第35話
病院は、どこに近いと言えば港だった。
そのため、結生をそこへ預けた後に港へやって来たのは、偶然とも必然とも言えた。
(あいつはきっと、殺してやった方がいい――)
潮風を浴びながら、そんな考えが浮かんでくる。
しかし今は怒りによってではなく、どちらかといえば同情に近かった。怒りは……決して失われないにせよ、極端に薄れているとさえ言える。
夕暮れの中、適当なコンテナの端に座りながら――そうした心境になってしまう理由は、考えるまでもなかった。
風音の言葉が頭の中を反響していた。それが別の形を取って、映像を作り出す。
見覚えのある光景。覚えていたくもないが、忘れることのない光景だった。
(十年か……)
まだ十七歳という年齢で年月を数えるというのは、愚かしい行為だとも思える。しかしそれでも、歳月の経過を意識せざるを得なかった。
十年前。その時から、殺し屋としての命は始まった――
生まれてから七年の間は、どうということもない、真っ当な子供だったように思う。全く記憶にないため、ひょっとすればその時から狂っていたのかもしれないが。
いずれにせよ、それは最も古く、最も鮮明な記憶だった。
「聞きなさい、総司……私たちはもう逃げられない。もうすぐ殺されてしまう」
記憶の最初にあるのは、そうした母親の声。帰宅したと思ったら、転がるように居間へと入ってきた母親。そしてソファーにぼんやり座っていた総司の肩を掴み、蒼白の顔で言ってきた、蒼白の声。
「だけど……私は少しでも、あなたを生かしたいの。総司……あなたは生きるのよ。どれほど汚れても、生きなさい……そして今よりも意味のある死を迎えなさい」
その時になってようやく、母の手にべっとりと血のこびりついた包丁が握られていると気付いた。同時に、母の腹部からも大量の出血が見える。床に血を滴らせていたのだ。蒼白だったのはそのせいだとまでは、その時はわからなかったが。
「だから、総司……そのために殺しなさい。ますは私を……そしてあなたに近付く全てを、殺しなさい……殺さなければ死ぬ。だったら、殺される前に殺しなさい……!」
言葉の意味が理解できなかった。しかし理解できず硬直する手に、母は包丁を握らせてきた。それを自分の喉下に突き付けさせながら。
「私は死ぬ……だけどあなたに殺されるの。総司、私を殺して……他の誰をも殺せるようになりなさい……! 殺す、殺すのよ、殺して生きるのよ!」
狂っている。言葉にはできなかったが、直感的にそうした感情を抱いたはずだった。
それはハッキリと、恐怖だった。しかし頭がそれに追いつくより早く――総司が母に対し、何かを言うより早く。包丁を握らされた手は、母の手によって喉へと突き立てられた。
刃が捻られ、血が噴き出す。総司はそれを見ていた。目を見開き、そこに血が飛び込んでくるのも構わず、ただ絶句していた。目の前で母が、自分の手によって死んでいくのを、殺されるのを見ていた。
全く理解ができなかった。
なぜ、どうして、そんなことになったのか。そうなる必要があったのか。
理解できず……総司は覆い被さるような母親の血を浴びたまま、呆然としていた。
「やっぱりここにいやがったか」
その時。聞こえた声は全く覚えのないものだった。低く、ドスの利いた、いかにも柄の悪い声。そして明らかに害意ある男の声。
母の身体に隠されて、その姿を見ることはできなかったが、近付いてくる気配はわかった。フローリングの床を、明らかに土足で闊歩する音。それが目の前まで近付いてきて、声を降らせてくるのだ。
「ガキを守るってか? 無駄なことで手間を増やしやがって」
男は母の身体を引き剥がした。その時になってようやく姿が見える。灰色のスーツを着崩した、小太りの男。それが訝しげに、覗き込むように下品な顔を向けてきていた。
「あ? てめえ、何持ってやがる」
男は総司の手に包丁が握られているのに気付き、それを取り上げようとしたようだった。
手を伸ばしてくる――その瞬間。
総司は呆然としたまま、それを思い切り突き上げていた。身を屈めた男の喉に目掛けて。
「が……!?」
全く不意を突かれ、驚愕に目が見開かれる。
脱力し、バランスを崩し倒れると、自然と刃も抜けて血が噴き出した。男は、もがいたらしい。しかしどうなるはずもない。すぐに意識を失うと、そのまま動かなくなった。
母と同じ――血の気を失った蒼白の顔で。
総司はまだ、理解できていなかった。自分が何をしたのか、どうしてそんなことをしたのか、どうして――しなければならなかったのか。
わからないが、母の言葉が響いていた。殺して生きろ。殺さなければ死ぬ。
「おい、どうしたんだ?」
また別の声が、居間に入ってくる。見知らぬ男。先ほどの男と同じような格好をした、今度は背の高い男。
彼は居間に転がったふたつの死体を見て、喫驚したらしい。そして無造作に歩いてきた子供――総司については気付かなかったらしい。その間に、男の足を切りつけた。
ぎゃっと短い悲鳴を上げて、男が倒れる。その身体に圧し掛かり、状況を把握できずにいる男の喉を刺した。三度目――また、同じ死体ができあがる。
「…………」
その頃には、総司は少しずつ理解し始めていた。理由はわからないまま。しかし確信があった。母の言い残した通りのことができた、と。
廊下からは玄関が見えた。扉は開け放たれており、夕暮れの空が広がっている。総司は半ば呆然としたまま、それを眺め続けていた。
やがて我に返ったのは、音が聞こえた時だった。正確に言えば、正気を取り戻したわけではないが。ともかく音、サイレンが聞こえて、総司はようやく時間の経過を理解した。
それは家の前で止まると、次いで足音が聞こえた。奇妙だと思えるほど落ち着いた足取りだった。それがやがて人間の姿を伴い、開けっ放しの玄関から、ぬっと押し入ってくる。
「ここだな、あいつの家は」
茶色いコートを着た、体格のいい中年の男。先ほど見たふたりなどより遥かに害意ある、危険極まりない顔付きをしていると思えた。
「なんだ? 子供……あいつの子供か」
総司は即座に駆け出した。なんの感情も抱けないほど呆然としたまま、しかし母の言葉を実行するために。男に向かって包丁を突き出す。狙うのは足だった。先ほどと同じ。
しかし――それは叶わなかった。男は容赦なく、総司の顎を蹴り上げた。
廊下の先まで弾き飛ばされ、仰向けに倒れる。背中を打ちつけ、頭も打ったらしく、瞬間的に視界がぼやけ、意識が朦朧とした。
その中で声だけが、男の声だけが聞こえてくる。
「てめえがこれをやったのか?」
怪訝と驚愕の混じる声。あるいはもっと別の……感嘆も含まれていたかもしれない。
「なるほどな。こいつは……意外な拾い物かもしれねえな」
意識は、そこで途切れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます