サリーとアンのワルツ

サリーとアンのワルツ_01

 サリーが仕事を辞めて帰ってきた。

 なんの前触れもなかった。

 いつもなら私よりも遅く帰るサリーがもう家にいて、ずるずるに着古した部屋着姿で、エキナカのケーキ屋さんで買ったケーキをつつきながらテレビなんか見てて、日曜日でもこんなにリラックスしてないぞという様子。缶コーヒーが、それなりにいい匂いを漂わせている。

「どうしたの? なんのお祝い?」

 事態をまだ知らなかった私は、呑気なことを聞いた。

 サリーはさしたる感慨もない口ぶりで、

「打ち上げ。退職記念」

 と、答えて私にピースサインを向けたのだ。

「辞めちゃったの? 今の職場、気に入ってたんですよね?」

「うん。でもいいかなって。あと半年くらいなら貯金で暮らせるし」

「でも」

「もし、半年後になんともなかったら、それはそれでラッキーでしょ? そのときになったら、また転職活動するよ」

 当人がケロっとしているから、私も不安な気持ちが薄れていく。

 サリーの決めたことだし、実行済みとなってはもう何も言うことはない。

 すごいと思う。サリーは新卒から数えて四か所の職場を転々としている。

 私は二か所目。一回目は不可抗力の転職(倒産)だったので、自発的に職を変えようと思ったことはないし、自信もない。

 サリーは相変わらず身軽だなぁと思う一方で、最初に取り決めた『お互いに自分の財布は自分で管理』という掟が破られてしまう気がして不満でもあった。

 一緒に暮らすにあたり、どちらかに経済負担をかけないようにお互いで自立しておくこと。それが長続きの条件だと二人で考えたはずだ。

 でもサリーのほうが稼ぎがよかったから、蓄えもあると察しがついた。

 実際、働かずに半年も暮らせるなら大したものだ。

 さしあたっては、当面のんびり過ごすのだろう。

 ――明日は、サリーを残して会社に行くのか。

 そう思うと、なんかむしょうに、嫌だ。なんだか、連続ドラマの一番いい回を見逃すような気分だ。

 私も仕事は嫌いじゃないし、楽しいと思う時もある。

 でもサリーと一緒に過ごす家と、どっちが好きかと聞かれたら力いっぱい後者になる。

 サリーは平然とテレビを見ている。今日仕事を辞めてきたばかりの人間とは思えない。

 でもまあ、サリーはいつでもこんな感じか。

 ここへ引っ越してきた初めての日だって、もう二年はここに住んでますけどって顔して過ごしていたっけな――なんて懐かしく思い出す。

 テレビからは今朝から有名なビルの屋上で集団飛び降り自殺があったとか酷く物騒な報道が流れてくるけど、サリーの関心はケーキ一択。

 もしかして、今までずっと辞める理由を探していたのかな。

 今の職場に飽きちゃったとか、気に入らない上司がいるとか。

 これを口実にして、気分を切り替えるつもりなのかもしれない。


 ***


 サリーが無職を満喫している様子を横目に出勤すること一ヶ月。

 私も仕事を辞めた。

 初めて自分から辞めた。

 決め手になったのは、仕事を辞めたサリーが毎日楽しそうだったからかもしれない。

 毎朝出勤する私に、まるで寂しがりやの猫のようにまとわりつきながら「今日休んじゃいなよ。休むだけ。仕事はまた明日にしたらいいよ」などと言って誘うのだ。

 最初は、サリーがそんなに言うなら、一日だけサボっちゃおうかなって思った。

 魔が差したってやつ。

 でも、こんな状況じゃなきゃ私は律儀に出社しただろう。基本的に小心者なのだ。

 体調が悪いって言い訳を用意して会社に電話をした。

 そうした建前上、家から一歩も出ずに、ベッドの上で過ごした。

 結論から言うと『最高』だった。

 肩を寄せ合い、サリーと一緒にひとつのスマホを覗き込む。

 ウォッチリストに入れっぱなしだった映画を見た。

 デリバリーのピザを、お行儀悪くベッドの上に持ち込んで食べた。

 飲み終わったペットボトルが枕みたいに転がっている。

 ヘッドボードに接した壁には小さな出窓があって、カーテンの向こうで日が暮れ夜が訪れる様子が分かった。

 本当に、ほとんど丸一日ベッドの上にいた。

 普段の休日だったらこうはいかない。

