2.ストリートライブ
ぱらつく小雨は、梅雨の終わりを告げていた。
―――2016年。6月29日。ナゴヤ駅。
喧噪に気が付いたのは、歌い終わった後だった。ショーウィンドーが並び、巨大なマネキン人形がそびえたつ駅前の大通りで、二つの怒声が響いている。
「―――なんてこった。キイ、カナタ、もう今日は“根本”に帰れ」
本能で危機を察知したらしい“野良猫”たちが去っていく。
「さて―――」
両目がほとんど隠れてしまうほど長い前髪をかきあげ、状況を視認した俺は、ギターをソフトケースに仕舞い、ずっと聴いてくれていた伊野波さんに「ギター、見ていてもらえます?」と頼んだ。女性モノのジーンズすら少し大きいと語る細い足をこちらに進めた“ナゴヤの路上ライブウォッチャー”は痩せこけた顔を不安そうに曇らせながら「良いけど、大丈夫なの?」と、訊く。
「この往来で刺されることは無いでしょう」
「サブ君はたまに物騒なことを言うね」
時刻は二十三時に差し掛かるところ。六車線の大通りに面した『ナゴヤ駅 ノノちゃん人形前』の通りは、週末ということもあってまだほかのアーティストやバンドの周りは賑やかだった。閑古鳥が鳴いていたのはこの“霧島三郎ストリートライブ会場”だけだ。
伊野波さんがショルダーバッグにデジカメを仕舞う。路上ライブブロガーとしての仕事に切りをつけ、こちらの頼みを聞いてくれるようだ。再び、腹の底が縮むようなドスの効いた声が深夜の駅前に轟く。周囲を行き過ぎる人々は無関心を決め込んでいる。正しい対応だと思う。俺がおかしいのだ。
「行ってきます」
「……気を付けて」
恐怖はあるが勝算もある。もしダメなら、一も二もなく逃げ出そう、と、情けない覚悟を決める。脇に置いていたペットボトルの水を一口飲むと、仕事帰りのサラリーマンに絡むヤクザの舎弟二人の方へ、愚かな一歩を踏み出す。
営業時間を終えたショーウィンドーに追い込まれた四十台と思わしき小太りの男は、目の前に立ち塞がる暴力の気配にすっかり怖気づき、グレーのスーツを滝のような汗で濡らしていた。
一目で筋ものと分かる二人の男は、因縁をつけることが目的化したような五月蠅くて聞き取りにくい恫喝の声を上げ続けていたし、中年の方は何をしたのか知らないが、絡んでくる暴力団構成員に対して、時折「あ……」とか「え……」などといった不明瞭な受け答えをするばかりだ。およそ人間同士のコミュニケーションではない。俺は気を重くする。
「おい、その辺にしておけ」
飲んだ水の効果も虚しく緊張で喉がカラカラになっていたが、そこは腐ってもボーカルとしての意地と気合で乗り越え、張りのある声をヤクザの背中にかけることができた。いや、『やっちまった』という方が正しいかもしれない。
見たところ二十歳の自分より少し上くらいの巨大な体躯が振り返る。色物のサングラスにアロハシャツを着せた服装はコテコテだが、その分かり易過ぎるアイコンにこの国で生きてきた人間のDNAが反応し、生命の危機を告げる。
「あ?なんだ、お前」
一人の顔が怖い方(どちらも怖いが眉も髪の毛も無い方が怖いと思った。)が静かな声を上げ、息がかかる距離に顔を持ってくる。こういう連中特有の距離感だ。俺は微動だにせずその威圧を受け止める。一瞬でもビビった様子を見せたら負けだ。
「何の用かって訊いとんじゃオラぁ!!殺すぞ!!」
もう一人の方が、耳元で馬鹿でかい声を上げる。心臓が口から出そうな感覚に陥ったが、何とかして左心房に押し戻す。そしてさらに横隔膜に空気を入れ込み、口を開く。
「お前らの飼い主を捜してる。人の耳元でキャンキャン吠える犬を放っておく奴に説教をしたいんだ」
頭蓋の外と同じくらいツルツルであろう脳味噌にこちらの皮肉が伝わったかどうかは判然としないが、どうやら侮辱されたことは分かったらしい二人組が声もなく色めき立つ。堅気に舐められたとあっては末代までの恥。目の前で威嚇していた男が、いよいよ手を出してきた。
無言でシャツの首元を掴まれ、眉の無い額が俺の額にぶつかる。恐らく今まで何人かを再起不能に追い込んだと思われる社会の捕食者特有の目に零距離で睨まれた刹那、地元イチノミヤの実家で暮らす三人の家族の姿を走馬灯のように幻視したが、なんとか殺される前に二の句を告げることができた。
「安藤さんだろう、お前らの兄貴分は。あの人と、ここでは騒ぎを起こさないってことで話がついているんだ。消えろ」
舎弟にとっては雲の上の存在であろう広域指定暴力団『昇龍会』の直系組若頭の名前と「話は付いている」という言葉に眉なしの動きが止まる。
「なんでお前なんかに―――」
