋らしくなった寝室。
リビングに新しく配置したソファベッド。
その頃はバルコニーは芝生に覆われて、私の理想の庭に一歩近づいている。
紫苑を招いて、一緒に景色を眺めた。
春の空を赤紫色に染めていく夕暮れ。まだ少し風が冷たい。
「紫苑さん。ここで一緒に暮らすにあたり、ひとつお願いがあるの」
「なんすか先輩。あたし、なんでも約束します」
紫苑は、まじめな顔をして私を見つめた。これからどんな条件を課せられても、それを達成しようという決意を瞳にたぎらせている。
私は、散々言うべきか否か迷ったことを彼女に伝えた。
「これからは、ベランダじゃなくて、バルコニーって言って」
紫苑の大きな目が、もっと真ん丸になって、それから弾けるような笑顔に変わる。
よく動く唇をおっきく開いて、明るい笑い声を空いっぱいに響かせる。
「あはは! たしかにベランダじゃ、なんかちょっと地味かも。こんな可愛いのに」
バルコニーにはお気に入りの庭。
一緒にいるだけでご機嫌になれる同居人。
素直な紫苑は甘えるのが上手だった。
私も、彼女の人懐っこさに甘えた。
生活は万事順調。想定していたようなストレスも感じることなく、同居生活は一年二年と続いていった。
土日祝はほとんど店に出て働き、平日に休みをとった。
お店の休みは水曜日で、私達にとってはそれが週末だ。
悪いことばかりじゃない。美術館や映画館は空いていて行きやすい。人気の喫茶店もだ。予約をとらずに気軽に足を運んで、気ままにのんびりするのは幸せだった。
一緒にお出かけするのも楽しいけど、私たちは家にいるのが好き。
同居生活も半年経つと、気づけば同じベッドで寝起きしていた。最初は冬の寒さに耐えかねて温もりを求めたのだけど、段々夜中のお喋りが楽しくなってしまって。
私達は早めにお風呂に入って、早めにベッドに潜ってスマホで動画を見たり、翌朝にはもう思い出せないくらいの取るに足らないお話をする。
誰かと暮らすのって、思っていた以上に嬉しい。
紫苑も同じ気持ちのようだった。
「あたし一人っ子で、親共働きで、家帰ってもだれもいなくて。家事全般はあたしの担当。だから、外には遊びに行けなかった。夜の九時とか、遅いともっとかなー、親の帰りを待って、キッチンテーブルで宿題とかして。一人で遊ぶのもぼーっとするのも苦手じゃないんで、まあよかったんですけど……あと、おかげで女子力ばっちりっす」
「うん。紫苑さんの料理、美味しくて好き」
「やった。てか、先輩がその見た目で家事が苦手なの、ズルいです。ギャップです。危ないです。でも、教えがいがあって嬉しいっす」
「危ないかー。気を付けるね」
「いや、危ないって火事とかじゃなくてですよ? 人に対してですよ? まあいいけど……」
「私ね、ここに来るまで、ひとりで何かしたことがないの。お庭をつくるほかには」
「第一印象からは意外でしたけど、今はぜんぜん不思議じゃないですよ」
どういう意味だろう。
でも、紫苑からは嫌な感じがしないから、ふんわり肯定されて、ふんわり受け止めて、勝手に嬉しくなってしまう。
お風呂上がりの紫苑は、いい匂いがする。
同じ浴室で、シャンプーもボディソープも同じものを使っているのに、私とは違う匂いがする。ヘアケア用品が違うから、その匂いなのかもしれない。
はちみつみたいな、甘くて暖かい香りが、私にとっての睡眠導入剤だ。
「子供んとき、留守番の日って、まあ一〇〇日あったら九九日は平気なんですけど、なんかたまーにすっごい寂しくなるんすよ。誰もいない部屋で、テレビの音だけ陽気で。でも、私以外に誰もいない。ごはんは先に食べちゃってて、親二人の分がテーブルの上でじっとしてる。……この部屋に、本当に他に誰か、一緒に住んでたのかな? あたし、生まれたときからずっとひとりで、パパもママも実は妄想なんじゃないかな? 誰も帰ってこないのに、誰かが帰ってくるつもりで、にせものの部屋で暮らしてる。そういう、やべー奴なんじゃないかな?」
私の頭の中に、紫苑が暮らしたリビングが生まれる。
LEDの照明が、テーブルの上を白々しく照らす。お留守番の子供が作った料理は食品サンプルのように浮かび上がっている。まるでおままごとの玩具みたいに。
女の子はひとりで、キッチンテーブルの椅子に腰かけて、足をぷらぷらさせている。
テレビのなかの芸能人が冗談を言って、スタジオが笑いに飲み込まれる。