 せっかくの週末、ずっと眠っているのが惜しくて何かと理由をつけて外に出た。

 買い物したりカフェに寄ったり、そういうのだって楽しかったけど、なにか義務感のある楽しみ方だった気がする。誰かに『私は充実しています』って言い訳するためのスタンプラリーに参加しているみたいだ。スマホに押印される証拠写真が、私が充実していた証だ。事実はどうあれ証拠を残して、私は満足して休日を終える。

 それに比べて、今日はカメラロールに一枚も写真が増えなかった。

 当然だ。何もしていないのだから。

 ゴロゴロしながら映画を見ただけ。

 サリーも私も下着同然の部屋着のまま、お尻丸出しで寝転がっていた。

 化粧もしない。寝癖も直さない。

 獣の子供みたいにじゃれあいながら、飽きたら眠る。

 起きて気が向けば映画を見る。

 映画そっちのけでサリーと触れ合う。

 そんな一日が、ここ数年で一番嬉しい日になった。

 次にこんなふうに過ごせるのはいつだろう。

 土日になれば友達と約束したり、チケットを取っていたコンサートに足を運んだり、そいういう予定が迫ってくる。もちろん楽しみなのだけど、気づくとそれにも疲れていたのだ。

 今日は、ぽこんと生まれた空白の一日。

 だから、何を惜しむこともなく無駄に過ごせた。

 スマホに証拠写真はない。この休日を、誰にも見せる必要はない。

「ねえ、アン。明日も休んじゃえば?」

 小悪魔のささやきに、私は耳を傾けた。

 一日は二日に、二日は三日に。三日は一週間に。

 私の休日は続き、いつしか理解した。

 辞めよう。辞めていいんだ。

 だってもう、働く必要がないのだから。


 ***


 無職になったこの機を逃さず、丁寧な暮らしに挑戦してみた。

 理科室の実験器具みたいなコーヒーメーカーに、フィルターをセットする。

 パッケージの可愛さを気に入って適当に買ってきたコーヒー豆を挽き、ゆっくりのんびりお湯を注ぐ。さっき沸かして、ちょっと放置してしまったケトルは、あちあちって感じではない。けど、サリーは猫舌なので、これで構わない。

 牛乳を半分も注いだら、ぜんぜん温いカフェオレになってしまうけど、寝起きのお腹を刺激しないほうがいいだろうし。

 コーヒーが溜まった頃、サリーがベッドのほうでもぞもぞ身じろぎするのが分かった。

 お布団を奪うと、いきなり太陽の下に連れてこられた吸血鬼みたいに身もだえして、「ぎゃあお……ぐぉぉ……」と被ダメージボイスを披露した。

 しばらくじたばたして、長い髪を振り乱したあと、急に全身の力を抜く。

 死んだ。経験値の上がる音がする。しない。

「起きてくださーいコーヒー淹れましたよー」

「わーいありがと」

 白いベビードールの肩紐を直して起き上がり、サリーはカーテンを開けた。

 六階建ての賃貸マンション、三階の角部屋は見晴らしもよく風通しにも恵まれている。

 この物件は、苦労して探し当てた、私たちのお気に入りだ。

 明け方の束の間を雨に打たれた町は、すでに快晴の空の下できらきら輝いていた。

 サリーは眩しそうに目を細める。

「もう何日になる?」

「今日で、一ヶ月かなあ」

「楽しいねぇ、アン。なんだか、ずっと日曜日みたいで」

 朝、目を覚ますと誰かがいる。

 ――という状況は、一緒に暮らしてからでさえ、あまり多くなかった。

 私たちは、忙しく働いてきた。

 働いているあいだ、無駄なことはできなかった。とにかく時間を捻出するのが難しくて、私は必要最低限の食事と睡眠だけで生きていた。

 せっかく同居を始めた恋人と過ごす時間も、ほとんどない。

 二人が過ごす時間は、夜、寝るとき。朝、起きてから。

 睡眠時間を除けば、トータルして二時間にも満たない。

 もっとも、夜も、朝も、どっちかが揃わないことは珍しくない。

 朝、目を覚ましたら片方がばっちり仕事支度を済ませており、今まさに出勤するところ、という場面も度々だ。夜だって、どちらかが寝入ってから忍び足で帰りつくこともある。

 お互いに、仕事優先で生活リズムはぐちゃぐちゃ。

 偶然噛み合ったときは、深夜にケーキを食べたり、レイトショーの映画を見て歩いて帰ってきたりしたっけな。夜遊びも楽しかったけど、翌朝に響くから、あんまりいいことじゃないんだけど。

