第38話


 そこまでの観察を終えて、総司は短い吐息と共に心を静めた。改めて、言葉を発する。

「ここに、人が運ばれてこなかったか?」

「人が?」

「俺と同じ学生の女だ。重傷を負っている。……在原結生と、志保沢貫那」

 名前を告げることには若干の抵抗があったが、隠しても意味はないだろう。そしてどうあれ、研究員は首を横に振った。

「いや、知らないな。ここは研究所だ。治療は――全く行わないわけではないが、そう多いことではない」

「志保沢徹真という男が、ここで治療を受けていたはずだ」

「残念だが、少なくとも私はこの研究所内で治療を行ったことはない」

 取り付く島もない、という様子だった。

 中に入れろという要求も行ったが、当然だが拒否された。この研究員を殺してでも、という考えは全く意味のないことだ。研究員は門番ではない。

 脅して研究所内部の情報を聞き出すことも考えるが、殺すために痛めつける手段は知っていても、情報を吐かせるために拷問する方法はわからなかった。

 まして見た目にも大きな施設である。暗部を知らない一般の研究員がいる可能性もある。そしてこの男がそうである可能性も。

 そも。それらは学校にいる間に閃き、消した案だった。

 結局のところ、何もかもについて実行できない理由の方が勝っていた――というより、だからこそ何もできずにいたのだ。

(仕方ねえか……)

 渋々ではあったが、総司はそのまま引き下がった。訝る男に背を向け、その場を離れる。

 その途中、ふと振り返る。研究員はまだ門の奥に立っていたが、構わずに見据えるのは研究所そのものだった。

 外観は一般的な研究所。フェンスはあるが城壁ではなく、狙撃兵が侵入者を狙っているわけでもない。侵入しようと思えば、簡単に達成できるだろう。夜になればなおさらだ。

(つまり根幹は別の、侵入できない場所があるってことだ)

 そして結生たちが運ばれたのも、殺し屋が潜むのも、そこなのだろう。

「どうする……?」

 自分自身に問いかけながら、総司がやって来たのはまたしても、港だった。昨日と同じ。適当なコンテナを椅子として、夜になろうかという赤い海を見つめる。横を向けば、研究所の建物も見えた。見ることは容易だが、肝心の場所に踏み込むことは容易くない。

(何度か潜入して下調べをすれば可能ではある。しかし時間がない……だろう、たぶん。何をされているかわからねえ)

 結局のところ、研究所の暗部についてわかっていることは、ほとんどなかった。殺し屋を内包しているようだが、それで何をしているのか。病院でも葬儀屋でもなく、殺人が利益になりそうな施設ではない。

(内部からの協力者がいれば、その辺りも含めてわかるだろうが……くそ! 貫那の兄貴を探した方が早いのか?)

 徹真も姿を消していた。一度病院に戻るべきかとも思うが、結果は変わらないだろう。警察や消防に話を聞くべきかもしれない。

 ただどうあっても、彼は見つからないような気がしてならなかった。

 直感だが――恐らくは彼も今、研究所内にいるのではないか?

(どうしようもねえ……時間はかかっても、確実にやるしかねえのか)

 他の選択肢はもう思いつけない。ならば早い方がいいだろうと、総司は立ち上がった。

 ――いや、立ち上がろうとしたが。

「総司ーっ」

 突如として横から、馴染み深い声が聞こえた。そして同時に、やはり馴染み深い衝撃。コンテナに飛び乗る勢いで突進してきたのだろう。

 その力も、声も、衝撃も、もはや忌々しさと憐憫を抱くものだったが、ともかく総司は避けることもできず。”それ”に飛びつかれるままになった。

 横倒しにされそうになるが、手を付いて堪える。横を見やればやはり馴染み深い顔があった。制服を着た、風音。

「てめえ……!」

 瞬間的にいくつもの感情と、それと同じ種類の殺意が湧き上がる。結生たちの安否のため、風音と会うという目的は端に追いやられていたが、無になったわけではなかった。目の前に転がり込んできたのなら果たさなければならない。

 右腕は抱きつかれて封じられているが、左腕は動く。総司は懐に忍ばせていたナイフを取り出そうとして――

「待って! 私、総司に話があるのっ」

「話だと?」

 何を今更、と思うが、

「もし私が武器を持ってたら、総司はもう死んじゃってるでしょ? でもまだ生きてるよ」

「…………」

 言葉の意味は理解できた。つまりは命を預けてやったのだから要求を呑め、ということか。しれっとした顔でそうした要求をしてくること自体、狂気ではある。

 反駁も思い浮かぶが――事実、殺されていてもおかしくはなかった。潜入のことで頭がいっぱいになり、明らかに油断していた。その失策は認めなければいけない。

「……わかった、聞いてやる。なんの話だ?」

 とりあえず風音を引き剥がしながら、肩をすくめて話を聞く態勢を取る。彼女は嬉しそうに感謝を述べてきたが、話を促すと途端に表情を変え、しゅんとしたものになった。

「あのね。私、総司に謝りたいの。あのふたりのこと」

 結生と貫那だろう。ぞわぞわと首の後ろで何かが蠢くような、激情に似た感覚を抱くが、それはなんとか堪えて告げる。

「謝って許される問題じゃねえだろ。殺し屋の俺が言うのもおかしいけどな」

「許してほしいとは思ってないよ。それにふたりには、悪いことしたと思ってないもん。ただ、総司を怒らせちゃったから……それを謝りたかっただけ」

「…………」

 潔いのか決定的にずれているのか。難しいところではあったが、いずれにせよ彼女は「ごめんなさい」と言って頭を下げてきた。当然、それでどうなるわけでもないが。

 ただ再び顔を上げると、そこには明るい表情を浮かべていた。幼い子供が初めて親孝行をしようとする時などは、こんな顔をするのだろうかと思える。声音もその通りに、

「だからね。お詫びに、私の部屋に招待したいのっ」

「……は?」

 突拍子もない言葉だった。思わず間の抜けた声が出てしまうほどに。しかし唖然とするこちらを無視して、彼女は続けてくる。

「総司があの部屋を追い出されちゃったこと、聞いたの。それで、寝るところもなくて困ってるだろうなと思って」

「……何言ってるのか、わかってんのか?」

「えっちなこと考えてる?」

「そういうことじゃねえよ!」

 思わず声を上げる。それは理解できない思考に対する苛立ちを含むものだったが、風音はただの冗談めかした指摘だと思ったのかもしれない。けらけらと軽く笑うだけだった。

「とにかく、早く行こ? 私、あんまり出歩いちゃダメって言われちゃって」

「…………」

 風音が腕を引いて、促してくる。総司は酷い頭痛を覚えていた。この少女は心底、何を考えているのかわからなかった。ハッキリと、狂っていると言える。

 当然、そんな誘いに乗るはずもないのだが――

(……いや、これはチャンスか)

 思い直す。風音は研究所に住んでいると言っていた。ならば当然、この誘いに乗れば内部に侵入できるだろう。願ってもない協力者ではある。徹真よりも核心的な、研究所の暗部そのものの協力だ。

 それが明らかに狂った少女だというのは、気がかりではあったが。

(なりふり構っていられねえな)

 総司は促されるまま、立ち上がった。

 少女の顔が歓喜に輝く。ただしそちらは見ないまま――ただ行く先の研究所を見据えた。

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