つられるようにして女の子も笑い、すぐに表情をなくす。
思い浮かんだ光景に胸の底が騒めいた。
「そんなふうに不安になって、母親に鬼電するんすよ」
「……鬼電」
「ハイ。ストーカーばりに」
紫苑の子供時代は、すでにスマートフォンが普及して、小学生でもひとりで一台持っている子は珍しくない。留守番の一人っ子となれば、多少のリスクをともなっても、連絡手段として与えていたんだろう。
「で、母親は仕事で疲れてるんです。子供からの鬼電、最初は事故か事件かって血相変えて出てくれて、第一声に『紫苑ちゃん!? どうしたの!?』って、そりゃもう取り乱してて。あたしも寂しくて泣き声で要領得なくて、だから母はタクシー乗って飛んで帰ってきてくれて。ただ寂しくて泣いてたんだって分かると、魂がすっぽ抜けるくらい安堵してた。……でも、それが度々のこととなると、もううんざりですよね。母は仕事に打ち込む人で、でも子持ちの既婚者ってことで立場的にもどかしかったりして、はがゆい思いして、でも残業までして。なのに、帰りをせかすような鬼電に、責めるような子供の泣き声。イライラしただろうなぁー。まっ、タイミング次第ですけどね。悪い日に重なっちゃったってことも、あるんで」
母親のことは尊敬してます、と紫苑は言った。
「ある日、まあ母が大爆発しちゃって。そっからあたしは、母親にはもう迷惑かけちゃいけないんだって察して我慢の子になりました。でも、なんか気楽になりました。誰かが構ってくれるはずなんだって思い込みが消えて、夜まで親は帰ってこない、それがうちの当たり前だからって弁えることができた。期待ができないなら、求めたりがっかりしたりしないんです。それが当たり前って思えば、鬼電しなくても親が遅いなら勝手に寝るし、朝も勝手に朝飯食って登校するし。めっちゃドライで。割り切ってからは、今とかすごい楽ですよ」
すごい楽。その言葉に嘘は感じられない。
寂しいなと思う一方で、ちょっとだけ『いいな』と思った。
「あたしは、あんなに働けないと思うし。生きがいにできるほどの仕事を見つけられるの、羨ましいっす」
「お店は?」
つい、反射的にたずねる。
私は紫苑と働くのが好きだから、今の仕事を気に入ってほしかったのだ。
私達の職場は駅の南口にあるフラワーショップだ。
紫苑はゆっくり微笑を浮かべた。これまでのことを思い出すように。
「えへへ、あたし、花のことぜんぜん知らなかったでしょ。とにかく駅前ならちゃんとしてると思って、あのあたりでバイト先を探してたんです」
「どうしてうちに決めたの?」
人事面接みたいなことを聞いてしまった。
私は採用担当じゃないけど、紫苑に働いてほしい気持ちは分かる。
笑顔が明るくて、周囲の雰囲気を明るくするのだ。
店先の花たちも紫苑と一緒だともっと可愛く素敵に見える。
「先輩を見たら、ピーンときたんです。店先の先輩、すごいかっこいいんです。背筋がピンと伸びてて、お花のこと尊敬してるかんじがするんです。綺麗で可愛い女の子は結構見てきたけど、こういうかっこいい……えっと、勇ましいとか乱暴っぽいとかじゃないですよ? ただ、静かで落ち着いてて……他人のことに左右されないような、その、凛とした人。……自立してるかんじ。そういう第一印象があって、憧れたんです。かっこいいなぁ、この人のこともっと見てたいなぁって」
身に余る言葉は、嬉しいと思うよりも先に苦しくなった。
自立していて、落ち着きがあって、凛々しくて──という第一印象は、実際の私とは真逆に近い。私は、お味噌汁の作り方も知らなかった。生活に関するさまざまな手続きも、二〇代半ばを過ぎてから初めて自分で行うようになった。
遅刻するのが怖くて二時間も早く準備するくせに、もたもたしていて結局ぎりぎりになる。いつも、人が私のみっともないところばかり見ているような気がして怖い。
「まあ、それは第一印象で……今は、なんか放っておけないです」
「がんばるね、私も……」
「そーじゃなくて、嬉しいです。先輩のこといっぱい知れて、楽しいから」
お互いに、もう眠い時間だった。でも、会話が途切れるのを惜しんでいる。
「あたし、先輩のこと好きなんです。だから、嬉しい」
囁きを残して紫苑は眠った。
私も目を閉じる。でも、紫苑の声が最後まで意識を支配していた。
好きって、どういう意味だろう。
水曜日、午前九時。
休日の朝を『庭』で過ごす。
