サリーとアンの物語
詠野万知子
短編:サリーとアンの秘密
サリーとアンの秘密【01】
これは私たちの秘密。
誰に言っても信じてもらえないだろうけど。
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赤羽駅構内の本屋さん。
そこが私たちのお決まりの集合場所だ。
少し早くについて、立ち読み防止に封がされた雑誌の表紙を眺めながら時間を潰していると、ふいに肩を叩かれた。
振り返ると、そこにはショートカットがクールな印象を受ける、背の高い女の子が立っていた。
彼女がにこっと笑うと、意外なほど隙のある表情になる。
私を見つけたのが嬉しいみたいに、私の名前を呼ぶ。
「アン。待った?」
今となっては、私をそう呼ぶのはこの世界に彼女一人だけ。
「ううん、そうでもない。サリーこそ急いだ?」
「へへ、ちょっとね。ね、今日はさ、駅出てお茶しない? ツタヤ寄りたいんだ」
「良いよ。お茶、どこにする?」
「ミスドでいいよ。おかわり自由だし」
「そだね。オッケー」
連れ立って改札を抜け、東口に出る。
私たちは自然と手を繋いで、歩きなれた街中へ繰り出した。
「今週はどうだった? なんかあった?」
「ううん、平和そのもの。アンは? 何か困ったことなかった?」
「私も、とくに問題ないよ。まあ、時々その一六八センチが恋しくなるけどね」
「そうだねえ……あたしも、たまに、その一四七センチが恋しくなるかな」
サリーを見上げると、彼女も私を見下ろしていた。
目と目があって、くすっと笑う。
これは私たちの秘密。
私の手を引き歩く、見上げるほどの長身を持つ、スレンダーな女の子、サリー。
彼女の持ち物から生徒手帳を探り当てれば、そこに書いてあるのは山内杏という名前のはずだ。
でも、彼女の本当の名前は
――半年前までは、彼女は天野紗璃だった。
順を追って説明しよう。
サリーに『アン』と呼ばれた私の名前は、天野紗璃。
でも、半年前までは、私は
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夏休みが終わって間もない頃だった。
山内杏こと私はそれまで冴えない女の子だった。
黒い髪は短くてがさがさの、肌の上にそばかすの散った、胸だって小さくて痩せっぽちの手足だけ無駄に長い、暗い顔をした女の子、山内杏。
名前の並びもすごく地味だ。
地味が服を着て歩いている。それも、地味な服を着て、だ。
そんなだから、朝起きて、声も出ないほど仰天した。
髪が長くてふわふわの、全体的に肌も髪も色素の淡い、目鼻立ちのくっきりした可愛い女の子が、鏡に映っていたからだ。
寝起きなのに不細工じゃなかった。
ふっくらした唇が、宗教画の天使みたいだった。
私は思わず唇に触れる。
すると、鏡の中の女の子も唇に指を運んだ。
「――誰」
鏡の中から声がした、と思った。
だって私が唇を動かして発した言葉は、聞いたこともない声で響いたから。
ここは私の部屋じゃない。
そもそも私の部屋にこんな少女趣味な鏡台つきのドレッサーなんか置いてない。
ベッドももっと、ニトリで買った適当なやつだったはずだ。
こんな、白くて猫足のかわいいやつじゃない。
出窓にはいくつもぬいぐるみが並んでいる。
ダッフィーだ。足の裏にミッキーの形の肉球がついてるやつ。
こんなグッズを買ったこともなければ、誰かにもらったこともない。
もしや、今日ってクリスマス?
私、誰かにプレゼントをもらったの?
この部屋ごと?
そうではないということは、壁にかけられた制服が告げていた。
夏休みが終わって間もない頃だった。
制服はサマーセーラーのワンピースだった。
――すっごく可愛いやつだった。
これ、ほんとに制服? 学校の?
そう思ってしまう程可愛いデザインで、
それを一目見て制服だと分かったのは、私が以前から「可愛い!」と羨望の眼差しで見ていたからだ。
受験しようかな、って思ったこともある。
でも、あの制服を着ている私の姿を想像したら、少しも似合わなくて、みじめな気持ちになって、志望校から外してしまった。
首をかしげながら袖を通す。
鏡に映った姿を見ると、私が密かに大好きなアイドルみたいで少し興奮した。
だって、ものすごく似合っていたのだ。
白いセーラーワンピースが。
そして、鏡のどこを見ても、見慣れた山内杏の姿はなかった。
私は本来、背が高いくせに姿勢が悪く、一重で切れ長の目が性格の悪さを顔に滲ませて、薄い唇が世の中に不満を抱いているかのように見える、冴えない女の子だった。
伸ばすのを諦めざるを得ない、硬くて針金みたいな黒髪を、短くすることでなんとか体裁を整えていた。
ワンピースとかフレアスカートとか、女の子っぽい服が似合わなくていつもパンツスタイルだった。
だから、制服を着るのが毎日憂鬱だったし、通勤列車で心無い中学生男子から「おかま」などとからかわれたこともある。(赤羽駅のトイレで泣いた。)
でも、どうだろう。今の私は。
ふわふわウェーブを描く長い髪。
まるで少女漫画みたいだ!
