第39話

 研究所は三つの研究棟に分かれている。

 表立って見える建物はそのうちの二つで、それぞれ部門別の研究がされている。

 そしてもう一つが、総合研究棟とされていた。

 ただしそこは最も小さく、また別の棟からしか出入りできない。加えて特別なパスが必要らしく、まさしく暗部を隠匿する”隠し部屋”としての性質を持っていた。

 まともに入り込もうとすれば、一日か二日を要しただろう。

 今は――ただ当然と、大手を振って通り過ぎるだけだった。

 風音がその特別なパスを有していることは、研究所の中でも周知のことらしい。誰も不審がる者はいなかったし、その付き添いに見知らぬ白衣の男が立っていても、一度は振り向くだけで疑念を投げかけられることはなかった。あるいは、反対に”パスを持った見知らぬ白衣の男が風音を連れていく”ということが日常的だという認識なのか。

 いずれにせよ、総司は風音の所持していた研究員の白衣を着せられ、所内に入り込むことに成功した。白衣が彼女の母親の形見だと言われた時には、死神に手を引かれているような錯覚を抱いたが。

「じゃーんっ。ここが私の部屋だよー」

 招き入れた部屋で、風音が嬉しそうに両手を広げる。そこは――まさしく、死神に連れて来られた先だった。

 そう言われても信じただろう。最初に感じたのは、異様なまでの鉄臭さだった。そこはそもそも”部屋”ではあっても、”居住地”ではなかった。

 端的に評するなら……拷問部屋である。

 薄暗い照明だけが照らす、窓のない四角い部屋。壁はコンクリートそのままの薄汚れた灰色をしており、ポスターの一枚も貼られていない。その代わりとばかりに鎖が垂れ下がっていた。人の首か、肩ほどの位置だろう。鎖の先端には、手枷が付いている。

 ただ、そこに繋がれているのは人ではなく、衣服だった。風音の私物だろう。以前に見たワンピースや、その類のものを吊るすハンガーが、鎖の根元に引っ掛けられていた。白衣もそこに掛けるよう言われる。

 隣にはボロボロになった木製の机らしきものがあり、上には風音が普段持ち歩いている鞄が置かれている。椅子もあったが、それは奇妙な形状をしていた。鉄製で、太く、複雑な骨組みである。椅子の足元には電気コードのようなものが垂れているのを発見できた。

 壁よりも黒く汚れた床の上には、数々の”器具”が転がっている。たいていは、どういった用途なのかわからない。手の平程度の小さな物、あるいは人の頭程度の物もあれば、寝台ほどの大きな物もある――ひょっとすればそれは、本当に風音が寝台として使っているのかもしれなかった。枕のように、分厚い石が置かれている。

 そうした不気味ながら、生活感をありありと感じさせる様は――明らかに滑稽だった。ともすれば冗談のように見えてしまう。

 しかしだからこそ、反対に総毛立つような畏怖も与えてきた。風音は明らかに、この異常な拷問部屋を”居住地”として受け入れているのだ。

「ちょっと狭いけど、いいところでしょー? お父さんがお母さんを殺したあと、私も大人になりなさいって、この部屋を貰ったんだー」

 広さにすれば六畳ほどの室内を、心底嬉しそうな足取りで歩き回ってみせる、風音。

 総司は嫌悪感と共に頭痛がしてくるのを堪えながら、とにかく状況を把握しようとした。

 部屋があるのは、総合研究棟の地下だった。そのため天井には辛うじて通風孔があるが、飛び跳ねても届きそうにない。背後には分厚い鉄製の扉。鍵は掛かっていない。部屋の外は……ここへ来るまでの道順しか見ていないが、分かれ道はあった。

 あとは風音についてだが――

「それじゃあ総司。今日からずーっと、ここで一緒に暮らそうねっ」

「……なんだと?」

 彼女はまたしても、突拍子もなく告げてきた。

 思わず眉を跳ね上げ、唖然と口を開けてしまう。

 風音はその反応が意外だったのか、きょとんと瞬きをしてから言い直してきた。

「だから、総司と私がこの部屋で暮らすの。同棲生活だね、えへへ」

「何を言ってるんだ、お前は……?」

「一緒に殺し合うのも嬉しいんだけど、一緒に暮らすのもいいなって思ったの! だって、もう邪魔なのはいなくなったんだから、総司は誰にも取られないもんね」

 頬に手を当てながら、「いっぱい迷ったんだよ」と無邪気そうな笑顔で言ってくる少女。

 総司は唖然とし続けていた。彼女の思考が、やはり理解できない。絶望的なまでに狂い、崩壊していると思わざるを得ない。

 いずれにせよ、総司はしばし彼女の言葉を聞き流して……酷くなるばかりの頭痛を振り払うように、首を横に振った。

「ンなこと……できるわけねえだろ」

「えっ? ダメ、なの?」

 心底から意外そうに、驚いた顔を見せてくる。そうした感情になるのもまた理解できなかったが――彼女が慌てながらまくし立ててくる言葉も、理解できなかった。

「あ、見た目はちょっと変かもしれないけど、きっとすぐに慣れるよ! 慣れちゃえばいいところなんだよ、ほんとだよ? ベッドもちゃんとふたりで寝られるし、足りないのがあったら用意するし……それにすっごく静かだよ! 総司、騒がしいの嫌でしょ?」

「…………」

 彼女はどうやら、セールスポイントをアピールしているようだった。沈黙を返すと、さらに焦る声が大きくなっていく。

「それにえっと、ここだけじゃなくて、周りもきっと気に入ってもらえるよ。楽しいところがいっぱいあるの。病院の手術室みたいなのがいっぱいあって、総司がよく使う、ナイフみたいなのもいっぱい置いてあるよ! 自由に使っていいって言われてるから、総司のお仕事にも役立つと思うな?」

「…………」

「っあ、あとあと、もっと奥には、運動場みたいな広い部屋もあるの! 実験用って言ってたけど、そこも自由に使えるから、ふたりで走り回ったりして一緒に遊べるよ。他には、えっと……私と一緒なら、時々は外に出てもいいと思うし!」

「…………」

「それに、それに……」

 沈黙を返すごとに、彼女は泣きそうな顔になっていった。あれだけ平然として殺人を肯定し、狂気に身を置く者とは思えないほど、まさしく少女めいた面だとも思えてしまう。

 ただ、だからといって心が動かされることはなかった。少なくとも、抱くのは――自分のような殺し屋には分不相応だろうが――哀れみだけ。

 総司はそうした感情を抱きながら、もはや打つ手がなくなったらしい少女に対し、もう一度首を横に振った。

「俺はここで暮らす気なんかない。そもそもお前と暮らす気が、だ」

「…………」

 今度は、反対に風音の方が沈黙した。呆けたような、目も口も開いた無表情を見せる。子供っぽい大きな目に、総司の顔が映り込む。それが微かに揺れて、潤み……

「どうして……」

 少女は震える唇で、小さく声を吐き出した。

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