こだわって天然の芝生を敷き詰めた半円型のバルコニーに、ふたりして足を延ばして座ると、それだけで窮屈だけど、秘密基地みたいで楽しかった。
紫苑はワンピースのルームウェアを着ている。
私もパジャマのままだ。大きな襟のついたブラウスと、ゆったりした綿のズボン。
淹れたてのコーヒーの匂いが嬉しい。
朝ごはんはサンドイッチにして、青空の下で食べた。
言葉はない。私達は、夜のほうがお喋りだ。
朝の忙しそうな町の物音に耳を傾ける。
電車の走る音。近所の小学校が休み時間になった途端、蜂の巣をつついたように子供達が校庭に飛び出して遊び始める。
どこかで響くピアノの音に私の耳は吸い寄せられた。
紫苑も気づいて首を伸ばす。
「なんかピアノ聞こえる。窓開けて弾いてません? ま、昼間だしいいのか」
この時間帯なら子供というよりは大人か、ご老人が弾いている可能性もある。
「なんだっけこの曲、聞いたことある」
「花のワルツ。くるみ割り人形の」
「え、すごい。あ、花! さすが綺莉先輩」
「ああ、そうじゃなくて……」
紫苑は誤解している。
私が曲名を答えられたのは、花好きが高じたからじゃない。
「バレエの曲。昔習ってたの」
「お稽古してたんですか。先輩、似合いそう! えー、いいな、見たかったな」
「ずいぶん昔に辞めちゃったわ」
「動画、ないっすか」
「ないと思う……」
話を広げるべきか否か、少し迷う。
私は残りのサンドイッチを口に詰め込んだ。
だから、もうお話はできないわ、と自分にも言い訳をしているみたいだ。
紫苑は自分の母親の話をしてくれた。
そのあとで自分の境遇を話す気にはなれなかった。
私の境遇を聞いたら、紫苑は自分とは真逆だと思うかもしれない。
全然違うんだ、って。
そのせいで何か距離を感じてしまうのは、いやだ。
サンドイッチを流しこむために、コーヒーを飲む。
「……お花を好きになったきっかけなの。発表会をすると花束がもらえた。ロビーを飾るお花がいつも綺麗だった。私は、バレエよりもお花のほうに興味がわいてしまって」
「あはは、なんか想像つくなぁ」
お話は、ここまで。
空からもらった分け前のような、暖かく心地よい日溜まりのなかで、残りのコーヒーをゆっくり飲みながら、私は紫苑と分かち合う静かな時間を大切に過ごした。
バレエを辞めたいと言ったのは生理がきてからだった。
本当は、とっくにそれより前に辞めたかったのだけど、なにか母を納得させる材料が必要だと思った。いい機会になったのだ。
生理にすべて罪をかぶせて、私は母に許してもらった。
本当は、生理はさほど身体に影響を及ぼしていなかったにもかかわらず、母は娘からバレエを奪った原因を憎むかのように、私を頻繁に産婦人科に連れて行った。私は居心地の悪い思いで、嘘に嘘を塗り固めながら診察の時間をやり過ごした。
母は私のことをかわいそうだと言った。
本当なら、もっとバレエができたのに、って。
でも、その言葉は私のどこにも響かなかった。
私は花に惹かれた。
花はなにも言わないから。ただ、咲いて、枯れる。
バレエの稽古は厳しかったし、私は全然センスがなかった。
自分の身体を、思い通りに動かすのは難しい。音に合わせて踊ったり、決められた型をつくったり、様々なことを覚えて、繰り返し表現する。
それで得られる喜びが私には少なかった。うまくできなくて怒られるばかりだ。
先生は真剣な人で、プロを目指すわけでもないちょっとしたお稽古だから、という認識はなかった。母も、本当ならその道を目指してほしかったのかもしれない。母が少女の頃に諦めたものを、私に手に入れてほしかったのかもしれない。
私は単純に、叱られるのが怖かった。
私を否定する言葉に、ひとたまりもなく委縮した。レッスンで叩きこまれた振りつけよりも、先生が私を叱る言葉が頭の中を支配していた。
唯一の喜びは、花束をもらえること。ロビーに飾られた立派な花が見られること。
発表会に向けてすり減り、本番の緊張で消耗した私にとって、花束は気持ちを切り替える良いきっかけだった。次のレッスンまでは、いろんなことを考えずに済む。
この花が咲いているあいだは、気持ちを楽にしていられる。
母はずっとそばにいた。
主婦だった母は学校に帰れば私を迎えてくれて、さまざまなことをたずねた。
宿題があれば終わるまで監督し、稽古がない日もバレエのおさらいに付き合った。
バレエを辞めてからも母は娘にあれこれと助言を惜しまなかった。