 私たちは働き盛りで、お金がなくて、あったとしても心許なくて、働くことでなんとか大人ですよって顔をして、自分の暮らしを持つことができる。

 きちんと、自分の力で生活すること。それが、「結婚どうするの?」とたずねる親への武装だ。最近はもう、そんな問いかけも聞こえない。

 この一ヶ月は、とても規則正しく暮らしてきた。

 朝は七時に朝ごはん。十二時半に、お昼ご飯。夕ご飯は十九時。

 二十四時にベッドに入るから、深夜帯の番組は録画しておいてお昼に観る。といっても、最近は全然やってなくて、懐かしいドラマやバラエティの再放送ばっかりだ。

 かわりばんこに料理をする。面倒なときは出前を頼む。

 散歩のついでに、お弁当やパンを買うのも楽しい。

「洗濯機回しちゃうね」

 サリーは服を脱いで洗濯機に入れる。

「頼んだ」と答えて、私は食器を洗う。

 洗濯機をセットしたあと、サリーはお風呂場へ。

 食器洗いはすぐに済んだ。サリーのお風呂は洗濯物が終わるまで、あと三十分くらいは続く。


 ***


 雨季にしては、雨量が乏しい。

 先のことを見越して、もういいやって雨雲が役目を投げ出したみたいだ。

 今朝の天気は秋のはじめのような晴れ晴れした空模様。

 バルコニーで洗濯物を干す。

 この物件のお気に入り。広いバルコニーもそのひとつ。

 まるっこい柵に覆われた、洋風なかわいいバルコニー。

 広々としていて、物干しざおを二本掛ける余裕がある。

 室外機の上にプランターを置き始めたのはサリーで、ここ一ヶ月ほど緑が増え続けている。洗濯物を干したあとでプランターのトマトを採って、昼のパスタに入れるのだといってご機嫌だ。

 お昼ご飯の当番はサリー。

 二人で一緒に部屋の掃除をして、食材の買い出しに行く。

 平日の真昼間だ。人通りは多い。

 この街は家族で暮らしやすいらしく、親子連れの姿でにぎわっている。

 ビジネスマンや学生は、この時間は滅多にいない。各々判断が任せられているけれど、決定打がないまま普段通りの生活を続けざるをえないのが正直なところだ。

 仕事を辞めたばかりの数日は、やっぱり落ち着かなかった。

 くだらない理由で仕事を辞めた自分の判断を疑う気持ちもあったし、今後のことを考えて後悔が湧いたりもした。親にはまだ言っていない。心配をかけたくないし、厳しい言葉をかけられたら夢から覚めるように冷静になってしまう気がして怖かった。

 つまり私は今、夢見心地なんだろう。

 辞めてから数日経つと、同じような境遇の人たちの姿が目に付いた。

 制服姿のまま楽しげに歩いていく高校生のグループとか、おしゃれしてどこかへ向かうカップルとか、スーツ姿だけど妙に軽やかな雰囲気のおじさんとか。

 みんな、解き放たれて、平日の真昼間をすきずきに過ごしている。

 なんだか嬉しくなって、励まされる。



 サリーが昼食を作る間、ソファに寝転がってテレビを眺めた。

 先日、富裕層に宇宙の旅を提案するツーリストがいた。

 そして打ち上げられたロケットは宇宙で爆発して、乗員全員が死んだ。

 お金を巻き上げて、殺して黙らせるみたいな悪徳商法じゃないかって遺族の怒りの声が届いている。補填の約束を掲げたが、入金目途の時期が悪い。

 最初は一週間、次に一ヶ月、ついに半年後の期限を提示してきたのだとか。

 やっぱり詐欺じゃないか。そう言って憤る遺族と、ご心配なくお待ちくださいって言ってなだめるツーリスト。

 参加者はろくな訓練もしていない民間人だ。ロケットに乗ったのだって嘘っぱちで、参加者をただ殺害して死体を処分したのかもしれない。莫大な参加費を持ち逃げするつもりだったのだ。

