サリーとアンのワルツ_02
スマホで通販サイトを漁り、ドレスを選んでいるうちに、いつの間にか夜になっていた。吟味を重ねて選んだのは、真っ白なミニビスチェと、ブルーグレーのチュールドレスだ。
結婚したいかどうかと言われると回答に悩むところだが、結婚式をしたいかと言われると結構積極的に「うん」と言えるかもしれない。
要するにパーティーがしたいのだ。可愛い服を着たいだけなのだ。
サリーも私も体型が似通っていて、お互いドレスの交換もできる。
どっちも可愛いドレスだから、シェアするのは大賛成。
発送届が来てから、サリーは飼い主の足音を聞き分ける犬みたいに、ドアの外を誰かが歩くたびにそわそわしてインターフォンのカメラを覗いた。
注文から四日後の土曜日。
午前中に届いたドレスを、私達は早速試着した。
サリーの肩は儚げに華奢で、脚も細くて長い。
均整の取れた身体に、ミニ丈のビスチェドレスは良く似合った。
私もチュールドレスのふんわりした裾に浮足立った気持ちになって、何度もその場で回ってみた。くるくるくる……ふわっ、ふわふわっ。
全円スカートの裾のひらめきが美しくて、何度も何度も回る。
くらくらしてベッドに身を投げ出して笑う。
二人ともスカートの裾をふくらませるのに夢中になって、居間中の家具という家具を壁に寄せて、なんとかして空間を確保した。
出窓に飾ってあったオルゴールボックスを久しぶりに開く。
花のワルツが聞こえてくる。
サリーと同居を始めるときに記念に贈ったものだ。あの日はクリスマスだった。
窓から差し込むのは初夏の日差し。踊っているうちに汗ばんでくる。
「はあやばい、楽しい」
「わかる」
手を繋いで踊る。
遠心力にひかれながら、お互いを手放さないようにしっかり握りしめた。
お互いのドレスの裾が膨らんで、やわらかくぶつかって、また広がる。
蕾が開いてまた閉じて、何度も花開くみたいだ。
気が済むまでくるくる回る。繰り返し咲いて、萎れ、また花開く。
乱れまくったヘアセットを直し、自撮り棒を携えてバルコニーへ出た。
いい天気だったので、空を背景に写真を撮る。
手を繋いで、身を寄せ合って、自撮り棒で高く掲げたスマホのカメラを見上げる。
何度もシャッターを押した。こんなに写真を撮ってどうするつもりなのか。それは分からない。ネットにアップするつもりもないし、友人に送りつける宛てもない。
ただ、この瞬間があったよって、とりあえずの証拠を残すみたいにシャッターを押す。
シャッター音の合間に、ふたりのくすくす笑う声が紛れる。
ふいに、頭上から花びらが降ってきた。
赤、白、ピンク。
雪がはらはらと落ちてくるみたいに綺麗だった。
あっ、と思って二人で見上げると、階上の住人さんがこちらを見下ろしていた。
穏やかな雰囲気の、品の良い感じが一目で伝わってくる、年上の女性だ。
「おめでとう」
彼女は微笑んで、私達に花びらを降らせる。
私は不意に声を詰まらせてしまって、何も言えなくなった。
けど、サリーが「ありがとうっ!」て、十分すぎるほどの大声でお礼を返す。
「私たち、結婚するんです」
「とても素敵! お幸せに」
「はい。あなたも!」
サリーの声はよく通った。
見知らぬ人に急に親切を受けたとき、どうしていいか分からなくなる。
私は何も返せないし、そうされる価値もないと、常にどこかで思っている。
だからつい持て余して、届けられた真心を手のひらの上で転がして、困ってしまう。
でもサリーはそれをちからいっぱい握りしめて、自分のものにできるのだ。そうして、ただ心を返す。感謝の気持ちだけで誰かを幸せにすることが、サリーにならできる。
しばらく降り続ける花びらを楽しんだ。
サリーは素直な心の動きに突き動かされた様子で、私の頬に頬をくっつけ、そのままキスをした。
燐寸を擦って、ぽっと火が灯るような。そんなふうに、胸の奥が熱を持つ。
サリーは、家族よりも一緒に居たいと思った人。
世界が終わる日が来るなら、その日を共にしたいと思った人。
私はずっと『普通の恋愛から逃げたのだ』と自分を責める気持ちが、拭えずにいた。でもこれだって、きっと普通の恋愛だった。恋愛じゃなくてもかまわなかった。好きな人と一緒にいる。さいごまで。そういう願いを叶えるために、多分今日まで、いくつも勇気を出してきた。誰にも言わない。自分だけの。でも今、それを『よくがんばったね』と褒めてもらえたような気がして泣きたくなった。
