4.イブ


 通称“桜の根本”。ナゴヤで最も地下深くを走る地下鉄サクラ通り線よりも、さらに深い場所にあるマンホールチルドレンの居住区が何者かに襲撃されたのは、今朝のことだったという。

「私は、三日前からそこで暮らしてたんだけど、今朝起きたら、大騒ぎになってて、ブルースさんからみんなを連れて逃げるぞって言われて」

 ブルース。“根本”を牛耳るリーダーであり、ナゴヤのマンホールチルドレン―――通称“野良猫”たちの“親”。週刊誌が取材した写真を見たことがあるが、普段はガイ・フォークスの面を被っており、素顔はほとんど誰も知らないという謎の男だ。

 居間の中央に置かれたちゃぶ台を挟んで胡坐を掻いて座る俺は、正座をして向かい合うイブから話を聞きながらお茶を一口飲んだ。

「襲ってきた人たちはシーナが目的らしくて」

 ブルースや“根本”の仲間と共に、しばらく追っ手を攪乱かくらんするような動きをした後にシーナを託される形で別れ、駅前の俺に話しかけたのだという。つまり、つい数時間前まで、俺が呑気に路上ライブをしていた場所の地下では、前代未聞の襲撃事件が起こっていたということだ。

 俺は左の頬を持ち上げ、失笑した。やはり、今日もナゴヤはイカれたことになっていたようだ。

「どうしたの?」

「いや、何でもない。そこで、今後の身の振り方だが、どうするつもりだ?」

「そのことなんだけど……」

 隣で一心不乱に弁当をかき込み、ようやく落ち着いたらしいシーナの満足気な笑顔をちらりと見た後に、伏し目がちにこちらを見るイブ。

「“根本”のみんなのことは心配だけど、私たちには何もできない。今は、シーナの無事が最優先」

 確かに、そうだ。

「ブルースさんから言われた。このことに関しては、警察もそのほかの施設も当てにできないって」

 警察が当てにならないとなると、やはりヤクザ関係かと思った。丁度イブが“根本”の住人になったのと同じ三日前、“捜し物”をしていたという安藤たち成宮組の連中のことを思い出す。

「それでね、あの……」

 喋りながら俯いていくが、やおら意を決したように、俺の顔を真剣な表情で見据え、言った。

「しばらく、ここに居させてもらえませんか?」

 やはり、そうなるか。俺は髪の毛が邪魔をする視界から、イブと、やり取りの内容を察したらしいシーナの不安気な目を交互に見たあと、静かに目を閉じた。

 相変わらず、心の声は「厄介なことになるぞ」の一点張りだ。

 碌なことにならない。

 日常が壊れるかもしれない。

 下手をしたら、死ぬかもしれないぞ。

 思いを巡らせていると、開けていた窓から、ふわりとした風が一陣舞い込んできた。目を開けると、視界を塞いでいた髪の毛が風になびいて目の前から消え、二人の少女の顔をはっきりと捉えさせた。ほかに頼るもののない目を受け止めた俺は、どこかから届いた夏の空気を一つ吸い込んで、声に変える。

「この家には、三つ目のルールがある。住む限り、しっかりと家賃を払わなければいけない」

 バス代すら払えなかったイブが「そうなんだ……」と項垂れる。俺は立ち上がると、キッチンの棚からあるものを出して戻ってきた。

「この家の“家主”の好物は、さっき弁当を買ったカネモトスーパーで売っている一個八十円の猫缶」

 俺は手に取ったモンプチを皿に開けると、床に置いた。すると、レノンがどこからともなく現れてそれを貪り始めた。

「一日一個。それがこの家で暮らすための“家賃”だ」

 イブの顔が再び持ち上がる。驚きに見開かれた目が、少し潤んでいた。

「それだけで、いいの?」

 イブの戸惑ったような声を受けて俺はレノンの方を見た。鮪の缶詰を貪っている雌猫が、満足気に一声鳴いた。

「家主はそれでいいと言ってる。問題はないさ」

「本当、に……?」

 イブが信じられないといったように震える口調で再度確認を取る。俺は面倒くさくなりながらも何度も頷いてやる。

「ああ、本当だ」

「やったああああ!!」

 直後、素っ頓狂な叫び声が家中に轟き、レノンが驚いて逃げ出した。イブが泣きながらシーナを抱きしめて喜んでいる。俺は首筋がむず痒くなる感覚に陥った。

「おい、喜び過ぎてシーナの背骨をへし折るなよ」

「そんなことしないもーん。ねぇシーナ」

「ねー」

 寝床が見つかって安心したらしい少女が二人、顔を見合わせて笑い合う。

「イブお姉ちゃん、優しい人で良かったね」

「ね。ちょっとカッコつけたがりだけどね」

 俺はイブに限って何か条件を上乗せしてやりたい衝動に駆られながら、財布から五百円玉を取り出した。

「早速だが、シーナ。これで家賃と、三人分のお菓子を買ってこい。おつかいには、行けるな?」

「うん!」

 初対面から少し打ち解けた様子を見せながら、シーナが弾んだ声を出し、小さな手で五百円を受け取る。

「この家を出て右に行け。そして二つ目の交差点を右、また一つ目の信号を右にまっすぐ行くとスーパーがある。売り場が分からなければこの空き缶を持って店員に訊くんだ」

 そう言って、道順を書いたメモを渡す。

「分かった。行ってきます」

 ボリュームのある髪を揺らしながら出て行こうとするシーナに俺は言い忘れていたことを付け足す。

「車と、おかしな人間には気を付けろ。何か怪しい奴がいたら全速力で戻ってこい」

「はぁい」

 素直に応じたシーナが出ていくのを見届けると、俺はイブの方に向き直った。そのイブはというと、何やら指を折りながら考えている。

「右に曲がって……あれ?ひょっとして家を出て左から行った方が早い?」

 俺は深いため息をつくと、勉強はできない方らしい市内の高校のブレザー姿の少女に言った。

「わざわざ遠回りさせたのは理由がある。イブ、俺の質問に答えてもらう」

「―――何から話せばいい?」

 また神妙な表情で俺に訊くイブに「できれば、生まれた時から順に話せ」と言った。

「そっかぁ。一番難しいところから来たなぁ」

 イブはそう言うと、「む~」と唸りながら、軽く頭を抱える。

「お前の話が終わるまで、口は挟まない。いいから全て話すんだ。信じるか信じないかは、俺が決める」

 “捜し物”で妙に気色ばんでいるヤクザ。突如として起こった“根本”の襲撃。動く様子の無い警察と行政。そして、襲撃の三日前に現れたこのイブという謎の怪力少女。全ては繋がっているような気がしてならない。その想像を確信に変えるためにも、まずはイブから話を聞かなくてはならなかった。

 俺の言葉を聞いて、居住まいを正したイブは、一つ深呼吸をした後、話し始めた。

「私ね、人間じゃないんだ。機械でできてるの。つまり、アンドロイド」

 なるほど、それは確かに初っ端から難しい話だ、と思ったが、約束通りリアクションはしないでおく。

「私の本名は伊武早矢香いぶさやかだけど、本来の名前―――っていうか登録名は“PPE0001-EVE”。戸籍名は、拾ってくれた育ての親がつけてくれたの」

 ヒト型ロボットを拾うという経験もなかなか得難いものだが、それに戸籍を与えた役所の職員も、人知れず偉業を達成していると思った。

「世間に出るといろいろ面倒だからって三十年も高校に通っていたんだけど、去年、教師だったお父さんが学校を定年退職して。それで私もようやく卒業して、アイドル目指し始めたの。ずっと憧れてたから」

 確かに、顔だけを見れば目指せそうな容貌をしているイブは、とりあえず地元の芸能事務所に入った。そこで与えられたのが『永遠の十七歳アイドル』というものらしい。

「なんだかんだ三十年も生きてきたから、一昔前のものとかも詳しいのね。アイドルって言ったら、お○ャン子クラブからAK○まで知ってるし」

 それは一昔どころの騒ぎではない。ほぼアイドル史の生き字引だ。

「それで『見た目が十七歳だけど、中身は三十歳って新しいんじゃないか』って」

 新しいのだろうか。最も、先達が意味するところとは全く逆なのでセーフ―――なのだろうか。どちらにしろ、細分化が極まったアイドル業界でもかなりニッチなところを狙いに行っている。隙間産業のさらに隙間だ。

「で、事務所の人も優しかったんだけど、仕事が入ったって連絡貰って行ったら、ビジネスホテルに、ちょっと怖い感じの男の人たちが三人くらいいて―――」

 初仕事で枕営業とは分かり易い。悪徳芸能事務所として、いっそ清々しくすらある。

 イブは少し言い淀みながら、続きを話す。

「え……エッチなこととかは、なくてね。何だか、変な機械みたいなものとか、血圧を測る機械みたいな奴とかで私の身体を色々調べ始めて―――」

 事情が変わってきた。いや、そういうプレイなのかもしれないが、そうすると別の意味で頭が混乱しそうなので考えずにおく。

「それでね、段々男の人たちから『違うな』とか『これじゃないのか』とか聞こえてきて、怖くなって―――」

 それはそうだ。大勢の男に囲まれただけでも恐怖感がある。高校を卒業したばかりの少女が一人きりなら、なおさらだ。

「それで、全員ぶっ飛ばして逃げてきたの」

「おい」

 いくらなんでも急展開が過ぎる。確かに、あの剛力は大の男三人程度ではどうにもならないかもしれない。

「いや、ほらあの、私、アンドロイドじゃない?結構力が強くて」

「ターミネーターか。まぁいい、続けろ」

「うん。一晩どこで過ごそうか迷ってフラフラしてたら、18歳くらいの女の子が声をかけてきて、それで“根本”に逃げ込んだの。あと、今着てる制服は、その女の子のものなの。着替えも持ってなかったから」

 なるほど、恐らく、イブを軟禁した人物と、“根本”の襲撃者は同じ組織の人間だ。イブが“根本”に逃げ込んだところを尾行でもされていて、芋づる式にシーナの居所が分かり、襲撃されたのだろう。

「ここまでが、私の話の全て」

「そうか……」

 イブの行動が、結果的に“根本”の襲撃を呼んだことは言わない方が良いだろうと思った。そして、しばし、沈黙が訪れた。どこにいるのか、レノンの鳴き声が聞こえる以外は、音もないまま時間が過ぎる。

 俺は考えた。何はともあれ、ここまでの話が一本の線で繋がったことになる。イブがビジネスホテルから逃げ出した日は、ヤクザ連中が動き出した時期とも合致するし、市長と懇意な成宮組が動いているのなら、警察が腰を上げないことにも合点がいく。

 だが、それでもまだ腑に落ちない部分はあった。安藤たちが探していたのがイブだったとして、あの“犬猿コンビ”がサラリーマン風の男を脅していたのは何故だ。それに、ヤクザが見た目年齢は十代後半のイブならともかく、年端もいかない幼女であるシーナを狙う理由が見当たらない。

「ねぇ、やっぱり私の話、信用できない?」

「え?」

 すっかり考え込んでしまっていた俺に、どうやら勘違いしてしまったらしいイブは意を決したように正座を崩した。

「じゃあ、証明して見せるから」

「お、おい、イブ、待て」

 イブは待たず、すっと立ち上がって、俺の方に来た。どうやら足が痺れる機能は無いらしい。

「ほら、見てみて」

 そう言うとおもむろにブレザーを脱ぎ出した。俺は呆気にとられてしまい、何も言えずにイブの行動を間抜け面で見ていた。

「よい、しょ、っと」

 小ぶりな胸を隠すブラジャーが露わになったので思わず目を逸らすが、イブは尚も言い募る。

「ねぇサブ、ここに触ってみて?」

 その声色は妙に扇情的で、俺は虫を払うような仕草をしながらイブに言った。

「よせ、お前の話は信じている。何をするつもりか知らないが、服を着ろ」

「何もしないよ。ただ、私の“中身”を見てもらいたいだけ」

 イブが俺の手を掴むと、それを腹に持って行った。細身の身体に触れ、その柔らかな感触が伝わってきたと同時に、炭酸の缶を開けた時のような音がして、イブの腹が“開いた”。

「ほら、見てよサブ。これで、私が死なないアンドロイドだって分かるでしょ?」

 俺は顔を向けると、イブの“腹の中身”を見た。

「ここに書いてあるでしょう?“PPE0001-EVE”」

 確かに、何がどうなっているのかよく分からない機械類と配線の塊の中に、アルファベットと数字の羅列を見つけることができた。少し手を差し込み、良く見えるようにする。

「あんまり変なところ触らないでね?なんか150年くらい未来を先取りした技術が使われてるらしくて、壊れたら大変らしいの」

 むしろ一世紀半くらいで済む方が驚きだ。俺はそっと開帳した腹を元に戻す。閉じるときの、カチッという音がいかにも機械的で間抜けで、俺は少し笑ってしまった。

「なに?」

「いや、よく分かった。お前の言うことは信じよう」

 そう言ったのは、無論、イブの“腹の中”を見たから、ではない。他人に自分の全てを曝け出してしまえる人間は、何があろうと信用するようにしている。

「……」

「……?」

 何故か、イブが固まった。どうかしたのだろうかと、改めてイブの驚いたような表情と下着姿の上半身をまじまじと見つめる。

「み……」

「み?」

「見るなっ!」

 現代に現出した女ターミネーター、もとい、羞恥心機能実装女性型アンドロイドの放った理不尽な制裁の拳が、俺の顔面を襲った。


 ―――数分後。

「で、さ」

 ブレザーを着なおすイブは、顔を赤くしながら、言いにくそうに口を開いた。

「お、女の子の裸を見たんだから、た、タダってわけにはいかないと思わない?」

「おいおい、しょれは当たり屋か送り付け商法の手口だじぇ?」

 俺の喋り方がおかしいのは両頬が盛大に腫れているからだ。そう、イブは自分から脱いでおいて、まさかのワンツーパンチを食らわせてきた。その上で金も要求しようというのだから、なかなかの小悪党だ。

「良いじゃないちょっとくらい、あんな風に、男の人に身体を見せるの、初めてだったし」

 さらに耳まで赤くなっている。精一杯の脅迫なのだろう。少しは付き合ってやることにする。

「それで、要求はなんだ?」

「……家賃、一回だけまけられない?」

 ―――え?

「そうすると、お前の裸が猫の餌と同等ってことになるがいいのか、それで」

「だってほんとに一銭も無いんだもん……。食費とか光熱費とかもあるでしょ?絶対無理だよぉ」

 実年齢は三十だが、精神年齢と頭は中学生くらいのようだ。俺はため息を一緒に言葉を吐く。

「こちとら、駄猫の餌代が無くて蹴り出すほど薄情じゃない」

 俺は畳の上に寝転がり、言った。

「好きなだけいろ。金は―――そうだな、『永遠の十七歳』が売れた時にでも請求するさ」

 しばらく反応が無かったので、どうしたのだろうと起き上がろうとすると、イブがのしかかるように抱き付いてきた。

「ありがとう!!」

 首のあたりに腕を巻き付けて言う。

「うるさい!そして結構重い!何キロあるんだお前!」

「何キロだったかな。まぁ、ロボットだし、見た目より重いんじゃない?」

 答えながら上半身を持ち上げ「うーん……」と小首を傾げるイブの大きな瞳は、先ほど見た機械的な感じは一切受けない。見た目の年頃より、少し顔も声も頭も幼いが、仕草や言動の一つ一つをとっても、俺たち生身の人間との差異は見受けられなかった。

 先ほど触れた腹部も、息がかかるほど抱き付いた時に摺り寄せてきた頬も、今現在マウントポジションのような体勢で俺の腰のあたりを挟み込んでいる太腿の感触も本物と遜色がない。

「あれ?サブ、なんか顔赤い?」

「気のせいだ」

 またきょとんとした表情のイブをどかそうと顔を動かすと、目の前にはイブの履いている短いスカート。それだけならまだ良かった。ブラジャーとお揃いの、その中身まで見えてしまっているのは―――

「……なんてこった」

「何が?」

 俺の視線の先を見たイブが顔を上気させたのと、シーナがおつかいを終えて意気揚々と帰ってきたのはほぼ同時だった。

「サブぅ、買ってきたよぉ。レノンのごはん……あり?イブお姉ちゃんと何してるの?」

「総合格闘技ごっこだ。今から“パウンド”ってやつが始まるから、シーナは目を塞いでいろ」

 それが俺の断末魔だった。直後、顔面にパンチの嵐が降ってきた。

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