放課後の時間の使い方。進学先や就職先のこと。
私ひとりでは何かを考え決めることなどできないのだと母は信じているようだった。
バレエを辞めたのは私が考えて決めたことではなく、体質の変化が影響して仕方なく訪れた結果なのだと今も信じ続けている。
母は私のことを心から愛している。
『私がすべて面倒みてあげないとこの子はダメだ』と思わせてしまったことが、苦しい。
近頃の母の心配は私の将来のことだ。
結婚もせず働いてばかり。出会いはあるのか、どうするつもりなのか。
ご近所の同級生の結婚式の写真や、母の友人の孫の写真が送られてくる。
幸せそうで素敵ね、と言葉を添える。
私が花屋に勤めたことを知ると、頻繁にギフトの注文をくれるようになった。
地元のご近所さんの結婚や出産のお祝いに届けるのだという。
そうして、『世の中にはこれだけおめでたいことがあるというのに、あなたはまだなの?』と暗にたずねているのだ。
私は知らない人の幸福を祝うブーケを作り、懐かしい町へと発送する。
* * *
物件の二度目の更新を前にして、紫苑が引っ越す日が決まった。
この部屋を出ていく日は、五月のカレンダーの最後の日。
「先輩に、あたしから最後のお願いです。花を選んでくれませんか、全部」
なんの花かというと、紫苑の結婚式の花だ。
半年前に花屋に足しげく通う男性が現われて、そのうち紫苑と意気投合して、頻繁に家を空けるようになった。
紫苑は何度も私のことを好きだと言ってくれたのに、私から答えたことは結局一度もない。
だって。ほらね。やっぱり。
こんな暮らしがずっと続くなんて、夢みたいなことあるわけない。
自分が幸せでいた日々のほうが、なにかの間違いだったのだ。
咲き続ける花はない。枯れる様子にいつも胸が痛む。
だから、盛りのうちに摘み取って、一番きれいな一瞬を胸に焼き付けたいと願うのだ。
相手は人の良さそうな男性だった。優しそうだった。理想的だった。紫苑と明るい家庭を作って、末永く愛してくれそうな、そういう未来像が容易に想像できるような。
親しくなっていく二人を見て、私は寂しかった。置いて行かれる気持ちだった。
一人の部屋で過ごすとき、紫苑の話を思い出す。
紫苑の子供の頃の、にせものの部屋のこと。あの部屋の中に私がいた。
紫苑は、幸せになるべきだ。
私と一緒にいても手に入れられないものを、まっとうに手に入れて、まわりから認められて、不安も心配もない生活を得るべきだ。私なんかが紫苑の人生を切り取ってお皿に載せて貪るような、そんなことは許されない。あの子は私のものじゃない。
――じゃあ先輩はあたしのこと嫌いなんですか。
そう尋ねる紫苑にびっくりして何も言えなくなってしまった。
私は紫苑が好きだ。自分のものにしたかった。
どこにもいかないで、ずっと一緒にいてほしかった。
誰か一人をこんなに特別に感じたことはない。
同じように、特別に感じてほしかった。
でも怖かった。
だって、そんなの、許されない。
私は、幸せに値するどんな努力も足りてない。
こんなになんにもない女に、そんな幸せが許されるはずがない。
そういうふうに、自分で決めた。
自分の幸せの限界を決めて、結局紫苑を傷つけたのかもしれない。
あなたは幸せになって。
そう願った私に、紫苑は困ったように笑ってこたえた。
――そんなに言うなら、先輩の気の済むようにします。
――あたし、先輩のこと大好きだから。
紫苑はすぐに彼と入籍して、結婚式の日取りも決めた。
結婚と同時に同居を始めるため、この部屋を去っていく。
荷物は段ボールが三箱、ほとんどが衣類だ。あとはすべて私との共用だったから。
彼女の私物は少なく、それらはすべて私達の私物だった。
あれからもう一回、部屋の契約を更新した。紫苑は、この部屋に今も『紫苑』を残している。本棚に。食器棚に。姿見に。ドライヤーに。カーテンに。冬の毛布に。夏のラグに。彼女が選んでこの家に置いたものすべてに、まだ紫苑がいる。
結婚式を最後に会っていない。
SNSでの繋がりが続き、彼女の時間が動いていくのを見守ってきた。
私は時が止まったままだ。そうしていれば、幸福だったあの時間をまだ感じていられる気がした。一人きりの庭で、朝の風の匂いをかいで、紫苑の笑い声が聞こえる気がして、耳を澄ます。
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