6.記憶と微睡み


 夢だと分かっていても、醒めることのできない類のものが存在する。それは悪夢と呼ばれる。

 父親が俺の目の前に中腰で立っている。十年ほど前、10歳の俺に、少し苦しそうな顔をして、今年の夏の旅行が無くなったことを告げようとしている。そして、それに続く言葉をどう紡いでいこうか必死で考えている。子供心にできるだけショックを与えない方法を探しているのだ。

 そんなことはしなくていい。10歳の姿で、中身が20歳の俺は、もう知っている。だから、そんなに辛そうな顔で言葉を選ばないでくれ。もう俺はその話を聞いて三日も寝込んだりはしないから。

「今年は、“なっちゃんの家”にはいかないことになったんだ」

「どうして?」

 俺は白々しくも訊いてしまう。口が勝手にそのように動いてしまう。

「―――なっちゃん、が……」

 口を噤む父親は、意を決したように言った。

「天国に、行ったんだ。死んじゃったんだよ」

 ―――死んじゃったんだよ。

(死んじゃったんだ。死んじゃったんだ。死んだんだ。死んだんだ。死んだんだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ)

 呆然とする俺の耳に、蝉が鳴き声が届いた。


 夢から現実がシームレスにつながっているように、まどろみの中、遠くで蝉が鳴く音が聞こえた。

 俺は、一階の仏壇部屋で、鼻をくすぐられる感覚に目を覚ました。恐らくレノンが舐めているのだ。あの駄猫は時たま餌の供給源が死んでいないか確認するように俺の鼻を舐めに来る。それと例の夢のお蔭で、ここ数年は目覚まし時計要らずだが、起きたい時間に起きられない生活には変わりがない。

「何の用だ?餌も水もまだあるだろう。トイレの砂も昨日変えたばかり―――あれ?」

 ぼやけた視界の中で茶色の毛玉姿を捉えようとしたが果たせず、代わりに右手が顔の辺りにある小さくて柔らかな指を掴んだ。

 そのまま、右手を枕元にある照明用のリモコンに伸ばし、電気を点ける。目を開き、首を動かす。時計は6時前。去年まで祖母が使っていた布団の上には俺―――と、シーナが右手に、イブが左手に、こちらの方に寄り添うように寝ていた。

 そもそも俺が祖父母の遺影が飾られた仏壇の部屋に布団を敷いているのは、二階にあるベッドをイブとシーナに貸したからだ。しかし、二人は今、俺の両隣で安らかな寝息を立てている。両者とも服が適度に乱れていて、イブに至っては若干の性的な色を持つ領域までボタンが外れてしまっているのは、俺が着なくなった寝巻を小さな体に無理矢理着ているからだ。うん、絶対そうだ。そうだと言ってくれ。

 シーナは、俺の脇の辺りまで顔を押し付けて、右手を服の裾、左手を俺の顔の辺りに付けて、イブはというと、俺の顔のすぐ横にいるため、寝息が耳にかかる。くすぐったくなってきたので顔をイブの正面に向けるのと、イブが目を開いたのが同時だったのが不幸の始まりだった。

 イブは寝起きが悪いのか(アンドロイドにも低血圧が存在するのかは分からないが)、うたた寝する雌猫のようにとろんとした目で暫く俺の方を見ていたが、ややあって覚醒すると、昨日会ったばかりの男と―――コブツキとはいえ―――一晩同じ床の中で過ごしてしまったという己の状況を理解し、徐々にその目が泣き出さんばかりの表情をとって見開かれていった。

「やぁ、イブ、よく眠れたか?まずは俺の話を聞いて欲しい」

 俺はなるべく穏当な結末に軟着陸させるべく自分の身体を抱くようにして震えるイブに話しかけたが、空しくも、その泣き怒りで上気した頭には届かなかったようだ。これには苦笑するしかない。

「なんてこった」

「それは……こっちのセリフだっ……!この変態!!死ねええええええ!!!」

 俺は静かに自らの運命を受け入れた。なっちゃん、どうやら、今日にも君の下に逝けそうだ。

 7月2日AM6:00、築五十年に届かんとする家が局地的な地震に襲われたかのように大きく揺れた。

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