8.夏

 ―――7月1日(日)。AM10:00。俺は、安藤に言われた通りの時間にイリナカの木造住宅の前に着いた。

 梅雨が明け、からりと晴れ渡った日曜日の午前中だというに、気分は週明けの曇天模様だった。

 遠くから聞こえてくる、アブラゼミが羽を鳴らす音さえ煩わしい。非常にナーバスになってしまっている。しかしながら、自分が蒔いた種である。自分で摘まねばなるまい。と、覚悟を決めるようにグッと腹に力を込め、逆に肩の力は抜く。ライブハウスのステージに上るときと同じルーティンだ。

 安藤ら成宮組が使っている木造一軒家のドアを開けると、生活感の少ない木の匂いが鼻腔をついた。俺は顔をしかめる。まるで“あの場所”のようだと思った。夏にしか会えない友達がいた、あの“鳥籠”のような家。

 靴を履いたまま玄関を抜け、殺風景な廊下を進み、急な階段を上っていく。そして、右から二番目の部屋の前に立つ。これも“あの場所”と妙に似通っていて、腹がむかむかとしてくる。

 この先には組から破門され、徹底的なリンチを加えられた柿崎がいるはずだった。一応、名目上は安藤が手前で握りつぶしてきた諸所の不祥事が組長にばれたということにしてあるが、無論、柿崎をヤクザの世界から足抜けさせる口実だ。不自然な理由をでっち上げなくて良かった分だけ、あいつが馬鹿で良かったと思う。

 頭の悪い、それでいて裏の世界で生き残る才覚の無い奴は、黙って堅気の仕事でもやっていればいいのだ。と、自分に言い訳をするように思っていると、ドアが開いた。金曜の夜に会った舎弟の男が部屋からのっそりと出てきた。

「よう。“恋人”は、まだ警察署か?」

 鮮血で汚れたスキンヘッドに言ってみると、犬居は今にも噛みつかんばかりの形相を向ける。さながら狂犬病か。

「お前がチクッたのか、柿崎を」

「だったらどうする。帰りの会で学級裁判にでもかけるか」

 犬居が逆上する気配を感じたとき、後ろからその肩を掴む手が現れた。

「止めておけ犬居」

 安藤の温和だが四の五の言わせぬ物言いに、犬居が忠犬ハチ公よろしく縮こまる。

「今日はお疲れさん。ほかの連中には漏らすなよ」

 よく言い含められた犬居は、「お疲れさんです」と言い残し、帰って行った。残った俺と安藤の間で、非常に気まずい沈黙と、無言の会話が数秒間繰り広げられた後、俺が先に口を開く。

「救急車は俺の方で呼んだが、大丈夫か」

「ありがとうございます。ウチの方で動いても良かったんですが、大事にはしなくなかったので」

「どんな状態だ」

「ぼろ布みたいですが、死ぬことはありません。やり方は心得ていますので」

 あくまで冷淡に努める安藤の声には明らかな感情を揺れが伴っており、俺はこの男の葛藤を察した。

「治療費が高くつきそうだ」

「我々の方で払います」

「ダメだ。ヤクザに借金なんて、末代までの恥だ」

 俺の言葉に、安藤は笑った。目元に皺を寄せる表情が泣いているように見えるのは気のせいだと思う。

「―――堅い方だ。それでは、失礼します」

 安藤がいなくなると、俺はそっとリンチ部屋の中に入った。カーペットが敷かれただけの何もない部屋の真ん中に、壊れた人体模型のようなものが仰向けで転がっていた。

「ヒロ!」

 思わず、昔の呼び名で駆け寄ってしまうほど、柿崎の状態は酷かった。安藤の言う通り、丁寧に急所は外してあるのだろうが、あちこちの関節が曲がってはいけない方を向き、至る所から出血している姿に、思わず目を背けそうになる。だが、決して目は逸らさない。半分は自分が蒔いた種だ。

「安藤さん……なんで、なんで……」

 何本も折れた歯の隙間から、吐息のようにか細い声が聞こえる。

「ヒロ、大丈夫だ。もう大丈夫、きっと……大丈夫だ」

 何が大丈夫なものか、と、自らに毒づく。うわ言のように「どうして」と呟く柿崎に、俺も頭のどこかがイカレてしまったようだ。

 この幼馴染は、俺の自分勝手な判断で拠り所にしていたコミュニティを追われてしまったのだ。そして、時給1000円に満たない端金はしたがねで螺子を撃ち続ける生活を始める。何一つ“大丈夫”なことなど無いのは分かっているのに、俺は、そう言うのを止められない。

「もうすぐに救急車が来るぞ。大丈夫だ、ヒロ。大丈夫だからな」

 高湿度な窓の無い部屋の外から、蝉の鳴き声が聞こえてきた。

「サブちゃん……暑いな……」

 部屋に入って数分後、腫れきった目の隙間から俺を捉えた柿崎が、これもまた懐かしい呼び名で言った。どうやら記憶が混濁してしまっているようだ。

「そうだな」

 とはいえ、話せる元気はあることに少し安心して、俺は同意の声を上げる。

「今日から七月、夏だ」

「……俺が一番嫌いな季節になったよ。今日、そうなった」

 絞り出すような言葉と同時に流れてくる血と涙を見つめながら、俺は応えてやる。

「ああ、俺もだ」

 遠くから届いてきた救急車のサイレンを聞きながら、そう言った。


 10年前からずっと、夏は嫌いだった。

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