合鍵とSNS
今朝、センセーショナルなニュースが流れた。
まだ中学生の女の子が二人一緒に自殺したという。
手を繋いでいたという。
感傷的な想像力を刺激され、SNSには今、ドラマチックな憶測がいくつも飛び交っている。
ストーリー性の高い悲劇的事件が皆の関心を集める一方、あたしは仕事を終えて寄り道もせず帰途につき、住み慣れた1DKのドアを開けて、ポストの中のそれに気づいた。
合鍵だった。
予感は的中した。そのことに、今更激しい痛みもなく、ただ疲労感にも似たなにかに身体を包まれる。
終わりが訪れた、その決定的な瞬間は、今日じゃない。
もっとずっと以前から、心変わりを打ち明けられていたから。
ここに、あたしと一緒に暮らしていた女の子は、もう二度とこの部屋には帰ってこない。その事実を鍵と一緒に握りしめて、あたしはやっと靴を脱ぐ。
ありふれた1LDK。書類の上では、駅まで徒歩九分。ベッドがひとつ、ソファがひとつ。こじゃれたローテーブルと、それを台無しにする室内干しの洗濯物。
当面の夕食のつもりで買い置きしているレトルトの炒飯が、一人暮らしにしては少し大きい冷蔵庫の冷凍室でかちこちになっているはずだ。キッチンを兼ねた廊下を抜けて、リビングに入る道すがら、電子ケトルの電源を入れる。
惰性の行為だった。そのお湯で何か飲み物を入れるなんて、そんな凝ったことを今はできるわけないのに。
この部屋にあるのは、ありふれた女の一人暮らしと、ありふれた失恋だ。
誰の関心を集めることもない。
いまさら激しく傷つくつもりもない。
あの子がいないこと以外、少しも姿を変えないこの部屋が、頼もしくて憎らしい。
「サリーがもういないのに、お前は平気な顔をしているんだな。薄情だ」
部屋に八つ当たりをしても、気が晴れるどころか益々落ち込んだ。
女の二人暮らしは気楽だ。なんでも分けあえる。
そう言ったのはサリーだった。
あたしはこだわりがないから、なんでもサリーにあわせた。
シャンプー、リンス、洗顔剤。化粧品や、消耗品。
シーツもタオルもスリッパも、サリーのお望みの通り。
ベッドはひとつ。枕が二つ。パジャマも服も、共有できた。
気が合うし、生活リズムも合うし、喧嘩をしても仲直りができた。
家族といるより気が楽だった。
しまいに生理周期まで同じになった。
『女の二人暮らしは気楽だね』
そう言ったのはサリーだ。
自分の最低限の私物だけ持って、あとはぜんぶ置き去りだ。
一緒に使っていたなにもかもを、未練なく放り出して去って行った。
身軽に出て行けるから、気楽だって言ったのか。
サリーは最初から、この終わり方を予想していたっていうのか。
一緒にいられる未来を、一緒に信じてくれなかったんだ。
いじけた気持ちが心を捻る。あたしは適当に荷物をソファに放り出して、その上に重なっても構わずに座り込む。
視界に映るものぜんぶが、サリーを思い出させる。
ここにはいないくせに、存在感だけが濃厚に留まっていて、まるで幽霊に見つめられているみたいだ。少しくらい、この部屋も一緒に空虚になってくれたら、気分も変わったんだろうけど。
サリーと一緒に過ごしたときのまま、少しも何も変わってないような顔をしているから、勘違いしてしまいそうだ。まだサリーがこの部屋に戻ってくるんじゃないか、って。壊れているものなんて、何一つないんじゃないかって。
何よりも、そうなることを願うあさましさに、自己嫌悪が尽きない。
ずっと、怖かった。
あたしたちは、友達。それとも?
証を形にできない恋人。だからずっと不安だった。
だけどずっと、幸せだった。
途方もない奇跡と偶然の結果、恋人になったあたしたちは、同じ部屋で日々を共にして、喜びを分かち合って、悲しみを慰め合って、愛し合ったというのに。
『あのね。アンのこと、前のほうが好きだった』
サリーの声が聞こえる。まだ鮮明に、耳の奥で響く。
なぜかサリーのほうが、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
振る側の人間のくせに、振られたみたいに泣いていた。
「あたしを変えたのはお前じゃねーか、このやろー」
ソファの座面に背中を預けて頭上を仰ぐ。
ありふれた天井と電灯は、すぐに瞼の向こうに消えた。
あたしはただ茫然としていて、あれから一滴も涙を流せないままだ。
途方に暮れて、疲れ果てて、泣き喚く元気もない。
前のあたしって、どんなあたし?
あんたと一緒に暮らす前のあたしって、どんなだったっけ?
あたしはそんなに変わったの?
