10.シーナ
無音。
初めてそれを観た視聴者は、TVが壊れたのかと思ったらしい。一切の音声が排除された画面に映っているのは、どこかの一室で一人遊びに興じている幼児の背中。たっぷり10秒間、その子の後ろ姿を見届けた俺たちに、初めて一つの声が届く。
「―――あや」
佐倉恭介の娘が自身の名を呼ぶ声に笑顔で振り向くところで、暗転。スクリームキャッツ最後のアルバム『30』(タイトルは、27歳で急逝した佐倉恭介の没後三年で発売された最期のオリジナルアルバムであることにちなんで名付けられた)が発売されることを告げる文字列が流れ、CMは終わる。
音楽アルバムのCMにもかかわらず、ライブ映像でもなく、曲をダイジェストで数珠つなぎにするでもなく、無音・無音の状態から父親が娘の名を呼ぶたった一言のみを切り取った意外性も手伝って、『絶望を歌い続けたボーカル佐倉恭介史上、最も優しい“歌声”をリスナーに聴かせたCM』と話題になり、ネットを中心に称賛を集め、地方の一映像作家だった本郷新次郎は一躍メジャーになった。たった一本のCMを見事に当てた三十路のシンデレラボーイは、その後もヒット作を連発し、今に至る。
「才能のある人には、チャンスが巡ってくるものさ」
俺の言葉に、酒の入ったグラスを傾けるシンジローさんは謙虚に首を振る。アカネ、イブ、シーナは風呂に入っている。レノンは、部屋のどこかにはいるだろう。
「いや、確かに自分の腕に自信はあったけど、結局は運次第って気がするよ。僕より良いと思った人で、消えていった人は多いし。若手の頃は回ってくる仕事を選べないから、どれだけ良い素材が来るかのルーレットをやっている気分さ。僕は運が良かった」
言って、食前酒を傾けるシンジローさんからは、朴訥とした、金持ち生活になれない雰囲気がありありと伝わってくるから面白い。
「才能なんて言ったら、君にこそチャンスが来るべきだった」
やはりというか、俺にお鉢が回ってくる。
「その話はやめてくれ」
「説教じゃないさ。僕だって元ワナビーだ。覚悟を決めて、辞めると決めた人間に言うことなんて何もない。でも、君は成功すべきだったと思う。これは、僕の個人的な愚痴さ。ファン二号として、ね」
「感謝してる」
売れない映像作家として多忙を極めながら、偶然路上ライブに出くわしたことを機に俺の『ファン第二号』になってくれた上、ノルマとして課された一万円分のチケットの支払いでカツカツになっていたライブハウスでの演奏にも足繁く通い、毎回その模様をブログにまとめてくれていたシンジローさんに礼を言う。
こんな鳴かず飛ばずの、インディーズ未満ミュージシャンに最後まで付き合ってくれた。そうできることではないと思う。
「僕は堅い人間だからね。やると言ったらとことんやるよ」
胸を張って、酒を煽るシンジローさんに、俺はちょっと彼の地雷を踏んでみる。
「にしては、下半身の方は随分と緩いと見えますが?」
ぶっ、と酒を吹き出す。
「ちょ、サブくん、それは無いんじゃないかな?」
朗らかな表情は崩さずに、だがやや青くなった表情で言う。俺はほくそ笑み、追い打ちをかける。
「ミュージシャンのファンの女子高生をライブハウスからお持ち帰りって、どうなのかと思うわけだ、大先生よ」
柔らかな苦笑を浮かべ、降参するように両手を上げる大作家。
「もうダメだ。僕の負けだよサブくん。賞品は何がいい?」
笑いながら敗北宣言をするシンジローさんの両肩を強く掴む。
「な、なんだい?」
「シンジローさん、俺の“リベンジ”に付き合ってくれ」
シンジローさんは、嫌な予感しかしない、という表情を浮かべながら頷いた。
「はぁー、気持ち良かった。アカネさんの家ってお風呂おっきいですね」
「そんなことないよ。普通だって。それに、イブさん、結構あったじゃない。17だったら、まだ成長するよ」
「ははは……だと良いんですけどね。―――ってあれ?なんか音がする。キッチンの方」
「え?パパー、何かやってるの―――って、サブちゃん!?」
あはは、と困り顔で笑みを浮かべるシンジローさんを無視し、俺は一心不乱に餃子を焼く。
「サブ!なにしてんの!」
「リベンジだ。昨日のままで引き下がれるか」
「っていうことらしいよ」
「何呑気なこと言ってんの!パパが止めないでどうするの!」
「ごめんアカネ」
「あーあ、せっかくちゃんとしたものが食べられると思ったのに」
えらい言われようだ。一体俺が何をしたというのだ。
「サブ、あたしもやるー!」
圧倒的劣勢に立たされた俺に天使が舞い降りる。シーナが流し台で手を洗うと鼻を鳴らしながら張り切っている。
「今度はあたしも一緒に作ってあげる」
その混じりっ気なしの純粋さに不覚にも涙が―――零れるほどではないが、周囲の空気は一瞬で弛緩した。
「よし、もう作り始めちゃったものはしょうがない。みんなで作って、みんなで食べよう」
アカネは言って、シーナのセミロングの栗毛を纏めてやる。
「ちっちゃいエプロンはあったかな?」
探しに行くアカネに変わって、イブが前に進み出る。俺の隣で呟く。
「昨日と今日で、サブの色んな意外なところを知ったけど、こんなに意地っ張りなのが一番の驚きだった」
「そうか」
種を皮に包みながら言う。俺は焦げ目が良い具合についてきた餃子を皿に移しながら聞いている。
「あ、そうそう、服、ありがとう。私だってちゃんと素直なんだからね」
着替えたイブは、Tシャツにジーンズという軽装だったが、スレンダーな彼女には良く似合っていると思った。
「そうか。そうだな」
夕食の時間は昨日より、やや早かった。
「さて……」
この部屋の家主であるシンジローさんが最後の晩餐かと思える声を出す。
「どうなっているかな……」
何故食事に入るだけでこんなに緊張しなければならないのか。原因となっているのは無論俺のせいだが、やはり釈然としない思いはある。
テーブルに、皿が次々と並んでいく。卵スープやザーサイなども並んでいるが、やはりメインディッシュは餃子だ。つまり、これが不味ければすべては台無しだ。
「サブが焼いたのはどれ?」
イブが露骨に避けようとするが、アカネは無言で首を振り「ごめん、一緒にしちゃった」と最後通牒を突き付ける。
「まぁ、ちゃんとしたレシピ通りに作ってるんだから酷い出来にはなってないはずだよ。さぁ、食べよう。いただきます」
シンジローさんが宣言すると、箸を良く焼けた餃子に持っていく。それに続いて俺たちも続く。運命の実食タイム。鬼が出るか蛇が出るか。
カリッという、小気味良い音が食卓に響く、全員、しばし咀嚼し、飲み込む。
「「「「「美味しい」」」」」
五人共が異口同音にそう口にした瞬間は、思わぬガッツポーズが出かかった。
「え?嘘、偶然サブの作ったやつに当たらなかったのかな」
尚も疑念を捨てきれないイブが二個目を口に運ぶ。少し具がはみ出していたそれには見覚えがあった。
「それ、俺が作った奴だ」
「ええ!?もっと早く言ってよ―――あれ、美味しい」
きょとんとした顔で食べるイブに、シンジローさんが笑う。
「どれだけ不味かったんだい?」
「いや、本当に酷かったんですって!ねぇシーナ」
同意を求めた先には満足気なシーナの顔。
「みんなで作ると、美味しくなるんだねぇ」
間延びした声で言う。なんというか、そういうことなのだろう。シンジローさんもアカネもイブも笑っていた。それを見て、俺も笑っていたと思う。
小さな奇跡を発見した食事が終わり、後片付けの時間がやってきた。
「あたしがやっておくから、男子チームもお風呂に入ってくれば?」
「あたしもやるー!」
「あ、私もやります。アカネさん」
「うん、ありがとう」
俺はアカネの言葉に甘えて、風呂に入ろうとする。と、どこからともなくレノンが現れた。
「お前、どこにいたんだ」
レノンは首を後ろ足で掻きながら知らん顔している。
「あ、レノンだ。“家賃”買ってきたよ。今あげるからね」
シーナが言って、猫に近づいていくが、気まぐれなレノンはひらりと身をかわし、キッチンの方へ向かう。
