第45話
それは驚くべきことであり……全く想像した通りのものだった。実現してはならない想像。それが、想像よりも悪化した形で実現してしまったのだ。
見えたのは頭である。次いで身体が、最後には足が抜け出て、完全に室内に現れる。
人間である。服を着た、少女である。ぼろぼろの黒いタンクトップに、今は赤黒い斑模様に染め上げられた、白い稽古着のズボン。
「貫那!」
駆け寄る。ダストシュートから這いずり出た彼女は、そのままうつ伏せに倒れていた。
仰向けにして上体を起こさせると、目を見開いた顔が露になる。半端に開いた口で、肩を大きく上下させながら荒い呼吸を繰り返している。
「おい、大丈夫か? 何があったんだ?」
聞きながら、身体を見回す。全身が明らかに血塗れであり、傷の確認をしなければならなかった。しかし――
総司の目は、ある一点で止められてしまった。それは腹部辺りである。彼女の左腕が、そこに何かを抱えていたのだ。白色の光の下で、不要なほど青白く見える、歪な球形。それには一度だけだが、見覚えがあった。
「兄、上……」
答えを示すように、貫那の震える声が聞こえてきた。彼女の兄、徹真。その頭部だけが、彼女の腕の中に抱えられていた。
「……貫那、しっかりしろ。俺がわかるか?」
奥歯を噛み締めながら、総司は巻き起こる多くの激情を呑み込んで、努めて冷静に問いかけを続けた。頬に手を当てて、見開いたままの目をこちらへ向けさせる。冷たいかと思ったが、彼女の頬は意外なほどの高熱を持っていた。
「……総司……」
彼女は辛うじて、こちらを認識したようだった。か細い声。以前のような力強さは微塵も感じられず、最後の灯火を燃やしているようですらある。
「いや、間違っていたな。喋るな。意識があるならそれでいい。黙ってろ」
(細かな傷はあるにせよ、致命傷は見当たらない。血は……徹真のものか)
早口に告げながら、総司は彼女の状況を見て取った。声が弱々しいのは、単純にダストシュートを上るという荒行のせいかもしれない。
ただ、傷が全くないとは呼べなかった。両手足や露出した肌に、真っ直ぐな縫合痕を発見できる。しっかりと結び付けられており、荒行にも口を開けることはないようだが、明らかに今まで見たことのない痕だ。
さらに呼吸が異常に荒いのが気にかかる。胸と肩とが奇妙なほど激しく上下している。
「夢、兄上……」
「喋るなって言っただろ。お前はいいから黙ってろ」
「兄上……一緒に……私が守る……」
錯乱している、と思えた。総司を無視して、貫那は漠然と言葉を吐き続ける。あるいは何かを伝えようとして、錯乱した脳がそれをまとめられずにいるのか。
いずれにせよ、総司は止めさせようとしたが、無駄だった。彼女は続ける。
「助け……殺、す……”あの男”、だけは……」
「あの男?」
強調するように吐かれた言葉に、思わず聞き返したのはまずかったかと、失態を呪ったのは言ってしまった後だった。
ただ、それに応じるように貫那は声のトーンを上げてきた。掠れる声を、僅かながら以前のような、鋭く、殺気あるものにして。
「あれ、だけは……あいつは……黒兼、破才……!」
「な――!?」
総司は驚愕の声を上げた。
その名前を、忘れてなどいない。それどころか、ひょっとすればずっと思い出し続けていたとさえ言えるかもしれない。ただ無意識に避けていたのか。そんなはずはない、と。
黒兼破才。依頼を受けて一年前に暗殺した、人体改造を趣味とする不気味な医学者。
「あいつが……ここにいるってのか? 馬鹿な。あいつは殺したはずだ。俺が、確実に殺した。生き返ったとでも――」
まくし立てて、その言葉を口にした時、息を呑む。生き返ったとでも言うのか。そんなこと……あるはずがない。
貫那はそれを聞いていたのか否か、わからない。ただ彼女は、右腕を上げようとしていた。震える指。全く力を失った指が、総司の頬を望むように虚空でもがき。
「あいつは……悪は、私――っが、げは、ぁ!」
言葉の途中、彼女は大きく咳き込んだ。身体を大きく跳ねさせて、吐き出されたのは唾ではなく、鮮血だった。
顎から喉までを真っ赤に染め上げるほどの、彼女の体液。見れば彼女は涙も流していた。それもまた、赤い。怒りと決意に燃える炎のように、けれどその目は見開いたまま……それ以上、光を宿さなくなった。
それで最後の力を使い果たしたとでもいうように脱力して、鼓動も感じられなくなる。上がりかけていた腕が唐突に落ちて、冷たい床を叩いた。
「…………」
総司はしばし呆然としていた。一分か、二分か、もっと長くかもしれない。その間、当然かもしれないが彼女が再び生命を宿し、起き上がることも、声を発することもなかった。
「今更だが……訂正しておく。確かにいたな。暴虐で、理不尽で、非道な、わかりやすい悪党が」
呟くと。貫那の身体を静かに横たえさせ、立ち上がる。今までの警戒心など全く無視して無造作に部屋を出たのは、そこに誰がいようと関係ないと思えたからだった。
殺せばいい。見る端から全て、殺してしまえばいい。自分は殺し屋なのだから。
通路は相変わらず薄暗い白色と、実験室のランプの赤色とに照らされている。総司はそれらに背を向けて、明かりのない暗闇の通路へと向かった。
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