第44話


 主なものが血の臭いであることは明白だった。それも何年も積み重なり、こびりついたものと、最近になって付着したのだろうというものが混じり、凄絶な悪臭となっている。

 血には慣れているはずだが、それでも思わず口元に手を当て、総司は周囲を見回した。

 手術室と風音は言っていた。実際、内装は似たようなものだった。白い壁に白い床、白い天井。どこかくすんで、黒い染みが各所に付着しているが、構造は変わらない。

 天井から吊り下がった大きなライトの下には、手術台が設置されていた。周囲にあるのは用途のわからない機械や器具、薬品の乗った棚である。

 ただ、血臭や染みを除いたとしても、その部屋が異常であることは明白だった。

 機械も、器具も、薬品も、棚も、果ては手術台も。全てが横倒しになり、破壊されていたのだ。さらに床をよく見ればガラス片が散乱しており、天井をよく見ればライトが割れている。可能な限り荒らされた証だった。

「大昔に壊されたまま、片付けられてない……なんてことはねえよな」

 少なくとも、どの器具も機械も古びているようには見えない。近付き、触れてみれば、熱を持ったものすら存在する。

 自然な破壊でもないだろう。とはいえ研究員がこんなことをするはずもなく――などと考える必要もないだろうと、総司は奥歯を噛み締めた。

(蘇生実験のために殺し屋を使っていたなら、ここに運ばれてくるのは死体だ。が、確実にそれとは別に運ばれてきた奴らがいる)

 結生と貫那。

 彼女らのどちらかはここに連れて来られ、実験を行われそうになったに違いない。それは紛れもなく絶望的な確信だった。

 しかし希望を見い出せないこともない。ここが荒らされているということは、彼女らが生きている可能性があるということだった。実験前に意識を取り戻し、暴れたのであれば、逃げ延びた可能性も見ることができる。

(そうだ……その可能性だってある)

 半ば無理矢理に言い聞かせ、激昂しそうだった気を鎮める。しかしそうしていると、ふと疑問も浮かんでくる。

(どうして、あのふたりなんだ?)

 貫那については、それでも疑問は残るが、いくつか想像ができる。だが結生は研究所と関わりがない。風音の犯行を隠すとしても、他にいくらでもやりそうがあるだろう。

(そもそもどうして、俺は狙われていたんだ?)

 明らかに自分を貶めようとする罠が張られていた。しかし誰が、どうしてそんなことをする必要がある?

 考えてみるが、答えは出なかった。ただし思案する必要などなく、その全てを知る犯人は、すぐ近くにいるのだろうが――

 と、その時だった。

 総司の耳に、微かな音が聞こえてきた。

「なんだ?」

 通路を歩く音ではない。隣の部屋からでもない。音は室内から聞こえてくる。カンカンと鉄を叩くような音である。それが次第に、少しずつ近く、大きくなってくる。

 総司は音源を探した。低い位置、ともすれば地下――この部屋も地下にあるが、さらに下方から聞こえてくる。床に目を向けて、白光に輝くガラス片を横目に部屋全体をなぞる。

 すると、奥の壁に不可解なものを見つけた。扉とも違う。金属製の蓋というべきか。それはダストシュートだった。

 実験室にこんなものがあるということ自体、不可解ではあった。安易に捨てられるゴミなどないはずだ。ましてその蓋も不自然である――大きすぎる。横幅は一メートルを超えている。縦幅もかなりのものである。

 総司は急激な、胸のむかつく不安に襲われていた。足が思わず、そのダストシュートへと一歩、二歩と進んでしまうが、そうしてはならないと本能が告げてくる。断続的に続く音が、ダストシュートへ近付くたびに大きくなる。

 そして呼応するように、音からも近付いてくる。上ってくる。

 やがて……総司は金属製の蓋の目の前に辿り着いた。音も同じく、目の前にまで迫っていた。ガンッガンッと逆巻く激情のような音が響いている。

 息を呑む。身を屈めてしまう。取っ手に手をかけてしまう。息を荒げ、破裂しそうな鼓動を感じながら、総司は意を決して蓋を引き開けようとした。

 その時――

 一瞬早く。バンッと強い力で、蓋の方から押し開けられた。

「っ……!」

 咄嗟に飛び退く。数歩分ほど離れたところで、総司は即座に銃を構えた。そして注視する。内側から開けられたダストシュートの蓋。そこに――指が掛かっているのが見えた。

 人の指である。右手の親指を除く四本の細い指。白い肌だと思ったが、実際には毒々しい斑模様の赤色をしていた。それは総司が事態を理解できずにいるうちに、強く蓋の縁を握り込むと……擦る音を立てさせながら、ダストシュートの奥から何かを引き上げてきた。

「な……」

 銃を構えたまま、総司は絶句した。

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