名前も知らない人に。
私たちはちゃんとカップルに見えていて、今結婚式を挙げているのだと、彼女の目にはそううつったのだと、それがわかって、嬉しかった。病めるときも健やかなるときも……神さまに誓うなんて途方もないけど、それなら、あの人になら誓ってもいい気がした。
「ごめんね、アン」
「なに?」
「私、同棲を始めるときにアンをママに紹介したでしょう」
「うん。覚えてます」
少し落ち着かない気持ちになった。
サリーには負い目を感じてほしくない。
私は、私の選択を、サリーを選んだことを後悔していないから。
「あの日アンのことを『友達』って紹介したこと、後悔してる。あのね、ちゃんと言えばよかった。私の恋人なんだよって。大好きな人だよって。友達同士で気楽に始めたルームシェアじゃなくて、一生一緒にいるつもりなんだよ、って。でも、あのとき、そんなこと言って、アンがママに傷つけられたらどうしようって不安で言えなかった。だけど私が傷つけちゃったら同じだよね」
「そんなの、私も……」
サリーの親と食事をした後日、私の親にもサリーを紹介した。
物件を借りる時の保証人として親の名義を借りた手前、誰と一緒に暮らすのかを伝えておくのは義務だった。私の母は疑わず、サリーを私の良き友だと認識した。そして、このルームシェアはどちらかに恋人ができるか結婚するかのタイミングで幕を閉じるのだと信じていた。
私の母は、真剣に話せばきっと分かってくれる人だ。
でも、以前にサリーが私を『友達』と紹介したことが尾を引いていた。
もしかしたらのぼせているのは私だけで、サリーにとっては私は友達なのかもしれない、という不安があったから。
もちろん誤りではないのだ。私とサリーは友達。それは間違いない。恋人との両立は可能だ。だから、別にそれでも構わない、と思う一方、確たる証拠が欲しくもあった。
しかし、それを欲しがらないことが何よりの証明なのだと強がっていた。
「アン。一緒にいようね、さいごまで」
「はい。私でよければ喜んで」
私たちは額を寄せ合い、こつんとくっつけあった。
喉の奥からくすくす笑いを膨らませて、晴れ晴れと楽しい気分になった。
じゃれあいの延長のキスは、誓いのキスの格式の高さには全然及ばない。
けれど、私達にはお似合いだ。
知らぬ間にサリーは撮影を動画に切り替えていて、スマホの画面の中にも、はらはらと舞い散る花びらが納められていた。
*
「こんな生活ができるなんて、あったとしても老後だと思ってた」
じっくり煮込んだブロックの豚バラは、フォークで簡単に崩れる。
一緒に煮込んだのは、レンズ豆、ひよこ豆、いんげん豆。
千切りにした玉ねぎと、大きめに切ったにんじん。
コンソメをベースにして、ハーブを適当に選んだ。
この料理の肝は、ただ煮込むこと。
根気強く、じっくりと、のんびりと待つこと。
一度しっかり冷まして、それからまた弱火で加熱する。
昼過ぎに仕込みをはじめて、映画を二本くらい流しながら調理をして、夜がきたら食べごろだ。
仕事をしていたら、料理を始めるのは十九時を過ぎてからになる。
休日でもなきゃ、こんなのんびりした料理は作れない。休日だとしたら、こんなにだらだら料理をしている暇もない。
今、時間を気にせず、サリーとかわりばんこに料理を作るのはとても楽しい。
サリーがお昼に使い残した野菜が、私へのお題のようだ。
今日は玉ねぎとにんじんが余ってた。常備しているお豆もそろそろ使いたい。
ブロックの豚バラを買い足すだけで、なかなかの御馳走が出来上がる。
「結局ね、豚バラというのは油の塊なのだよ。すなわち、罪。ああ、罪」
嬉しそうに歌うように、サリーが舌鼓を打っていた。
「罪のお味はいかがですか?」
「最高。有罪」
有罪判決を受けた私も、自らの食事にフォークを突き立てた。
お肉の繊維にそってほろりと崩れる柔らかさ。嬉しくなって頬が綻ぶ。
テレビでは相変わらず物騒な事件が報道されていた。
テレビ画面には大きく『あと九十九日』というテロップが表示される。