「親分との昔話をせがむなら、まずは手を離せわんぱく坊主。何なら絵本にして読み聞かせてやろうか」
気に入らない人間との会話に余計で軽率な冗談を挟むのは、昔からの治せない悪癖だ。かくして眉なしの顔が制御不能の憤怒に歪む。これは一発くらい覚悟しなければならないかと思ったとき、もう一人が呆気にとられた声を出した。
「安藤さん―――?」
俺は首だけを動かし左手を見る。通りの南側から、上品なダークスーツを細身の身体にぴったりと着こなす、錐のような顔をした男が歩いてきていた。眉なしの手の力が緩んだので払いのける。
「お……」
こちらへ、上等そうな黒靴をコツコツと鳴らし歩み寄る安藤は、人通りはそれなりにある往来の中、見る人間が見れば一目で“それ”と分かる存在感を醸し出していた。
「お、お疲れ様ですッ!」
一人が弾かれたように頭を下げると、もう一人も続く。ふと気付くと、俺の前に恫喝されていたサラリーマンはいなくなっていた。
安藤は二人に一瞥を送ることもなく俺の目の前に真っ直ぐ歩み寄った。
「サブさん、お疲れ様です。ウチのモンが何かご迷惑をおかけしましたか?」
ナゴヤを牛耳る昇龍会直参
「安藤さんよ、舎弟の教育がなってないぜ。所構わず堅気に手を出すんじゃチンピラと一緒だ。それに、俺との約束はどうなったんだよ。こことオオゾネ、カナヤマの路上じゃ騒ぐなって言ったよな?」
身長こそ175㎝の俺と大差ないが、二十年以上を裏の世界で生きてきた者が現場で鍛え上げた筋肉が安藤をそれ以上に大きく見せる。そんな男が腰を曲げ謝罪する。
「申し訳ありません。少しばかり捜し物をしていまして、あまり荒っぽいことはするなと言い含めておいたんですが―――」
面目なさそうにしながらもドスの効いた声で言い終えると、顔を上げ、初めて二人組に向き合う。身体は相手の方が大きいが、完全に圧倒されている。
「この方は、俺の恩人だ。覚えておけよ、次はねぇぞ」
言って、眉なしの腹に強烈なボディブローを叩きこむ。思わず口笛が漏れそうになるほど鮮やかなパンチで眉なしが崩れ落ちる。悶絶する男を見下ろしながら、安藤はもう一人に言う。
「
「は、はい!」
猿渡と呼ばれた方が、未だに荒い息をつく犬居を抱き起こす。
「犬と猿だったのか。よく仲良くしていられるな」
俺の言葉に猿渡が殺気のこもった目を向けるが、安藤がそれ以上の視線で圧し、すごすごと去って行った。
「一言多いのは悪い癖ですよ。血が昇ったら、あとでシメられると分かっても暴れる連中だ。注意してください」
よもや、やくざ者から言動を咎められるとは思わなかった。俺は口の端を曲げながら、浅黒い顔を見上げた。
「あんたこそ、なんでこんなところに一人で来た?」
「一人じゃありません。おい、もう出てきていい」
安藤の声に、柱の陰から金髪の男が出てきた。
「柿崎か。なんでそんなところにいた」
「あいつらにも面子がありますから、一人の方が都合が良いんです」
下っ端に締められるところを見られるのは嫌ということか。なかなか有能な上司じゃないかと思った。
「サブ、久しぶりだな」
人懐っこい犬か何かを思わせる笑顔で、組の舎弟兼安藤の運転手である
「安藤さん、こんなボディガードなら、いない方がマシじゃないか?」
喧嘩は強いかもしれないが、脳味噌の点で決定的に足りない部分がある。足を引っ張る機会の方が多そうだ。
「なんだよサブ、冷てぇなぁ」
「言えてます」
「安藤さんまで、ひでぇ!」
微笑した安藤がマルボロを口に咥えると、秒速で柿崎がライターを取り出し、点ける。半端者の暴力団員など辞めてホストにでもなったらどうかと思う手際の良さだ。
「それでいいのか、柿崎」
「何がだ?」
目が細く、頬が多少膨らんでいる愛嬌のある顔は、子供の頃から変わらない。俺の母親はこいつがお気に入りで、家に招くとおやつのグレードが気持ち上がっていた。
「……いや、何でもない。それより、サツが来たぞ」
結局のところ軽微な市条例違反でしかない路上ライブをしているストリートミュージシャンは、自然と警察の気配に敏感になる。本来はヤクザもそうでなくてはいけないはずだが、柿崎は気が付かなかったらしい。
無論安藤は気付いていて、落ち着き払った物腰で、こちらに歩み寄る二人組の制服警官に向き合う。
ベテランと若手の二人組。その後ろには、先ほど脅されていた小太りのサラリーマンがついてきていた。恐らく、近くの警察署に駆け込んだのだろう。俺が警察を呼べなかったのは、ついでとばかりに路上ライブも取り締まられるのを防ぐためだったが、これで俺の努力は全て水の泡となった。