嬉しくなって、頬が熱かった。
そしてふいに気付いた。
これ、本当に私?
もしかして夢?
そうだ、夢だ――。
「なんだ夢か」
なら、何の問題もないな、と思った。
どうせ目を覚ませば、硬いベッドの上で白とか灰色とかの適当な布団にもぐった山内杏が、ひどい寝癖と一緒に洗面所へ向かい、指名手配書か運転免許証みたいな顔を鏡に映して、また新しい朝を始めることになるのだから。
夢の中でくらい、背の低くて、肉付きの柔らかくて、色白で、髪の長い、ゆるふわな女の子として生きていたかった。
「さりー。起きたの?」
ドアの向こうから女性の声。きっとお母さんだ。
でもこの子、母親のことをお母さんと呼ぶだろうか?
「おはよう、ママ。支度が出来たから、今いく」
「はい、おはよう。急いでね、パパが出かけちゃうから」
「はーい」
『さりー』と呼ばれたからには、やっぱりこの子は山内杏ではないのだろう。
私は通学鞄をあさり、学生証を見つけ出す。
そこには、鏡に映した少女の顔と、氏名、学籍番号と生年月日が記されていた。
同い年の女の子だ。誕生月が私と同じ九月だった。
氏名は、天野紗璃。
「いいな」
思わず呟いてしまう。
だって。
苗字が天野で、名前が紗璃。
『瑠璃色』の『璃』だよ? 完璧だ。
学生証は、思った通り、受験を諦めた中高一貫の付属高校だった。
だから、やっぱりこれは夢なんだと思った。
私は、山内杏とはまるで違う理想の女の子の人生を歩む。
そういうifストーリーを、何度も繰り返した妄想を、夢に見ているだけなのだ。
そう思ったまま、それから一週間が過ぎた。
▼▲
――これはひょっとしたら夢じゃないかもしれないし、交通事故に遭って昏睡状態に陥った私が見続けている長い夢なのかもしれない。
よくあるじゃない、そういうの。
ドラえもんのオチみたいなやつ。
私は天野紗璃として、憧れた女子高に通っていた。
どうやら紗璃は友達から『サリー』と呼ばれている。
その小柄な体格や容姿から校内でも目立つようで、すれ違う女の子から手を振られたりする。
だからといって、連絡先を交換しあうほどの仲ではないようで、とくに個人的な話をすることもない。
まず女子しか教室にいないのが不思議だった。
それに、オタクもギャルもインテリもスイーツもサブカルも、みんながみんなお互いのテリトリーを守りながら協調しあっている。
それは、注意深く観察すると、お互いがお互いに対していい塩梅に無関心なために保たれた均衡のようだった。
奇跡的なバランスに見えたけど、女子高ってどこもこうなんだろうか?
うちの高校では、ヒエラルキーが形成されて、顔の上により化粧品が乗ってるやつがクラスでデカい顔をしていたものだった。
この高校では、みんながみんな、マイペース。
もしかして、これを優雅と呼ぶのだろうか。
経験したこともないようなぬるま湯の教室の中、天野紗璃はみんなに愛されていた。
みんなで何か分け合ったときの余剰が出れば、天野紗璃が優先される。
天野紗璃の前に困難があれば誰かが手を貸す。
小さくて可愛い生き物は、皆から寵愛を受けるのだ。
私は身をもってそう理解した。
私だって、身近にこんな女の子がいたら可愛がりたくなってしまうだろう。
――驚くべきことに、誰も、天野紗璃の中身が変わってしまったことに気づかなかった。
私が天野紗璃らしからぬ言動をすると、「どうしたの?」と心配してくれる。
次第に私は、他者の反応を判断材料に、天野紗璃らしい言動を体得していった。
正直に言えば、興奮していたんだ、私は。
今までとは全然違う生活に、浮かれていた。
だって、山内杏といえば、背の高さが他者を威圧するのか、まず人がそばに寄らない。
小学生の頃から背が高かった私は、大人っぽく見えるという理由から、大人に放置されてきた。
面倒を見るなら、まずは体が小さくて弱そうな子が優先だ。
私みたいに三年生にして六年生と見分けのつかないような子供は、何においても容赦されなかった。
だから自然と、自分のことは自分でやる生き方を徹底した。
誰も私に手を貸さない。
それが大前提だ。
『山内さんはしっかり者ね』
そう言われると、手の掛からない子供でいることが誇らしかったけど、同時にすごく傷ついた。
その必要がなければ、私だってしっかり者になんてならなかったし、
その必要がないまま許されている女の子を見ると、羨ましくて憎かった。
人に弱音を言うことが苦手で、愛想笑いも下手くそで、友達は少なかった。
――元気にやっているだろうか、あの子。
私なんかに仲良くしてくれた、中島由香という女の子のことを思い出す。
あの子は要領のいい子だったなあ……。
思い出すと、胸がぎゅっと痛んだ。
不思議だ。
私は、天野紗璃の生活を楽しんでいるのだけれど、
置き去りにしてきた山内杏が今頃どうしているだろうと考えると、裏切っているような気分になった。
でも一体何を裏切っているんだろう、私は。
自分自身を?
それとも周囲の家族や友達を?
――本当の天野紗璃を?
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