残された日々をどう過ごしますかとアナウンサーが問いかける。
「まだあと三か月もあるんだなー」
「長いような……長いですね」
「ね、結構ある」
シードルのおかわりを注いで、バゲットを切り分ける。
スープに浸して食べると美味しい。
「最後の晩餐もこれがいいなあ」
「覚えていたら作りますよ」
サリーはお肉を頬張りながら嬉しそうだ。
こんなふうに、お互いにニコニコと過ごせる日々が続くとは思わなかった。
忙しかった私たちはいつも青白い顔をして、降りかかる様々な難事に悩まされて眉間にしわを寄せていた。息抜きをしなきゃいけないから息抜きをして、遊ばなきゃいけないから遊んだ。仕事の合間にそれくらいしなければ、自分の人生に言い訳が立たない気がした。
でももう重荷は全部下ろしてしまった。全部、大丈夫になった。
もう大丈夫。
今になってみれば、人生が百年も続くと思うからしんどかったのかもしれない。
『とうとうあと百日を切りました。今後の対策についてこれから中継が入ります』
「私ね、わりとね、明日死んでもいいかも。結構満足」
「そう考える人が多くて、最近また急増しているらしいですよ」
「さっき死んでもよかった。アンのほっぺにチューした瞬間さ、『今が最高~!』って思っちゃって、このままアンと抱き合ったまま身投げしたくなっちゃった。でも三階は微妙だから」
「高さに不安がありますね」
「そうなの。死にきらなかったら面倒だし、痛いのはヤだし。まあ、せっかくだから最後まで見てみるのも悪くないかもしれないし」
珍しくサリーが饒舌だった。
お酒のせいかもしれない。結婚式に浮かれた気分が、まだ残っているのかもしれない。
私は嬉しかった。サリーがこんなに言葉を惜しまず喋る日は滅多にないのだ。
いつも気ままな猫とかご機嫌な犬みたいで、私はただサリーの気分に影響されて、嬉しかったり寂しかったりする。大好きだから、嫌われるのが怖くておどおどした。
私は、サリーに私をずっと好きでいてもらう自信がなくて、今はよくてもいつか失望されてしまう日が来る気がしていた。その日のことを想像して怯えたりして、幸せなのにいつも不安だった。
今はもう、不安は少ない。
「終わらない日曜日だなぁ」
「もうすぐ終わるんですよ。あと九十九日で」
「うん。それまでは毎日が日曜日」
サリーはふいにソファを立って、出窓のオルゴールボックスを開いた。
ワルツが流れる。
かすかな旋律の邪魔をしないように、口をつぐんでいた。
最初は軽快に流れていたメロディも、やがて緩慢になり、途絶えてしまう。
私達も今、ネジを巻く人を失って、終わりに向かって回転をしているオルゴールかもしれない。旋律はゆるやかになっていく。そのペースが、今、とてもちょうどいい。
今までが早すぎたのだ。
私達は、そんなに早いリズムに合わせて踊れなかった。
「明日も結婚式しようよ~。ドレス交換してさ、公園まで行って写真撮ろうよ」
サリーは酔っぱらった頬を私の肩に押し付けてくる。
提案はちょっと恥ずかしい気がしたけど、この際構うものか、だ。
やりたいことは、全部やろう。
「いいですよ。午前中に行きましょう」
「約束ね。楽しみ」
いまはマイペースにのんびりと踊れるから好きだ。
このまま音が止まるまでは続けられそう。
ほら、もうとぎれとぎれになっている。
ゆっくり踊ろう。大丈夫、もうじき全部終わるから。
***
花のワルツが流れている。
図書館で借りてきた古いCDが、ポータブルプレイヤーの中で回転している。
時折ノイズが混じり、音が途切れた。ちょうど、レコードの針が飛ぶように。
七日前から朝は来ない。
空に穴が開いたあの日から、もう色んなものが終わってしまった。朝も、昼も。
ごうごうと風が吹いている。去年の巨大な台風を思い出すけど、それよりもずっと大きくて強い力が働いているみたいだ。
私たちは手に手を取って、バルコニーに立っていた。
気を抜くと飛ばされてしまいそうだから、お互いの身体をしっかり抱き寄せて、手を繋いで、バルコニーの格子にしがみついていた。
物干し竿はいつの間にか吹き飛んで、菜園の野菜も全部どこかへ消えた。
マンションは二階まで浸水して、階下の様子は定かでない。