 両者の対立はますます激化していくだろう。最後にインタビュー映像が流れる。

 参加者の母親が涙ながらに訴える。

『息子はもう戻って来ません、真相解明を望みます。この世界が終わる前に』

 続いてのニュースも海外から。

 大富豪がヘリに乗ってお金を雨嵐のように降らせたとか、それを奪い合って暴動が起きたとか、非日常的な光景が映画のワンシーンみたいに見える。

「お待たせしました~! トマトの冷製パスタのお客様~?」

 サリーのランチが届いた。

 新鮮なトマトソースのパスタを大皿から小皿に取り分けて、ちまちま食べる。

「すごいね、この映像。本当にリアルタイムのニュースなのかな。映画から引用した映像だったりして」

 唇をソースで汚したサリーが、テレビを見て呟いた。

「なんでそんなことするんですか」

「あのね、海の向こうはもう終わっちゃってるの。でもその事実を伏せるためにでっち上げたニュースを流すの。まだ世界はありますよ、って雰囲気を出すために。本当はもう、この街だけが生き残りなのに」

「無理だと思いますよ。SNSはリアルタイムで更新されてるし」

「そんなもんは、AIだよ」

 サリーは真面目腐って言う。

 が、すでに話題への興味を失って適当だった。飽き性なのだ。

『次のコーナーです』

 ニュースのBGMが露骨に明るい曲に変わる。

 笑顔満面のアナウンサーがフリップを持ってきて、朗らかに告げる。

『今週の終活応援団は~? 千葉県柏市から!』

 終活というのは高齢者に適応される言葉だと思うが、画面に映るのは六十歳ほどの夫婦だった。

 ――若い頃、かけおち同然で結婚し、赤貧の生活を続けてきた中松さんご夫妻。

 開業した中華料理屋は徐々に繁盛して、二人のお子さんにも恵まれ、末の子が昨年無事成人した矢先のこと。終わりに向けて心残りを晴らそうと、数十年越しに結婚式をすることになりました。

 中松夫人は純白のドレスに身を包むものの、露出した二の腕が気になるご様子。

『年甲斐もないけど、やっぱりねぇ、憧れてましたから』

 少女のようにはにかみながら、中松さんのもとへ向かいます。

 白いタキシードで決めた中松さん。

 この日のために白髪を染めました。お似合いの夫婦ですね。

『今日は一生の思い出が出来ました』

 中松さんも幸せそうに笑います。

『今日まで苦労かけっぱなしだったけど、お前と一緒になってよかったよ』

 普段はぶっきらぼうな旦那さんからの思わぬ愛の言葉に中松夫人も涙ぐみます。

『それでは最後の質問です。最後の日、あなたが一緒にいたい相手は誰ですか?』

『それはね、もちろん、この人です』

 えびす顔の中松夫人。旦那さんの目にも涙が光る。

『今日はおめでとうございました! みなさんもよい終末を迎えましょう! さて、週末のお天気です』

 コーナーを見るともなく眺めているうちに、パスタの皿は空になっていた。

 お湯を沸かしに立ち上がる。

 食後のコーヒーを淹れるためだ。

「ねえ、アン」

 週末の天気予報をぼーっと眺めていたサリーが、ぽつりとつぶやいた。

 そこに突拍子もない思い付きの気配を察する。

 私が豆を挽くゴリゴリした騒音が収まるのを待って、サリーは続きを口にした。

「私も結婚式したいなぁ」

「誰と、いつ、どこで」

「アンと。なる早。ここで」

「……好きにしたらいいですよ。付き合いますから」

 手元は慣れた手順通りにコーヒーを淹れながら、気持ちが浮足立つのが分かった。

 この心の変化をアンに悟られるのがなんとなく悔しくて、つとめて平静を装う。

 でも、口元は多分緩んでいたと思う。

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