「待ってよ、レノン!」
「シーナ、走らないで!床が濡れてるから危ない―――」
アカネが言った傍からシーナが派手に滑って転んだ。言わんこっちゃない。
「う~、痛い~」
仰向けになって後頭部を押さえている。シンジローさんが「大丈夫かい」と言いながら助け起こしに行こうとする。俺もキッチンを覗くと、涙目になったシーナが見えた。相当痛かったのだろう。ビー玉のような大きな瞳から涙がボロボロと零れ落ちている。
「ほら、大丈夫?血とか出てない?」
イブがすっと手を差し出しながら安否を確かめる。その上で、レノンが欠伸をしながら人間共がどやどやと集まってくる様相を眺めている。
「お前のせいだぞ」
俺が睨んでやると、素知らぬ顔でそっぽを向いた。
「―――あ」
あまりに衝撃的な瞬間は脳味噌がおかしくなるらしい。スローモーションの映像の様に、キッチン台の上に乗ったレノンが体の向きを変えると同時に、その尻尾で包丁を床に落としたのが見えた。そして、シーナの身体、胸の辺りに包丁が突き刺さった。
叫んだのはイブだったかアカネだったか、それは分からないが、俺の頭は妙に冷静だった。ここ数年で、人が死にかけるor死ぬ状況に何度となく出くわしているからかもしれない。
「シンジローさん、救急車。アカネ、清潔なタオルを持ってこい。イブは馬鹿猫をどこかにやっておけ」
すらすらと指示を出すと、仰向けになって動かないでいるシーナの傷の具合を看ようと、少女の上に覆いかぶさるように包丁の刺さった部分を見る。千円のプリントTシャツを突き破った包丁は、ほぼ垂直にシーナの右胸に突き立てられていた。深さはどれくらいか、心臓に近い方ではないから大丈夫か、などと考えながら、恐る恐る左手でその傷に触れ、右手で首筋の鼓動を確かめる。
数秒そうしてから、俺は顔を上げ、言った。
「―――シンジローさん、救急車は取り消しだ」
「ええと、住所はナゴヤの――――って、え?なんだって?」
慌て過ぎてしどろもどろになっていたシンジローさんが、俺の静かな声に驚き、訊き返してきた。
「救急車はもういらないって言ったんだ」
「はぁー、びっくりしたぁ」
俺が再度シンジローさんに言ったのと、固まったように動かなかったシーナが小さく息を吐き、のんびりとした声を上げたのは同時だった。
「シーナ!良かった、痛くない?」
「う~、頭が痛いよ~。イブお姉ちゃん、撫でて~」
レノンを抱いてどこかに行っていたイブが戻ってきてシーナを抱き起こす。レノンはというと、すぐ近くでこちらをじっと見ている。あれの処遇はまた今度考えるとして―――俺は、自分の指に付着した液体を見つめた。
「サブくん、どうしたんだい?それは―――!!」
背後からこちらを覗き込んできたシンジローさんが、俺の指、正確には、俺の指に付着したものを見て言葉を失う。
「シンジローさん、このことはどうか、誰にも話さないように頼む。できればアカネにも」
アカネはというと、大量に持ってきたタオルを盛大に落としながらシーナの方に駆け寄っているところだった。涙目で「ごめんね、あたしがちゃんと片付けてなかったせいで―――」と頭を下げるアカネに、シーナは相変わらず後頭部の痛みしか感じていないようで「ねぇイブお姉ちゃん、コブになってない?」と心配そうに訊いている。
「何があったんだい?サブくん、シーナちゃんはどうして何ともないんだ?」
「さぁな……」
外傷は無い。厳密には傷口から謎の白い液体が身体から漏れてはいるが、こんなものを救急隊に見せるわけにもいかない。
そして何より重大なのは、シーナから脈を打つ鼓動が、十秒以上、全く聞こえなかったことだ。
『死にたくても、死ねない人もいるんだよ』
最初に出会った時のイブの言葉が、頭の内側で反響を続けた。
[第二話 ネバー・ダイ・トゥー・ガールズ]終
続く
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