このバルコニーから見慣れた街並みは、もう大部分が水に浸っていた。
こちらへ向かってくる大きな竜巻みたいなものが見える。距離感が分からなくて、まだずっと遠くにあるようにも、恐ろしく間近にあるようにも感じられた。
溶けたバニラアイスみたいな月と、逆向きに流れていく星。雲が渦を巻いて、空の穴に飛び込んでいく。
部屋では花のワルツが流れている。これでもかという大音量で、とびきりに奮発したスピーカーから、華々しいクライマックスを飾る荘厳な演奏が響いている。部屋は真っ暗で、貴重なバッテリーにはスピーカーだけ繋いでいる。
私たちの格好を、第三者が見たら呆れただろう。
避難する意志が全くない、チュールドレスとミニビスチェ。
風にあおられて膨らむ花びらのようなスカートが、足元にばたばたとまとわりつく。
何か低く響くのは、地面か、空か。
私たちは寄せ合った身をさらにくっつけて、離れまいとする。
街が粉々になって、きらきらと輝きながら、空へ舞い上がっていく。小さな塵に見えたそれは、目を凝らせば線路沿いの看板だったり、老人ホームの送迎車だったり、無数の電線を引きずった電柱だったりした。
遠くで爆音がして、地響きが伝わる。
風にあおられた髪とドレスが、私たちの身体を危うく虚空へさらおうとする。
それでもまだスピーカーは花のワルツを奏でている。
もしかしたら、ずっと同じ音楽を聴いていた私の錯覚なのかもしれない。
だとしても、私の耳には演奏が聞こえる。
びゅうびゅうと、嵐が暴れくるっている。分厚い雲の向こうで閃くのは稲光だろうか。
でも、それもこれも大穴に向かって吸い込まれていく。
全部終わるのはいつだろう?
私たちの終わりが今日だとしても、この大仕事はまだ続くに違いない。
風に巻き上げられた水が雨のように降りそそぐ。もう、暑いとか寒いとかも分からない。ただずっと胸がどきどきして苦しい。目前の光景に圧倒されて、息をするのを忘れているから。
ぎゅっと手を握った。サリーも握り返してくれた。
すぐ間近にあるサリーの顔は、まっすぐに街を見つめている。
何か大いなる存在が、この惑星の上で掃除機をかけているような、すべてが吸い込まれていく様子を見守っている。
もうじき私たちも、あの穴の中へいくだろう。
ふいに、先日私たちに親切にしてくださった四階のご婦人のことを思い出した。
あの人も、まだマンションの一室にいて、もしかして同じようにこの光景を眺めているのだろうか。彼女が今、一人でいないことを、そうでなくても孤独を感じていなければいいと、勝手に願った。
「もうすぐ、おしまいだ」
サリーが呟く。
そこには悲嘆も恐怖もない。
今日はいい天気だ、というほどの喜びもない。
目に映る事実を、事実のまま言葉にしただけ。
だから私も、単純な相槌をうつ。
「うん。さいごだね」
そう言ってみて、自覚できたことがある。
予定通りにちゃんと終わってよかった、って安堵した。
もしも終わりが来なかったら、私たちは楽しく遊び惚けた日々を負債に思って悔いたかもしれない。でも今、やりきった思いでいっぱいだ。
街は激しく揺さぶられている。それなのに、胸の内は穏やかで清々しい。
私たちはほとんど頭をくっつけあって、囁き声で言葉を交わした。
ああどうして今、身体が溶けあってしまわないんだろうか。
だって、離ればなれにならないためには、そのくらいしないと難しそうだ。
身体を縄で縛りつけてしまえばよかった。
このまま、きつく絡めた指同士が癒着して、一個の物体になってしまえたらいいのに。
だけど、寂しいのはきっと一瞬だ。
私たちはどちらかを置き去りにすることなく、同じように終わるだろう。
「あのね、アン」
サリーが囁く。
凄まじい強風はすべてをかき消していく。
渦巻く風に乗り、ワルツの旋律が私たちを包み込む。
告げられた言葉はなんだっただろう。ありがとうとか、愛してるとか。もしかしたら、何も言ってなかったのかもしれない。
私たちは唇の先を触れ合わせて、なんだかおかしくなって笑う。
それが合図だったかのように、視界は真っ黒に染まっていく。
舞台に幕が下りるように。
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