第50話

 ごしゅ、と鈍い肉の音が響く。

 しかし拳を持ち上げると、その奥からはまた、忌々しい声。

「くキ、ひ、ヒ……哀れだな、殺し屋……哀れだ、惨めだ……! キキ、ひひひ!」

 もう一度。顔面を殴打する。ぐしゃりと、先ほどよりも強く肉が潰れる。顎が歪み、男の声はさらに奇妙で、胸のむかつく不気味なものに変わった。しかし途切れることはない。

「所詮、殺し屋風情が、それほどまでに生きたがる……哀れ、だな。人並みの、安寧など……触れてしまったせいで!」

 もう一度。今度は歯が折れた。総司の拳に刺さっている。

「惨めに生きろ、無様に生きろ……! 殺すたび、お前もまた殺されて生きろ! くきひ、ヒは、はひヒははハハ――!」

 もう一度――それは今度こそ、哄笑を途切れさせた。

 破才は身体を一度だけ震わせて……全ての音を発さなくなった。忌々しい声が、永遠に途切れる。

「…………」

 立ち上がる際、呼吸が奇妙なほど落ち着いていることを、総司は自覚した。何かを達成したという興奮もない。ただ、自分の血が失われていく冷たさだけがあった。

 ちらりと、結生の方を見やる。彼女は当然、起き上がってなどいない。静かに、自分が横たえた姿のまま、そこにある。

 総司はそちらへ近寄らず、振り返った――いや、振り返ろうとしたしたところで、先にそちらから声が聞こえてきた。白々しい拍手と共に。

「やはり腕は確かだ。しかし随分と念入りに殺してくれたものだな」

 見れば、広間の入り口からひとりの男が入ってくる。見覚えはない、と思いかけるが……総司ははたと、何かの引力のように思い出すことができた。

 中肉中背で、歳は三十台か、四十台だろう。清潔に切り揃えられた短い黒髪の、どうということもない、ただいやに落ち着いているというだけが特徴のような男。見覚えがある。最初に研究所の様子を探りに来た時、現れた研究員だった。

 彼は顔がハッキリと見える程度の距離まで近付くと、足を止めた。血の悪臭が漂う中、渋面を作るわけでも、かといって笑うわけでもなく、淡々とした様子で、総司の背後にある死体を一瞥して。

「まあいい。いずれにせよその男には、もうさほど用がなかった。というより、いずれ始末する必要があったほどだ」

「俺は確かに万全じゃねえが……人を刺すくらいはできる」

 総司はナイフを持ち上げた。いつの間にか手にしていた、結生のかんざし。それを持っているだけでも全身の疲弊と、現れ始めた激痛で腕が震えそうになるのを堪えながら。

 だが研究員はそれを見越しているの否か、臆した様子もなく肩をすくめるだけだった。

「一度はその娘を助けたのだから、もう少し友好的であってもいいと思うがね」

「助けただと?」

「監禁されているのを発見してね。”あの子”に罰を与える意味でも、研究所の外へ出してやったのだよ」

「……恩でも着せてるつもりか」

「まさか。しかし我々はキミ自身とも関連がある――一年前、その男を殺せと依頼したのは私だ。というより、この組織全体と言うべきか」

 研究員は両手を軽く広げると、頭上を見やった。当然、そこにはただ無機質な天井があるだけだが、さらに上には研究所が建物があるはずだ。

「どうでもいいことだ」

 あっさりと告げて、総司は標的を正確に捉えるために目を細める。まだ飛びかかることはできない。一足で接敵し、攻撃を仕掛けることができない。

 そのためにじりじりと、相手が動き出さないように気を配りながら足を踏み出していく。

 ひょっとすれば、研究員はそれを見抜いていたかもしれないとさえ思えたが――彼は全く無視して、勝手に語り始めた。

「黒兼破才は優秀な頭脳の持ち主だった。特に人体改造の手腕においては特筆すべきものがあり、我々はそれを欲していた。……もっとも奴の方は、我々の研究とは多少、目的を逸していたがね。そのために我々の勧誘を一度ならず無視した」

「だから邪魔になった、ってのか」

「いいや。我々は別の方法で手に入れることにしたのだよ。奴がそこにいる娘にやったこととほぼ同じ――人体改造だ」

「ッ……」

 口の中に嫌な、凄絶な苦味を感じ、総司は思わず足を止めた。ざり、と靴底がコンクリートに擦れて音を出す。それは歯を軋ませる音でもあった。

「しかしその時の我々の技術はまだ未熟でね。蘇生と改造に少々失敗していたらしい。まして奴はよほど自分を殺した相手――つまりキミに恨みがあったのだろう。優秀だった脳は少なからず劣化し、キミへの復讐に駆られるばかりの狂人になってしまった」

「元から狂人だ。お前らと同じ、な」

 皮肉と悪意を込めて吐き出すが、研究員は全く耳にも入れていない様子で無視した。

「もっとも、それでもこれほどの”改造”を、僅か一日、二日で行えるとは思っていなかった。ひょっとすれば彼の脳は劣化したのではなく、復讐心という鍵が付けられてしまっただけかもしれんな」

「……どうでもいいことだ。つまりお前は、何が言いたいんだ」

 総司はまた精神を落ち着かせ、足を踏み出し始めた。

 会話を長引かせ、注意を怠らせるというのは無駄な努力かもしれないが、傷付いた自分の身体をさらに酷使するためには必要な時間だった。

 研究員が答えてくる。

「奴の死体は損傷が大きすぎて、もう使えないだろう。そこで別の優秀な死体を集めるために……優秀な殺し屋をひとり、雇いたいのだがね」

「答えを聞く必要があるか?」

 聞きながら、しかしその答えなど聞く気もない。進んだのはたった一歩か二歩だが、飛び込める位置にまで辿り着いている。

 総司はかんざしを握る手に力を込めた。研究員が首を横に振る。

「いいや。奴が行ったものと同等の脳改造くらいは、我々でもできる」

「死ね」

 床を蹴る。それだけで悲鳴を上げそうなほどの激痛だったが、もはや関係のないことだ。

 不思議と研究員の胸に付けられたネームプレートに目が向いてしまっても、彼が振りかぶった五指から、金属の刃が突き出したとしても。

 もはやそんなことは関係ない。

 ただ、殺す。

 目の前にいる敵を殺し、生きる。そのために総司は刃を振るう他になかった――

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