第33話

「…………」

 息を止める。詰まったとでも言うべきか。声を発することができなかった。

 絶句――

 放課後、風音がまとわりついてこなかったのは、幸運だっただろう。総司は心底、そう感じていた。可能な限りスムーズに帰宅できたことは特筆に価する。欲を言えば、全力で駆け戻ってくるべきだった。そうしなかったことに多少の後悔してしまうほどである。

 いずれにせよ総司は帰宅し、それを見つけた。そして、言葉を失った。

 冷静に評すれば、それほどまでに戦慄するものではなかったはずだ。それだけを見れば、総司にとってはある種の日常とも言える。

 しかし今、目の前に広がる光景は、そうした冷静な分析と、冷徹な虚勢を簡単に吹き飛ばすものだった。

 最初に目に入ったのは、割れた窓ガラスである。そこから夕陽が差し込んでいる。いつかのようにバラバラに砕け散ったガラス片が、炎のような赤い光を反射させて煌く。

 非合法の薄いガラスにしたのは正解だったかもしれない、などと場違いな考えが浮かんでしまうほど、総司は喫驚していた。

 その上に寝そべるように――倒れていたのは、結生だった。

 赤い、と印象を抱く。夕陽よりも数段、黒く赤い。彼女は動かぬままガラス片に、床に、制服に、真っ赤な体液を滴らせていた。

「どういう、ことだよ!」

 ようやく駆け寄る。仰向けにして抱き起こすと、しかしその傷はガラス片によるものだとわかる。出血自体も、一見したよりも深くはない。露出した手足や顔に細かな裂傷がいくつも生まれているが、幸いにして致命的な部位は無事である。

 ただ――致命的なものは他にあった。抱き起こし、身体に触れて初めて、彼女の身体が強い熱を帯びていることに気付く。肌には明らかな、火傷が見える。

 それも炎に巻かれたものとは違うと、総司は理解した――”体内が”焼かれているのだ。

「おい、結生! 何があったんだよ……どうなってるんだ」

 身体を揺さらないようにしつつ、代わりに声を上げる。彼女はまだ辛うじて息があった。紙一枚飛ばせないような微かなものだが、呼吸している。

 そしてそこに、声が乗る。

「逃げ、て……」

 彼女は真っ先に、そう言ってきた。

 そして言葉の後に薄っすらと目を開けると、意味がわからず怪訝に顔をしかめる総司を、焦点も合わないまま見つめて繰り返す。

「総司、逃げて……あの子は……」

「あの子、って」

「――……」

 結生は微かに、全神経を傾けなければ聞き取れないほど微かな声で、それを口にした。

 ひとりの名前。総司はそれを、確かに聞き取った――

「ここにいたんだね」

 その時、声が聞こえてきた。

 背後から。つまりは玄関から入ってきた、何者かの声である。曖昧とした本当の子供のものとはまた違う、明確に”子供っぽい”と呼べる声。

 総司は再び意識を失った結生の身体を寝かせ、ゆっくりと立ち上がった。振り返り、睨み据える。そこにいたのは、わかりきった相手だった。名前を呼ぶ気にはなれない。しかし頭にはハッキリと浮かんでくる――結生が先ほど発した声として。

 桐淵風音。

「……てめえが、やったのか」

「それのこと? そうだよ、私だよー」

 少女はあっさりと頷くと、悪びれる様子など一切なく、笑みすら浮かべてきた。

「どういうことだ? どうして、こんな……」

「どうって、邪魔だったから?」

「邪魔……だと?」

 聞き返すと、彼女はまた元気に頷いた。

 そして総司がさらに何か言うより早く、無邪気に言ってくる。

「でもそれ、やっぱり悪い子だね。せっかく私がぴったりの部屋をあげたのに、脱走して総司の部屋に上がりこんじゃって」

「ぴったりの部屋?」

「そういえば、あの時はお話できなかったっけ。私ね――浦ヶ崎生体医工学研究所っていうところに住んでるの」

「……!」

 笑顔のままで告げられた名前に、総司は思わず息を呑んだ。脳を殴りつけられたような衝撃に襲われ、目を見開く。

 目の前で笑顔を絶やさぬ少女はしれっとした様子で――しかしさらに追い討ちをかけるように、手にしていた鞄から白い布を取り出した。

 それを羽織る。いつか見た、研究所の白衣。

「前に、この格好であったよね。あの時はヘルメットもあったし、喋っちゃダメって言われてたから、わかんなかったと思うけど」

「てめえが……あの時の、殺し屋か!」

「殺し屋じゃないよー」

 膨れるように口を尖らせる、少女。ちょっとした軽口でも言われた程度の反応で、彼女はすぐに笑顔に戻った。快活に訂正してくる。

「だってゴミの焼却場で働く人は、殺し屋って言われてないでしょ?」

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