第36話

(あの時から――)

 忌まわしい記憶の中を泳ぎながら、総司は目を開ける心地で独りごちた。

(殺し屋になっていたようなもんだ。戻ることなんてできなかった)

 目は閉じてなどいなかった。しかし見えるのはやはり、過去の光景ばかりである。

 白い部屋――そこが警察病院だと説明したのは、茶色いコートを着た男だった。そして彼が言った言葉も、鮮明に、今まさに聞かされているのと同じように思い出されてしまう。

「てめえの親父は、俺の部下だった。まあつまり警察官だったわけだが――それは流石に、てめえも知ってるか」

 火のない煙草を歯で弄びながら、彼は淡々と言っていた。淡々と……どうでもない、当然の結果を語るような素振りで。

「昨日、そいつの死体が見つかった。家に押し入ってきた奴らがいただろ? あいつらは言っちまえば殺し屋さ。医学がどうこう喚いちゃいるが、人を殺して遊んでるだけの連中だ。何しろ、今回もひでえもんでな――あいつを殺したのは、てめえの母親だ。そんで母親の腹を刺したのは、てめえの父親だ」

 そこで男の声が、面白がるように変わったのを覚えている。何が可笑しいのか、その時はあまりのことで怒りの感情も浮かばなかったが、今は……今はわかるかもしれない。可笑しな話だ。

「何をどうやったのかは、わからねえ。脅したのか、もっと別の、そうだな……例えば洗脳でもしたのか。とにかくてめえの両親は、殺し合いをさせられたってことだな。母親の方は生きていて、どうにかてめえの家まで逃げ延びたらしいが……てめえもそのうち殺されるだろうよ。例えここから離れても、奴らはどこにでもいやがるからな」

 そうして、銃を突き付けられたはずだ。脅しか、理解させるためだったのかもしれない。そうしながら彼は「生きたいか」と聞いてきたのだ。

(頷くしかなかった。生きたいかどうかなんて、子供の時分には理解なんかできなかったが……生きろと言われてたんだ、俺は)

 頷けば、警察官の男は満足したようだった。銃を下ろさず、引き金を引いてきたはずだ。弾のない、撃鉄だけを鳴らして。

「生きたければ、殺せ。丁度ひとり、殺し屋がほしかったところだ」

 戻ることなどできなかった。頷くことしかできなかった。そう言われたのだから。

 殺して生きろ。

(違う人生を望んでいたわけじゃない。今更、殺し屋が嫌になったわけでもない)

 ゆっくりと、視界に現実が戻ってくる。変わっていない、港。珍しくもそこに沿う道を通る車を目で追いながら、総司は陰鬱に息を吐いた。

 もはや母親にすらどれほどの思いを抱いているわけではないが――ただ一つだけ、応えられそうにない言葉がある。それが口惜しくはあった。

 『今よりも意味のある死を迎えなさい』


---


(あれを使ったのは失敗だったな)

 院長室へ続く廊下を歩きながら、男は嘆息した。

(殺し屋の捕獲はいいとしても、過度な損傷の上に逃げられる。余計な手間を増やす……まさしく子供だ)

 すれ違う看護婦が、会釈してくる。それを適当に返しながら、胸中の不満は止まらない。

(せめて白衣を着たがるのだけは、止めるべきだったか。精神を安定させるには必要だったのかもしれんが……母親の形見、だったか。くだらんな)

 吐き捨てながら、立ち止まる。見上げればプレートに、院長室と記されていた。

 ノックの前に、黒いスーツの上に羽織った、白衣のボタンを留めていく。不要だとも思えたが、それらしく見せるには有効だった。

(幸い、まだ私の関与は気取られてない。しかし時間の問題だ。ならば……)

 扉を叩く。返事を待ってから、男は中に入った。

「どうも、院長」

「いやいや、こちらこそ。さあ、どうぞこちらへ」

 やけに恭しく、似て非なる白衣を着た小太りの男――この病院の院長が歩み寄ってくる。

 面会の約束は取り付けてあった。偽名を使ったが、まあ構わないだろう。自分の名前は、良し悪しに関わらず、この界隈では知られていた。たいていは”悪し”の方だが。

 院長は来客用のソファーに座るよう促してきたが、軽く手で制する。特に長い話でもなければ、くつろいで話すものでもない。そうしたものは望んでいなかった。

 圧力を与えるように、院長の前に立つ。背丈は頭一つ分ほど、院長の方が低い。だからというわけではないが、顎を引きながら。

「余計な話は抜きにしましょう。少々、時間がないのでね」

「はあ……それはまあ、構いませんが」

「最近、ここに運び込まれた重傷者がいましたね」

「ええ。昨夜と……今しがたもです。何もない平凡な町ですから、少々驚いていますよ」

 考え込むような表情を見せたのは、患者の安否を気遣ったためだろうか。あるいは病院、引いては己の安寧か。

 後者であれば楽だと、男は期待していたが。

「聞くところ、昨夜の重傷者はまだ意識を取り戻していないとか」

「最善は尽くしています。先ほど運び込まれた患者も含めて」

「それはもちろん」

 返答はプライドというよりも、定型句という程度の意味だっただろう。現に院長は深刻さよりも、言い訳がましい表情を浮かべていた。

 男は好都合に、胸中で笑みを浮かべながら続ける。

「一命を取りとめたのは、院長の手腕によるものでしょう。ですが手腕だけでは、対応はできても対処はできない――ここの設備では命を維持するのも限界、とは思いませんかな?」

「……どういう意味です?」

 これも恐らくは定型句だろう。半ば理解しながらも、自分からは決して発さない。

 男は今度こそ、顔に出して薄く笑った。

「私の属する研究所には、彼女らの”治療”に必要十分な設備が整っています」


---


 ――首尾は上々だった。全くスムーズに事を運ぶことができた。

 組織であるということ、そしてその組織の名が表向きに認知されているというのは、悪いことばかりでもない。男は今更ながら、そんなことを再認識していた。

(もっとも、独りであればもっと楽だったのだろうが)

 皮肉は胸中に押し留め、今は自分の眼下に集中する。

 白い部屋。それをさらに眩くさせる白い光。その中に寝そべる――意識を失った、少女。

 男は筋張った手に、手術用の手袋をはめると、それを確認するように両手を持ち上げた。

 白光の中、その熱量すら気にならないほどの高揚を抱きつつ、告げる。

「では、”治療”を開始しよう」

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