サリーとアンの秘密【02】



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「ただいまー」


 家に帰ると、山内家とは違い、すでに母親が家にいて夕食の支度を始めている。


 山内家では両親は完全に共働きで、母親も会社では責任のある立場についているから、ことによっては食事を用意するのは私の役目だった。


 でも、天野家ではそんな雑務は降って来ない。

 私は着替えもそこそこに、リビングの大きなソファに寝そべって夕方のニュースを眺めることができる。


「お帰り、さり。今日はどうだった? 学校で何かあった?」


「んー、いつも通りだよ。志望校調査やったの。

 陽子ちゃんが受験で外行っちゃうんだって」


「あら。折角付属なのにね。勿論さりは内部でしょ?」


「今のところはそのつもり」


「それがいいわよ、そうしなさい」


 それだけ言うと、母親はキッチンカウンターの向こうに引っ込んでいく。

 この家はキッチンまでおしゃれだ。

 山内家では見たことのないような調味料もいっぱい並んでいる。

 聞き慣れないカタカナの名前のラベルのついたやつだ。


 天野家は埼玉の南部の某市、駅から徒歩十分ほどの場所に一軒家をもつ、なかなか裕福そうな核家族だった。


 紗璃は一人っ子だ。

 杏も一人っ子だったから、そこは同じだ。


 父親はテレビCMで見るような、誰もがサウンドロゴを聞いたことのある会社に勤めている。

 母親は余暇を使って半分趣味のようなパートに出かけている。

 円満で幸せそうな、うまくいった家庭がここにあった。


 まるでドラマみたいだ。


 これがドラマなら、今はプロローグで、

 これからどんどん困難や理不尽に襲われるだろう。


 もっとも、天野夫妻が気づいていないだけで、

 その理不尽はもうとっくに天野家を襲っている。

 愛しい一人娘の中身が、赤の他人に変わってしまっているのだから。




 私は以前、グーグルマップで現在地を調べたことがある。

 自分がどこにいるのか、まだ分からなかったときだ。

 名前は知っているけれど立ち寄ったことのない町に、天野紗璃は住んでいた。


 それから山内杏の生まれ育った埼玉北部の某市の住所を入力して、両者の距離を測った。

 随分離れていたけれど、紗璃と杏には共通点が一つある。


 JR赤羽駅。


 そこが、二人の共通の乗換駅であるはずだ。


 以前の私、山内杏は、埼玉の北部からえっちらおっちら電車に乗って赤羽駅で乗り換えて都内の高校に苦労して通っている。

 その後転校したり引きこもっていなければ、杏は今もまだ赤羽駅を利用しているはずだ。


 天野紗璃の通う学校は赤羽駅から四駅程の、平日も観光客でごった返すような繁華街を抜けたところに位置している。


 彼女に会ってみたい、と思わなかったと言えば嘘になる。

 けど、やっぱり確かめるのが怖かった。


 これは夢ではないのかもしれない。


『私は以前、山内杏だった』という考えこそが妄想なのだろうか。

 現実には、山内杏なんて人間はいないのかもしれない。


 あるいは――。


 私が天野紗璃になってしまったと仮定すると、

 やはり山内杏の中にいるのは元々の『天野紗璃』本人なのだろうか。


 そうだとしたら、私は彼女に酷いことをした。


 自分の意思ではないとは言え、

 整った容姿に生まれつき、豊かな家庭で両親に愛されて育ち、

 友人関係にも恵まれた天野紗璃の人生を乗っ取ってしまったのだから。


 暗く冴えない猫背の山内杏の、

 地味で味気ない人生を押し付けられて、彼女はこう言うに違いない。


『こんなのいらない。あたしを返して、泥棒』って。


 ▼▲


 以来、私は赤羽駅に寄り道せず帰るようになった。


 見慣れた制服を見かけると、早足になって通り過ぎた。


 いつか、山内杏の身体をした天野紗璃が私を捕まえて、

 すごい形相をして私を責めるんじゃないだろうか、と恐怖していたのだ。


 その日は本当に偶然に、彼女を見かけて足を止めた。


「由香」


 中島由香がいた。

 綺麗に作ったポニーテールが懐かしい。


 ブックエキスプレスの新刊コミックスを平積みした棚の横。

 同じ制服を着た複数の生徒と一緒に、棚を覗き込んで指差して雑談している。

 数は四人だ。


 由香の身長は一五六センチ、平均的な女の子だ。

 その隣に、やけに背の高い女の子が立っている。


 どうしてその時気付かなかったかと言うと、

 彼女は高い背を恥じることなく姿勢を正して、胸を張っていたからだ。


 凜としていて、かっこよかった。


 それが第一印象だ。


 あれは誰だろう。

 あんな子、由香の友達にいただろうか。


 顔を見て、やっと気づいた。


 そこにいるのは山内杏だ。


 気づいたときには手遅れだった。

 山内杏は私を見つけて、目をまんまるにして、それから――


 笑ったのだ。

 にっこりと。


「由香、あたし用事あるからここで。また明日ね」


「お? うん。また明日~。これ、読んだら貸すから」


「おっけー。ゆっくりでいいよ」


「もう今晩中に読んじゃうって。じゃね」


 買ったばかりの漫画を胸に抱え、由香が宇都宮線のホームへ去っていく。


 構内に残った山内杏は、

 立ち尽くしたままの私のもとへやってきて、

 背の高さをあわせるように少し身をかがめた。


 確かにこの身長じゃ他人を威圧するわけだ、と客観的に理解する。


「ねえ。お話しよう。あなたも、あたしとお喋りしたいんじゃない?」


 山内杏の少しだけ低い声が耳元で響く。

 いつも自分が聞いていた声とはちょっと違って、

 知らない人の声みたいで違和感があった。


「あなたはサリー?」


 もう、聞かずにはいられなかった。


 私の質問に山内杏は頷いた。


「わあ、懐かしいな。じゃあ、あなたはアン。そうなのね?」


「う、うん……」


 とうとう出会ってしまった。


 山内杏の身体に入った天野紗璃=サリー。

 天野紗璃の身体に入った山内杏=アン。


 奇妙な縁で結ばれた二人の、運命の遭遇だった。

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