「大木さん、深夜まで勤務お疲れ様です」
安藤が制服警官二人のうち、ベテランの方に向かって丁寧な挨拶をする。こうして見るとエリート営業マンに見えないこともないのが、逆に恐ろしい。
「通報があったんだが、こちらの人を恐喝していたやつを知っているか?」
警察官ともなれば、大抵の構成員の顔は頭に入っている。その中でもかなりの大物がいたことで若手は発奮し、ベテランは面倒くさそうな顔をしている。
「いいえ、存じ上げません。特に何もありませんでしたよ」
もうこちらで話は終わっているということか。しかし、安藤の
「何が“何もない”だ!ふざけるな!」
「んだとコラァ!!」
警官の怒鳴り声に、同じく沸点の低い柿崎が切れた。馬鹿だ。穏便にことを運ぼうとしている安藤の考えを分かっていない。
「なんだお前、逮捕するぞ」
「やってみろやマッポが!!」
「おいやめておけ柿崎」
安藤の静かな恫喝によって、手を出さんばかりだった柿崎が黙る。以前TVで、悪戯を咎められた犬が同じような反応をしていたことを思い出した。
柿崎をうるさそうに見ていたベテランが深いため息を吐いた。
「安藤、めんどくせぇんだから騒がすんじゃねぇよ。一人でいいから、とっとと首を出せ」
「―――明日中に対応します」
「よし、帰るぞ」
「……はい」
釈然としないものを抱えながらといった感じで、若い方も頷いた。どうやら“手打ち”は済んだようだ。恐らく明日中に猿渡か犬居のどちらかがナカムラ署に出頭することになる。そして三日ほどで釈放。ほかではどうか知らないが、ナゴヤではよく見られる光景だ。この街では、そういうことになっている。
「ああ、あと、路上ライブは取り締まらないで頂けますか?」
安藤が付け加える。迷惑をかけた俺への礼のつもりか。律義な男だ。
「しねぇよめんどくせぇ」
長年この街の表と裏の空気を吸い過ぎてすっかりくたびれてしまった風の老警官は、欠伸を噛み殺さんばかりに言うと、通報者であるサラリーマンの方を向く。
「ということで、あとはこちらが処理します。また何かあったら―――」
「ちょ、ちょっと待ってください!それだけですか?私は生命の危機を感じたんですよ!?」
納得できない様子のサラリーマンが大きな声を上げる。だが、それを制して警官は告げる。
「いや、深くつっついても良いんですがね、あなたの話の通り、何もしてないのに因縁つけられるなんて、あの手合いが相手とはいえ尋常じゃあない。そちらにも探られたくない腹があるんじゃないですか?この辺で終わりにしといた方がええと思うんですがね」
ベテランの勘とでもいうのか、何やらきな臭い匂いを嗅いだらしい警官に宥められ、サラリーマンの勢いが萎んでいく。
「もう夜も遅いから、家に帰りなさいな。ご家族も心配しとるでしょう」
「……わかりました」
納得はしていないようだが、引き下がることにしたようだ。どうやら探られたら困る“腹”はあるらしい。若い方がベテランに何事か目配せするが、定年を間近にして厄介な案件に首を突っ込みたくないのであろう警官大木は、その訴えを器用に無視する。
「じゃあな、てめぇらもいつまでも遊んでないで早く母ちゃんのとこに帰りな」
ひょっとして俺もヤクザの仲間に入れられてしまったかと思ったが、足早に消えた大木たちに堅気だと言える機会は無かった。最悪だ。
車道を行きかう車の音が鮮明に聞こえる程度には閑散としてきた通りに取り残されたサラリーマンが恨めしそうな眼をこちらに向けている。
「なんだおい、何か文句あんなら言ってみろや!」
かくして柿崎が威嚇するが、安藤が制する。
「やめろ。お前ももう帰れ、何か騒ぎ起こしたらぶっ殺すぞ」
「はい……お疲れさまです」
肩を落とす柿崎は、指示を忠実に守る。そんな背中を見送ったサラリーマンが小さく言う。
「――この社会の屑が」
その言葉は、何故か無性に引っかかった。俺は柿崎と違い安藤の忠告を守る立場にない。
「そう言えるほど、アンタの生き方は立派なのか?」
どうやら、安藤の言う“捜し物”はこの男のようだ。安藤が手を出さないのは俺との約束を守っているからで、早晩こいつは捕まる。そして、それを警察には言えない。そんなことをしている人間がヤクザの背中に「社会の屑」という言葉を浴びせられる身分とは思えない。
男は押し黙り、何も言わず去って行った。暫くその小さな背中を見送ると、安藤の方を少し見た。笑っていた。
俺はふっと鼻から息を吐くと、「ちょっと待っててくれ」と言って、荷物を取りに戻った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます