9.出会い


 2016年。7月2日。PM13:00。俺はナゴヤ駅前にいた。

 今日は月曜日。本来なら、バイト先で昼の休憩を終え、改めて単純作業に従事しなければならない時間である。

 だが、アルバイトは土曜日付けで辞めていた。急な話ではない。一カ月ほど前、俺が二十歳の誕生日を迎えた日には部長に話をしていた。

 ヤイリのアコースティックギターを構え、誰も立ち止まろうとしない雑踏に向けて歌い始める。

 ヒロは全治二週間ほどらしい。医者はヒロに施された刺青を見て難色を示したが、事情を話し、既に足を洗っていることを理解してもらえると入院することが叶った。

 当然というか、無保険者なので治療費も入院費もバカにならない。実家住まいの利で得た微々たる貯金は、ほとんど飛んでいくだろう。ヒロには、これからやる仕事で少しずつ返せと言っておいた。一応、無利子だ。

 しかし、俺はというと、人に堅気で生きることを押し付けておいて、これだ。

 だが、本気で叶えようとしていた夢に破れ、それでもダラダラと続く人生のために、一日中螺子を打ち続ける。そんな、とりあえず心臓を動かしておく延命措置のような生活、アホらし過ぎてやっていられない。ただ生活のためだけに、あのような退屈な労働に勤しむことは、どうしてもできないのだ。

 守るべき生活も、養うべき家族もいない。なら、“趣味”である音楽を好きなようにやるのも悪くないだろう。金の話は、またそのうち考えればいい。素寒貧すかんぴんになって死ぬのならそれも良い。人は、死ぬときは死ぬのだから。

 スクリームキャッツの佐倉さんもそうだし、あの夏の友達“なっちゃん”もそうだ。ある日突然死んだ。だから、いつ死んでも構わないように、今自分が本気でやりたいことをやろうと思って、学校をドロップアウトした。夢を抱いた。敗れた。生き続ける理由を失った。もう何もない。

 あの日、『引退ライブ』と銘打って行ったライブで、音楽活動を自分の手で幕引きにした日に、俺は本当の意味で“いつ死んでも構わない人間”になった。なら、あとは好きなことをして“余生”を過ごすだけだろう。

 『過ごす日々』から『過ぎていく日々』へ。少しばかり早い老後が訪れたのだ。今日はとにかく、喉が嗄れても歌ってやろう。新しい人生のためのファーストライブだ。

「……」

 しかし、俺は歌い出して数秒で、それ以上先を演奏することができなくなった。

 理由は分かっている。この生き方に、明日は無い。金にならないと分かり切っている歌を歌い続けるのは、ただゆっくりと自分を殺していく行為だと分かっているからだ。いつ死んでもいいと思いながら死ねずに生きていくのは、生きながら死んでいるのと何一つ変わらないと、分かっているからだ。

 なんのことはない。俺は音楽の才能もなければ、生きていく才能もないのだ。

 考えが情緒に流れると、碌なことにはならない。分かっていても、止められなかった。

 いつ死んでもいいのに、こうして、誰も足を止めない、誰も必要としていない歌を沿道で垂れ流し続けている。叶わない夢を追い続ける日々を抜けたら、叶わなかった夢に追われ続ける生活が始まって、どちらも同じくらい苦しくて辛い。でも、まだ死んでいない。どうすればいいというのだ。

 俺は大きく息を吐くと、手に持っていたピックを地面に落とし、俯いた。拳を握りしめ、自分の喉からせり上がってくるものを小刻みな呼吸で抑えつつ、つま先一つ動かせなくなった。

 音楽が、俺の世界を変えてくれた。本当にそうなのだろうか。今、俺が立っているのは後も先もない袋小路だ。

 目の前を過ぎる雑踏は誰一人思考の泥沼にはまる俺を見ない。人波の中、立ち止まり続けている。

 こんなことなら、音楽など始めなければ良かった。曲など作らなければ良かった。生き続けることを辛いと思いつつ、死ぬことも怖いなら、いっそ―――

「生まれなければ良かった?」

「―――え?」

 俺は突然聞こえた声に顔を上げた。

「どうしたの?歌わないの?」

 目の前にいたのは、手を繋ぎ合った二人組。一人は十代後半、もう一人は小学校低学年くらいの少女だった。市内にある私立高校の制服を着ている方が俺に訊く。

「いや……俺、何か声を出していたか」

 やってきた、というより、現れた、という表現がしっくりくる。それほど忽然と、この二人の少女は姿を現した。

「ううん。ただ、そんなことを思っていそうだなって、思っただけ」

 フフッと悪戯っぽく笑う顔と、アニメにでも出てきそうな声は幼いが、どこか超然とした雰囲気を讃えている。

「でもね、お兄さん、そんなことを思っちゃだめだよ。この世界にはね、“生まれたのに死ねない人”だっているんだから」

 訳の分からない言葉に困惑し、俺はもう一人の少女の方を見る。ビー玉のような円らな黒い瞳がじっと俺、というか俺のギターを珍しそうに見つめている。俺はふっとため息を吐く。

「お客さんがいてくれるなら、少し歌おうか。俺は霧島三郎、呼び名はサブで良い。あなたの名前を教えてもらえるか、若い哲学者さん」

 真っ昼間の駅前で身分不詳のストリートミュージシャンと学校にいなければならない少女たちが会話をしているというのに、雑踏は、相変わらず全く関心を払わない。

 だが、何の根拠もないが、俺にとってこの出会いは、とても重要なことのように思えた。それこそ、今までの生活が全てひっくり返ってしまうような―――

「ナゴヤが生んだ永遠の十七歳イブです!アイドル目指して修行中!よろしくねっ!!」

「…………」

 世界が、静止した。一応感想を言っておくと、“ダブル裏ピース”というポーズがあるのか、ということだった。

「……あれ?」

 どうやら少女は滑ったことに気が付いたらしい。さて、この出会いで、今までの生活がひっくり返って―――いやぁ、これは……。

 とりあえず、俺はこの時最も適切と思えるリアクションを取ることにした。

「えぇ~~~……」


[第一話 エヴァネッセント・サマー]終    

続く

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