愛する人ができた。その人に求められたら、あたしはそれだけで誇らしさを覚えた。誰かを好きになることが、あたしに自信を与えていた。恋をして強くなった、とまで言うのはさすがに大衆向けJ‐POPのようで陳腐だ。いや、でもほんと、J‐POP、良いよね、わかる。
わかるようになってしまったよ。
数多の歌手が歌う通りだ。
恋をするって幸せだった。
まだ少女だった頃は、そんなものに感動して涙するなど平凡で愚鈍な感性だと唾棄していたはずなのに。
今ではもう、あたしも平凡で愚鈍な感性の持ち主になってしまったというのか。
でも、サリーは素直に泣く女の子だった。
恋人が死んじゃう映画や小説に、感情移入できる子だった。
そんなサリーを、あたしは好きだと思ったのだ。
――そうだねサリー、あたしは変わった。
あなたの影響を、沢山受けて暮らしてきた。
だってあなたが好きだったから。
それをな。
『前のほうが好きだった』
そうですか、残念です。
目に浮かぶ。髪の毛をぐしゃぐしゃにして俯いて、涙を拭うあの子。
華奢な肩が震えていた。苦しそうに嗚咽していた。
そのまま眼球が溶けて流れちゃうんじゃないかってほど、長いこと泣いていた。
泣きたいのは、こっちだったのに。
あんなふうに泣かれたら、あたしは泣けないじゃんか。
あんなふうに大泣きできたら、すっきりするに違いない。
♪ピコン
空気を読まない着信音が、LINEメッセージの到着を告げる。
差出人はサリーで、お別れのあいさつや、あたしへの心配や、これまでの御礼を綴った長文のようだった。
読みたくないな、と思う。
あいつは、あいつ自身のなかでもう整理をつけている。
総括して、区切りをつけて、過去に置き去りにするつもりなんだ。
もう、進む先だけをまっすぐ見ている。
あたしは、まだ、ここにいる。
この部屋にいる。あんたの名残と一緒に、息詰まっている。
LINEのアイコンを避けて、親指がたどり着いたのはツイッターだった。
不特定多数がいつも通りの平和でおもしろおかしい日常を送っている、正常な世界の様子を眺めたら、あたしも平常心を取り戻せるのではないだろうか。
溺れる者が水面に手を伸ばしもがくような心地で、雑音じみた文章の羅列を追いかけていく。
見慣れないアイコンのやつがいるな、と思った。
《サリー@新生活頑張る》
お前かよ、と思った。
いつもの自撮りアイコンじゃない。今日は何故か、雲が浮かぶ青空の写真だ。
ご丁寧に、セピアフィルタでヴィンテージな加工をしている。
期間限定のフレーバーラテの写真をUPしている。勿論セピアでヴィンテージ。
今日で終わってしまうシーズン限定フレーバー。「今までありがと。だいすき」と添えられたメッセージ。ラテのことだろ。あたしへ宛てたメッセージと受け取るのはそれほど不自然ではないだろうが、イラつくから気づかないふりだ。……ほんとにラテのことかもしれないけどさ。
まだSNSでゆるく繋がっていることに、忌々しくもほっとする。だけどぎゅっと胸が痛む。
この部屋から消えたサリーは、これからも思いがけない角度から、思いがけないタイミングで、あたしを傷つけるのだろうか。
自分からブロックする勇気がわかない。まだ許されていたいと思う。
あの子の世界の一部でいてもいいのだと、未練がましく願ってしまう。
その執着心を自覚して、あたしはみじめな気持ちで横たわる。
「あ~……」
名前、あたしも『アン@ふられ女』にしたいな~~~。
試しにツイッターの名前欄を編集してみて、笑って終わりにした。
傷ついていますって喧伝したいわけじゃない。
アピールして、あの子の気を引きたいわけじゃない。
どこまでも身軽なサリーがうらやましい。あの春先の紋白蝶みたいに軽やかな彼女を、どうやって繋ぎとめておけたというのだろうか。
タイムラインを眺めていると、再び、例のニュースの記事が目に入った。
手を繋いで、一緒に線路へ身を投げた、中学生の少女たち。
二人の死を悼む言葉をまとめた記事だ。
このコメントを寄せた人の中に、直接の知り合いなんていないんだろうな。
二人のドラマに登場せんと声を上げた人たちは、今隣に誰かいるだろうか。
誰かと手を繋いでいるだろうか。その人と、どこまで一緒に行くのだろうか。
羨ましいんだ。
その先が終わりに繋がっているのだとしても。
最後まで手を繋いで行けたんだな。
あたしの手は、どこに繋がっているのかな。
右手にはスマートフォン。
左手には、ちいさな合鍵。
サリーのお気に入りの品々に囲まれて、サリーだけがいない部屋で、誰とも繋いでいない手で、あたしは明日からも生活を続けるのだろう。
若くて苛烈な感情に、鈍く痛む憧れを抱きながら、導く人もなき道をひとりで歩いていくのだろう。
あたしは目を閉じる。二人の若い命と、私の恋心に、黙祷を捧げる。
目蓋の裏に映る、あの子のかわいい笑顔に傷つく。
この部屋に、手を繋いで帰ってきたことがあった。
何度も、何度も、あの子と一緒に、手を繋いで帰ってきた。
何の心配事もなく笑っていた。
あの日の自分が、いま、心の底から羨ましい。
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